今回は、指揮権の日米密約について取り上げられている。本書によると昨年の新安保法制は「アメリカ政府の決定に完全に従属する軍隊」、「国外では戦争できないが、米軍司令官の指揮による場合はその例外とする」という旧安保条約の原案のとおりになりつつあるというのだ。コンドリーザ・ライス元国務長官の「ライス回顧録」(福井昌子、波多野理彩子、宮崎真紀、三谷武司訳、集英社)に「太平洋軍司令官は昔から植民地総督のような存在で、ハワイの軍司令部を拠点とする四つ星の将軍が発する命令は最もましなときでも外交政策と軍事政策の境界線を曖昧にしてしまい、最悪の場合は両方の政策をぶち壊してしまう傾向があった」とあるとおり、結局は、基地問題も新安保法制も米国全体というよりも米軍の利権の問題と感じた。
日本国憲法にはどのように戦争を始め、どのように終わらせるかの規定がない。それは自民党の憲法改正草案も同じである。つまり、戦争を始めるのも終わらせるのも日本政府ではないということだ。昨年、国会で先制攻撃に関するやり取りがあったが、宣戦布告なき先制攻撃は奇襲攻撃であり、日本がかつて批准した「開戦に関する条約」にも違反する。共同統合運用調整所の設置などで、日米軍事組織の一体運用が進む中、新安保法制は日本政府が実のない名ばかりの「軍」を欲しただけのように見える。
また、エマニュエル・トッド著(石崎晴己訳 藤原書店)「帝国以後」では、第2次大戦時の米軍の行動様式に関し「ある程度の犠牲精神が要求される作戦は、それが可能である時には必ず同盟国の徴募兵部隊に任された」と記述されている。自衛隊も危険な作戦に従事する可能性は否定できない。それは日本にとって財政負担になる上に、死傷者が出た場合には兵員の補充が必要となるが政府はどう考えているのか?同じくエマニュエル・トッドのソ連崩壊を取り扱った著書「最後の転落 ソ連崩壊のシナリオ」(石崎晴己監訳 藤原書店)では乳児死亡率の上昇が医療を通して観察される生活水準の低下として取り上げられている。軍事負担増による財政の悪化は国民の生活水準の低下につながると思うが、日本も旧ソ連と同じ道を辿らないのか?
トランプ氏が共和党の大統領候補となり、民主党では次世代を担う若者に人気のサンダース候補が善戦した。米国内が変わりつつあるのに、日本政府の対米認識は旧来のままのように見えるが、そんなことで大丈夫なのか甚だ疑問である。
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