白い花の唄

笛吹カトリ(karicobo)の日記、一次創作SF小説『神隠しの惑星』と『星の杜観察日記』のブログです。

ピアノ図書館 (その1)

2020年03月17日 21時31分11秒 | 星の杜観察日記

この漫画(トンちゃん5歳時)よりさらに3年後。人文学の唐牛(かろうじ)教授の研究室で、葵さんは助教授、ノンちゃんは助手という間柄です。

◇ ◇ ◇  ◇ ◇ ◇  ◇ ◇ ◇  ◇ ◇ ◇  

 写真の中の母はいつまでも若々しくて、いつ見てもぎこちなく微笑んでいる。2歳で亡くなった母の面影はおぼろげにしか覚えていない。ショートカットにささやかなピアスをつけた、この飾り気のない女性が自分の母親だなんてピンと来ない。俺は母の年齢を追い越してしまった。

 その小さな私立図書館は昔から利用者に”ピアノ図書館”と呼ばれている。

 閲覧室の地下、書庫の隅に古ぼけたアップライトピアノがあって、司書は一日一回一曲はピアノを演奏すること、という理事長の厳命なのだ。弾ける人間が誰もいない時は、館長が人差し指で唱歌を弾く。常連客は慣れたもので、”今日ボク弾きましょうか”と申し出てくれたりする。ピアノを習っている子供は、わざわざ弾きにやってくる。そんな図書館で、母は時々のんびりヘンデルを弾いたりしていたそうだ。壁に架けられた集合写真は、母が治療のために休職する直前に撮ったものだそうだ。同じものを病室の枕元に飾っていたらしい。入院の準備で切る前は、背中まで届く長い髪を毎日いろんな形に編んでいたそうだ。化粧もしない。シンプルな服しか着ない。そんな母の一番の装飾は、小さな王冠のように編み上げた髪だった、と後で聞いた。その集合写真の右端に痩せっぽちの女学生が写っている。それが今の俺の母親だ。
 図書館の廊下には他にもいくつかフレームに入った写真が飾ってあって、もう一枚はピアノの前で蝶ネクタイにウエストコートの細身の青年が写っている。彼と俺の関係はいささかややこしい。今の母親の姉の配偶者の、そのまた弟に当たる。従兄弟の妻の父親とも言える。俺の下宿先の神社に婿入りした元当主。俺の師匠の愛弟子。そして、俺の最大のライバルなのである。彼は俺が高校生の時に消えてしまったので、俺はいつまで経っても彼に勝てないのだ。
 もう一枚の写真には和服の青年が写っている。細面に長髪の、こちらもなかなかのイケメンだ。理事長の亡くなった兄上だそうだ。元・理事長、つまり理事長兄弟の祖父は本草学や博物学の研究家で、このイケメンは三代目。今の理事長は非実用的な父や兄の趣味に懐疑的だったそうだが、結局父親の遺志を継いでこの図書館の管理をし、兄の遺したピアノを書庫に置いた。蝶ネクタイの青年は写真に撮られた当時人文学部の学生で、絵馬務の研究をしていた。この書庫に通って文献を読んでは暇暇にピアノを弾いていたそうだ。

