投資家の目線

投資家の目線791(歴史から考える大阪都構想の意義)

 大阪都構想の住民投票が、10月12日告示、11月1日投票で行われる。この住民投票には新型コロナ対策が先だとか、大阪市の廃止・分割に15年で1300億円のコストがかかる割に市民サービスが後退する懸念があるとかの批判がある(『大阪市廃止=「都」構想 住民投票の焦点』 しんぶん赤旗 2020/9/21~25)。

 ただし、大阪都構想が鎌倉時代以降の東西棲み分け体制に繋がるものなら検討する価値がある。

 奥州藤原氏を唐オ、鎌倉を拠点とする幕府の支配が東北から九州まで生き渡ったが、「後鳥羽院政期における朝廷や院の軍事動員は、先に触れた京都守護の場合と同じように、直接に在京御家人や畿内近国の守護に及んでいた」(「源平の内乱と公武政権 日本中世の歴史3」 川合康著 吉川弘文館 p246)、承久の乱の後は、「北条泰時と時房はそのまま六波羅館に駐留して戦後処理にあたり、新たな幕府の西国支配機関である六波羅探題を成立させた。六波羅探題は、朝廷の監視や交渉、洛中警固、西国訴訟の裁決などを任務とし、洛中警固においては、朝廷や院からの指令は個々の武士にではなく六波羅探題に下され、六波羅探題が在京人を動員するシステムが形成されていく」(同p257)と、西日本の支配の拠点は関西にあった。

 室町時代、幕府は関西の京都にあったが、東国には鎌倉府が存在した。「鎌倉府の統轄していた国は、義詮・基氏時代は11か国(伊豆、甲斐(かい)、信濃(しなの)、相模(さがみ)、武蔵(むさし)、上野(こうずけ)、下野(しもつけ)、上総(かずさ)、下総、安房(あわ)、常陸(ひたち))であったが、氏満時代になると信濃が幕府の支配下に入り、かわって陸奥(むつ)、出羽両国が鎌倉府の管轄になるなど、ときの政治状況に応じて変化している。鎌倉府成立当初は、混乱した政治状況により軍事権のみを行使する軍事機関であったが、観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)を境に幕府に準じた組織をもつ地方行政機関に変化した。それに伴い鎌倉府が行使しうる権限も、警察権や土地支配権など広範囲に及んだ」(コトバンク 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ))と、鎌倉府の権限は大きく、かつ管轄地域も東日本の広範囲に及んでいた。

 関ケ原の合戦での徳川方勝利直後でも、「徳川将軍型の公儀と、豊臣関白型の公儀との東西棲み分けによる二重公儀体制こそ関が原合戦後の政治世界を規定した基本構造であった」(「関が原合戦と大坂の陣 戦争の日本史17」 笠谷和比古著 吉川弘文館 p307)と、東日本は関東で、西日本は関西での統治が考えられていた。

 後藤田正晴元官房長官の回顧録「情と理 下」(講談社p248)に、安保闘争に関して「鳩山さんがあのとき言ったのは、憲法改正、再軍備ですよ。岸さんはこの二つにもう一つ加えた。中央集権的国家体制の再建と言うんですよ」と述べている。現在の日本政府は岸政権以来の中央集権志向が強いと思う。一方、東西棲み分け体制は室町幕府と鎌倉府の間で争いが絶えなかったように、中央集権体制を崩すことになるだろう。中小企業や地方銀行の再編を目指す菅政権は、戦時中、岸信介商工大臣の下で行われた統制経済を想起させる。菅政権と、中央集権体制の打破につながりかねない大阪都構想と整合性が保てるのだろうか?

 また後藤田氏は、「鈴木という、昭和二年組の人かな、もちろん内務省の大先輩ですよ、ちょっと変わっていて、大阪に警視庁を作る、それで俺が大将になる、と言って、やったんです。だから大阪の警察は問題が起きやすい。歴史のないところで、そんな猿真似をしても絶対によくならんな」(「情と理 後藤田正晴回顧録 上」講談社p101)と、歴史の乏しさという観点から大阪の問題点を指摘している。実際、1982年の賭博ゲーム機汚職事件、2018年の風俗店捜査情報漏洩汚職事件など大阪府警には裏社会に繋がる事件が多い。グリコ森永事件をはじめとする未解決の怪事件といい、官僚への贈収賄事件といい、大阪を西日本の中心にしようというのなら、まず大阪地方政府の綱紀粛正が必要だ。

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最近の「政治」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事