 一日一回ピアノを弾かないと、書庫の古書から何か出てきて悪さをする、というのが子供たちのもっぱらの噂である。

「ああ。高山くん、お待たせして」
 司書の岩井さんが司書室から出て来た。
「あ、お母さんの写真見てたのか。明(あかり)ちゃんは特に子供に人気でねえ。絵本の読み聞かせとか、児童書を元にした劇の脚本を書いたりもしたんだよ。話したっけ?」 
「いえ、初耳です」
「そうかそうか。こうして君もここの図書館に通ってるし、高校生だった希(のぞみ)ちゃんも今じゃベテラン司書だし。それにまだ、新(しん)くんの家に下宿してるの? 不思議な縁だねえ」
「本当ですよね。それでこれなんですが」
 しみじみ目を細めている岩井さんに、丁寧に修理された和綴じ本を3冊差し出した。
「そうそう。これこれ。青森の大学から閲覧申し込みがあったんだけど見つからなくって、あ、こりゃ唐牛(かろうじ)先生とこだなって」
「先生、一昨日までヨーロッパだったもんで返却が遅れて。大丈夫ですか?」
「大丈夫、大丈夫。何せのんびりした学問だからね、博物学なんて」
 そういう岩井さんも、この道では名の知れた在野の研究者である。
「わざわざ届けてもらって申し訳なかったな。先生にもよろしくお伝えください」
「はい。またそのうち伺います」
「はいはい。今度またうちにも寄って。鍋でもやろう。寂しいやもめ暮らしだから」
 何せ俺がお腹にいる頃からのつきあいだ。親戚のおじさんみたいなノリである。
「ありがとうございます。じゃ、神社のお下がりの酒持って寄らせていただきますよ。それから咲(えみ)さんがこの週末、神社の方にぜひ、と言ってました。山菜もらったんで、天ぷら大会やるそうです」
「そりゃいいな。後で神社に電話してみるよ」
「はい。じゃ、週末に」
「はいはい。あ、高山くんのことだから平気だろうけど、一応、帰り道気をつけて」
 この図書館でのお決まりの挨拶だ。帰り道によく転ばされるそうだ。何かに。
「あはは。大丈夫です。でも気をつけます」

 図書館を出たところでケータイを見ると案の定メールが来ていた。お遣い先の追加だ。橘さんで粟もちを4つ。ミルフィオリでダージリンゼリーを4つ。4つ? 俺も含めて唐牛先生と宮本先生で3つじゃないのかな。今日は葵さんはいないし。木曜日は事務官の谷さんは午前中で帰るはずじゃなかったっけ。明日、彼女が来た時用に取っておくのかもしれない。それとも宮本先生の奥さんにかな。とにかく俺はマウンテンバイクを商店街の方に向けた。

 俺と、俺の下宿先の葵さんは同じ大学の研究室の同僚だ。元々2人とも唐牛教授の同門で、葵さんが先に助手になったので俺にとって指導教官ということになる。大学院を経て俺は助手になり、葵さんは助教授。17歳の年齢差以上の格差がある。ついでにつけ加えると、葵さんは図書館の写真に写っていた蝶ネクタイの青年の未亡人である。葵さんの娘と俺の従弟が幼なじみで、彼らが結婚したので、俺と葵さんは遠い親戚関係になった。
とにかく同じ敷地に住んで同じ職場に向かうので、毎朝葵さんのゴルフの後ろにマウンテンバイクを積んで一緒に出勤する。今日は学生3人連れて葵さんは山村の農耕儀礼の取材に行ったので、留守番の俺はバイクで帰ることになる。
 宮本先生は俺たちの職場からバイクで20分ほどの公立大学の教授で、俺たちの共同研究者でもある。昇任したばかりでしかも新婚だ。実のところ、宮本先生が長年、未亡人の葵さんにホの字なのはこの界隈では公然の秘密だったのだが、当の葵さんにはちっとも気づかれず、あきらめて元教え子のショートカット美人と結婚した。彼女と俺が一時期付き合っていたのはトップ・シークレットだ。彼女、珠里くんは頭が良くて勘が良くて、一緒にいるとインスピレーションがポンポンはじけて最高のゼミ仲間だった。背が高くて動作が機敏で、ちょっと中性的な魅力があった。彼女から言われて付き合ったが、彼女から指摘されて別れた。

「望(のぞみ)くん、あなた好きな人がいるでしょ」

 宮本先生の新居に遊びに行くと、珠里くんは明るく迎えてくれて時々ウィンクを寄越したりする。幸せそうだ。俺なんかと結婚しなくて良かったとつくづく思う。珠里くんと葵さんは丸っきり違うタイプの女性だ。どちらも頭の回転が早くて朗らかだけど、樹里くんの論理展開、発想の筋道は俺には理解できる。葵さんのはさっぱりわからない。素っ頓狂でいつも予想を裏切られる。今でも欧米に行くとビールを売ってもらえないぐらい小柄で童顔。しょっちゅうすっ転ぶ。ふわふわの栗色の髪を毎日違う形にくくったり結ったりしている。珠里くんはいつもさりげなく流行を取り入れたあっさりした服装を着こなしているが、葵さんの方はいったいどこで買ってくるんだろうと首をひねるような流行を超越した服を着ている。葵さんの姉の紫(ゆかり)さんがファッションの仕事をしているので、サンプルとかアウトレットとか、ヨーロッパの片隅の民族意匠の刺繍、中東の染物なんかを持ち込んで、そこに娘のサクヤが縫ったり編んだりした風変わりなアイテムが混ざっている。さらに父親の光(みつる)さんのお下がりのシャツとかカーディガンなんかを羽織っているので、ジプシーか妖精か、とにかく個性的だ。宮本先生はイチ抜けしたが、俺は相変わらず葵さんに翻弄されて幻惑されている。

 お遣いを済ませて公立大学に着くと、唐牛先生と宮本先生はすでにコーヒーを淹れて、珠里くんお手製のチーズサブレを齧っていた。
「お疲れ様。コーヒーかい? 薄茶もあるよ」
 結婚して綺麗に整えたあご髭なんか生やし始めた宮本先生が、研究室の小さなキッチンを指差す。少し胴回りに貫禄がついたせいで、イギリスのブランドものが良く似合っている。
 どちらも粟もちと紅茶ゼリーとは合わないような気がするが、とりあえずコーヒーサーバーから自分で俺専用のマグカップに注ぐ。唐牛先生のチェコみやげだ。
 研究室のソファーセットに落ち着くなり、宮本先生に切り込まれてコーヒーを噴いた。
「望くん、君、いつ葵くんにプロポーズする気だい?」

 気管に入ってかなり長いことむせることになった。くっそう。バレてないと思ってたのに。
「まだ先の話でもいいけど、そのつもりなら今から手を打たないと」
「手? 何の話です」
「ポストだよ」
 唐牛先生も膝を乗り出す。この先生の言うことも葵さんに匹敵するぐらい毎度素っ頓狂だ。

 つまりこういうことだ。宮本先生が昇任したので、同じゼミに助教が採れる。業績を積めばいずれ准教授に上がれるポストだ。一方、唐牛先生はそろそろ定年退職の準備に入っている。今なら俺を推薦できる政治力がある。
「でもあの、葵さんは」
「葵くんはもちろん残るよ。僕の後任の教授の下に就くことになる」
「じゃ、俺も」
「一生、助手でいいのかい?」

 つまりこういうことだ。唐牛教授の講座にはこの先当分、助教や准教授の席は空かない。そして葵さんはこの先当分、教授になれない。心血注いでいる研究を自分の名前で発表できないからだ。学生との実習や、サイドワークの成果は論文にしている。だが欧州の錬金術に由来する鉱物を使った儀式や伝承についての研究は、俺や宮本先生、唐牛先生の名前で報告している。葵さんが標的にされるのを防ぐためだ。葵さんの亡くなった配偶者、新(しん)さんを狙った連中の。
 幸いまだまだ日本では女性教官は少数派だし、結婚や子育てで定年まで助手で過ごす人もいるので、それほど疑問に思われずに大学にいることができる。唐牛先生も宮本先生も事情を理解した上で、葵さんの研究をフォローしているのだ。連中の狙いを突き止めて解決しないと、葵さんの孫たちの未来が無い。葵さんの娘婿もすでに消えている。俺の幼馴染で従兄弟だった。ヤツの失踪と新さんの失踪とどう関連があるのか、俺たちにはわからない。わからないまま、葵さんまで危険に晒すことはできない。

「僕の後任に入る教授が決まった。葵くんの研究のパートナーになる。もちろん僕たちのプロジェクトも継続するけど、彼が代表になる。実際に第一人者でもあるし」
「誰です、その教授」

 葵さんのパートナー。もう俺は一番傍で働けない。もう一緒に旅をできないのか? もう俺の手で鷹史を取り戻せないのか? 新さんも鷹史も消えただけだ。連中の儀式や術式を裏返せば、ひょっこり帰ってくるかもしれないじゃないか。

「だから、プロジェクトは継続するって言ったろう。ただ、今のままじゃ手詰まりだし、葵くんを守り切れないかもしれない」
「それに紫ちゃんや、君のお母さん。それに君の妹もね。僕らにはもう、桜さんがいないんだ」

 俺の下宿先で、葵さんの実家でもある住吉神社を支配していた最強の女主人はもういない。神社の精神的な支柱で、一族の女たちが守る結界の柱だった。孫娘のサクヤが柱を継いでいるとはいえ、桜さんを失った今、まさに我々は詰んでしまった。今また攻撃されたら今度は誰を失うことになるのか。俺の妹と紫さんは結界の両端を守って、一番最初に衝撃を被るポイントにいる。そして葵さんは敵を探る急先鋒なのだ。

「彼に葵くんを任せて、僕は欧州に飛ぶつもりだ。望くん、君、僕のマンションに住んで蔵書と猫の面倒を見てくれないか」
 唐牛先生の提案はさらに素っ頓狂だ。確かに唐牛先生があっちにいれば得られる情報は格段に増えるし精度が増す。でもそれで、手元の守備に穴が空いたら?
「僕のワイフはクロアチアにいるんだし、あのマンションはいずれ君が葵くんと住めばいいじゃないか」
「ちょっと待ってください」
 話の展開が早過ぎてついていけない。
「同じ研究室の職員同志だと、結婚は難しいよ。複数の大学にまたがったプロジェクトの方が基金を取りやすいし。君はうちの大学に来た方が葵くんを守れる」
 宮本先生も話を進める。結婚って。別の大学にいて? 葵さんの成果を横取りする教授に後を任せて?

「だから、誰なんですか、その後任の教授って」
「望、私じゃ不満かい?」

 書架の影からちょっと甘い響きを持った低い声が返って来た。高級な葉巻のような芳香が漂う。目の覚めるような美貌に長身の男が現れた。腰まで届く波打つ黒髪。深い青の双眸。少し浅黒い肌。紛れもなく男性のはずだが、少し衣装と化粧を整えれば美女で通る。年齢不詳。性別不明。この筋では確かに第一人者だ。葵さんを任せるのにこれ以上の人選はない。そして俺には絶対に太刀打ちでいない男がそこに立っていた。俺が買って来たおやつを平らげる4人目の人物。

「ウルマス」


◇ ◇ ◇  ◇ ◇ ◇  ◇ ◇ ◇  ◇ ◇ ◇  

 俺とウルマスが初めて会ったのは、もう5,6年前になるか。とにかく葵さんと初めてイタリアに行った時、ウフィツィ美術館のキュレーターのリューカというやたら綺麗な男に紹介された。どうやら葵さんの姉さんの彼氏らしい。そしてチェコだかどこだったかで、リューカの叔父とか言うこのウルマスに引き合わされた。
 リューカもウルマスも、とにかく年齢不詳性別不明の美形である。リューカがプラチナブロンドで、ウルマスが黒髪という違いはあるが。2人とも混血の究極のようなまったく何系かわからない顔をしている。ウルマスは黒髪にやや浅黒い肌のせいか少し東欧か中東風味が強い印象だ。もっともそれが"本来"の姿なのか確かめたことはない。
ウルマスはヨーロッパのいくつかの大学に籍を置いて、あちこち巡業している人文学の教授で、うちの大学にも一年おきぐらいに集中講義に来ているはずだ。定員200人の講義室に立ち見が出来るほどの盛況になる。来る度に俺は助手扱いで、運転手やらされるし、あれ食べたい、これ買って来て、あそこ行きたい、と引っ張り回されてぐったりする羽目になる。それでも、ウルマスの知識と人脈と直感にどれだけ助けられたかわからない。つけ加えると、ウルマスはフツウの人間ではない。ということはリューカも何だかわかったものじゃない。正体はわからないが、だから何だ? 2人とも胡散臭いことこの上ないが、悔しいことにいいヤツで、飛び抜けて優秀なのである。

ウルマスは昔、かなり長い間、日本に住んでいたことがあるそうだ。
「それ、いつ頃の話です?」と聞いてみたことがある。
「私たちが暮らすには深い森が必要だからね。ほら、キリスト教だと森は悪魔の棲みかで巨木は退治の対象だろう。すっかりユーラシアの西の方が住みにくくなって」
ちょっと待て。布教のついでに森林が切り開かれて次々に放牧地や畑にされたのはいつ頃だっけ。
「あちこち流れて日本に来てみたら、森は敬われてるし、八百万の仲間がいるし、居心地良くてさ」
だからいつの話だ。
「住吉の、その頃はまだ住吉じゃなかったけど、アトリの妹の一団が南に行く時ついて行ったんだよ」
ちょっと待て。
「その頃私とメノウはちょっといい仲でね。頼まれたのさ。水銀を追って南の森に行った。そこの集落でしばらく明神などと呼ばれてたよ」
「それってもしや高野山の……丹生都比売の?」
「ん? まあ伝えられてるのとちょっと年代は前後してるけど。私はもう山里が出来てから入ったし。私の前にも何人かセキュリティーがいたし」
「白と黒の犬、連れてましたか?」
 ウルマスは5歳児みたいな顔でケタケタ笑った。
「バカだなあ。犬2匹で間に合うわけないじゃないか。私の統率するクラン5つ全部動員したに決まってるだろう」
 俺は追求するのをあきらめた。空海に会ったか聞いてみたくてウズウズしたが。あまり夢を壊されたかったからだ。密教関係は俺の専門分野じゃないし。

 メノウというのは住吉に伝わる守り神のひとりで、キジローに言わせると綺麗なお姉ちゃんらしいが俺はまだお目にかかったことがない。トンスケは赤い鳥だったり綺麗なシカかヤギみたいな時もあると言う。

「メノウが鏡に封じられただろう。どうにか解く方法がないか、あちこち探して結局ユーラシアに戻った。けっこう苦労したよ。吸血鬼と呼ばれたり狼男と呼ばれたり」
 俺は追求するのをやめた。そっちも俺の領分じゃない。正体が何でもウルマスもリューカも面白いヤツだし、住吉を囲む小さな杜の守護天使をかって出てくれているからだ。葵さんに下心がないというならそれでいい。リューカは紫さんを大事にしているし、ウルマスはメノウを追っているならそれで安心だ。

 宮本先生の研究室で、煎茶を淹れて粟餅を食べ、紅茶のゼリーに取り掛かろうとしているところにリューカが入って来た。
「あれ。ええもん食べてはりますなあ」
「おまえはいつでも食べられるんだからいいだろう。それでエイミーはなんて?」
 エイミーというのは、俺の叔母の咲(えみ)さんのことらしい。
「ちょうど空いてる人がおらはって、借りて来ました。名前、つけていいそうです」
 リューカの隣を見たが、俺には何も見えなかった。住吉にいるとそんなことは慣れっこなのだが、会話に入れないと困るのでウルマスの方をちらっと見た。ウルマスはまた5歳児みたいな笑顔を見せるとソファーから乗り出して俺の左手をぐっと掴んだ。

 そこには10か11ぐらいのほっそりした少女が立っていた。赤みがかった細い金髪がこまかなウエーブを描いて膝の辺りまで届いている。ほとんど白目の見えない真っ黒の大きな瞳。一応、耳も尻尾もついていない。
 ウルマスは順番に唐牛先生と宮本先生とも握手した。ついでにリューカの肩もポンと叩いた。よくしくみはわからないが、これで全員、同じイメージを共有することになったらしい。

「この子、エストニアの方で葵さんが見つけて連れて帰って来た石におったんです。住吉の桂清水に浸けて5年で、ようやく戻らはって。でも向こうでえらい長生きしてはったそうです。な?」
「物心ついた頃に住んでた森がチュートン騎士団に焼き払われて」
 だからいつの時代だ。
「いいのかい? 私なんかについて?」
 ウルマスが聞くと、少女はマジメくさった表情で殊勝に答えた。
「あの杜の清水には恩がある。聞けば御身も杜に縁のある恩人とか。微力ながらお手伝いしよう」
「ありがとう。じゃあ、君は今日からアルマだ」
 少女はしばらく首をかしげていたが、可愛らしくにっこり笑った。
「うむ。いい名前だ。アルマか。その名前は好きだ」
「気に入ってくれて良かった」
 ウルマスは少女の手を取るとふんわり抱き上げて自分の膝に乗せた。まことに麗しい光景だが、かなりいかがわしく見えるような気もする。それでもウルマスは俺が見たことないような優しい表情をしていた。

「アルマって君、確か」
 唐牛先生が思わず、というふうに言葉をもらした。ウルマスは少女から目を上げると、微笑んだ。
「うん。娘の名だ。死んでしまった子供の名前で、イヤじゃないかい?」
 少女は問われて、またしばらく首をかしげながらじっとウルマスを見上げていた。
「どうして亡くなった。戦か。病か」
 いつでも流れるように言葉を紡ぎ出すウルマスが、言いよどむなんて初めて見た気がする。

 ふと気づいて、一同を見渡した。
「イヤな話だが、話しておいた方がいいかもしれないね。望の信頼を得るためにも。私が住吉に加担するモチベーションに関わる話だ。ボランティアで手伝おうとしているわけじゃない。私と君たちは共通の敵に対峙しているんだよ」
 座の空気が凍った。俺たちの敵。得体の知れない。正体も掴めない敵。俺にはそんなものが実在するのかどうかも確信が持てなかった。新さんや鷹史が消えたのは、天災に巻き込まれたようなものかもしれないと思い始めていた。
「ジェンティエーナを拐って、メノウの宝珠を盗んだ連中のことだ」
「ウルマス! 君、知ってたのか?」
唐牛先生が立ち上がった。
「違う。わかったから今回日本に来ようと思ったのだ。私の娘を拐った一味とメノウやジェンティエーナを拐った連中は繋がっていた」
「彼らの目的は……?」
 新さんもそいつらに拐われたのか? 鷹史も?

「あいつは最初、私の娘のことを覚えてもいなかった。たくさんの材料のひとつに過ぎなかったのだ」
「材料?」
「あいつは思い出して笑って言ったよ」

”ああ。あの赤毛の小さい子か。もうとっくに使っちゃった。ホムンクルスだったかな、キメラの実験だったかもしれない。失敗しちゃったけど、少しは残ってるよ。ほら、こいつらのどこかに”

その時、そいつは背後に蠢く得体の知れないモノたちを100ほど従えていたそうだ。

「さすがに頭に血が上ってしまってね。気がついたら全部喰っていた」
喰ったって。どうやってなのか、俺には具体的な映像が浮かばない。
「ヤツもかなりのダメージを受けたはずだ。それから数年大人しかったので、消えたと思っていた。それからだ。ジェンティエーナとメノウの宝珠が拐われたのは」
ウルマスがちょっと眉根を寄せて整った唇を歪めて笑った。
「つまり、私にも責任の一端があるのだ。君たちの悲劇に」
つまり、そいつは自分の軍団を再結成するために、新たな"材料"を集める必要があったわけだ。

まさか。まさか鷹史も? そんなおぞましい実験に使われたのか? 新さんも? そんな話、さっちゃんにも葵さんにも聞かせられない。

俺の蒼白な表情を読んで、ウルマスがすぐ付け加えた。
「ああ。それは心配ない。鷹史や新は"材料"にならない」
「どうしてそう言い切れる」
襟首を掴まんばかりに詰め寄った、俺の肩をポンと叩いた。
「彼らが使うのは"魔力"だ。ちょっと耳や声が良くて波が扱えても、やつらには大して役に立たない。つまりわざわざ日本に来て拐う労力の割に合わないだろ」
俺はへたっと座り込んだ。

「だが、君たちが邪魔なのは間違いないね。彼らは、君たちがこの千年ばかり必死に守って来たものを壊したいんだから」
「壊すって何をだね」
唐牛先生が静かな声で聞いた。

「ノアの時代の大洪水もアトランティスも、ごくごく局所的な災害に過ぎない。でもそれを全部連動させれば?」
ウルマスの声はさらに静かで心地よくさえあった。
「アトリが身を投げた奈落は、絶好の導火線だ」
「導火線というと。何を爆破させるための?」
宮本先生の声は少し動揺していた気がする。いや。動揺しているのは俺か。

「世界。もしくは地球まるごと、かもしれないな。彼は何もかも壊して、ゼロからやり直したいのだ。だからメノウとジェンティエーナが必要だった」
「あのお2人は、どちらも死と再生の神様ですやろ」
呆然としている俺に、リューカが説明を付け加えた。
「メノウさんは焼き尽くして灰から芽吹く。リンドウさんは雪に閉ざして春芽吹く」
あ、そうか。ジェンティエーナはリンドウか。いや、問題はそこではない。

「そう。問題はだね」
ウルマスはいったいどこまで俺の思考を読んでいるんだ? 読まれるのは鷹史で慣れっこだが、鷹史だから平気だったのであって。俺の視線を捕らえてウルマスは、5歳児のようににぱっと笑った。
「大丈夫。私はちょっとばかり勘が働くだけだ。もともと言語に頼らないコミュニケーションで一族率いて来たからね。言葉に出来るほど固まったごく表層の思考が、時々聴こえる程度だから心配しなくていい」
いや。何が大丈夫なんだ。
「第一、望の顔は読みやすいし。そうだろう?」
「そうだな 」
「そうですね」
「そうですな」
一同顔を見合わせてうなづいている。
ちょっと待て。何の話をしているんだ。問題はそこじゃないだろう。

「問題は君だよ。明日世界が終わるとしたら、望、君は後悔しないのかい?」
「そうだよ。時間は無限にあるわけじゃないんだよ」唐牛先生まで。
「やっぱりこういうことは言葉に出して伝えないとね」
宮本先生、あんた、人のこと言えないだろう。
ちょっと待て。だから何の話をしてるんだ。地球が壊れるかもしれないのに。俺の恋路を心配してる場合か。
「孝行したい時には、て言いますやろ。親も好いたお人も生きとるうちに大事にせな」

「私も、娘を失った時に後悔したものだ」
ウルマスはアルマの髪を優しくなでながら言葉を継いだ。
「母親が無かったから厳しく鍛えることしかしなかった。ひとりでも生きて行けるように。だが、もっと愛していると伝えてやれば良かった。おまえは特別な存在だと、言ってやればよかった」
頼むから、そんな方向に持って行かないでくれ。逆らうわけにいかなくなってしまうじゃないか。一同ますます切迫感を持って俺に圧力をかけて来る。

リューカのまなざしも、ただ俺をからかうわけじゃない、何か深いものを湛えていた。聞いたことなかったが、こいつにも長いストーリーがあるに違いない。

「このままでええのん?」

ええわけないやろ。


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