gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

1月12日の礼拝の内容です。

2025-01-11 11:59:00 | 日記
1月12日の礼拝の内容です。讃美歌は、83.280.394.430.24です。
オンラインのアドレスはhttps://youtube.com/live/E-JRt8vr08Y?feature=shareです。

礼拝説教      使徒13:33~41「罪が赦されること」     2025.1.12

 ここは、パウロの説教の箇所です。パウロがここでいっていることは、イエス・キリストによって私たちの罪の赦しがなされていることです。

「神はイエスを復活させて、わたしたちの子孫のためにその約束を果たしてくださったのです。」(33節)「イエスを死者の中から復活させ、もはや朽ち果てることがないようになさったことは」(34節)
「神が復活させたこの方は、朽ち果てることがなかったのです。」(37節)
「この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされなかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされるのです。」(38~39節)

 パウロはこの説教で、本当に大切な神の救いの業を語っています。神が聖書を通して、私たちの罪の救いのために、何をしてくださったのかを、ここで丁寧に話しています。私は、ここで神の救いとは何かを聖書全体を通して、改めて振り返ってみたいと思います。

 初めに神は、この世界と私たち人間を創造してくださいました。神は自ら造った創造の業を、すべては良かったといっています。神にとって素晴らしい世界が創造されたのです。その創造の業の最後に、私たち人間の創造がなされました。神にとって人間の創造は特別なものでした。神は御自身に似せて、かたどって、人間を創造されたのです。これは、神が人間を愛し、人間が神を愛するという相互関係の中にありました。互いに愛し合う関係を持つための人間の創造だったのです。それは、人間の自分の意志、自由意志を与えてくださいました。神は自ら意志を持つように、人間も自ら意志を持つ存在として創造されたのです。神の意志は、人間自身が神を愛するようになって欲しいと願っていました。神の願うロボットのような存在ではなかったのです。自由な意志を持って、神を愛する存在として人間は期待されていました。

 しかし、人間は、神によって与えられたその自由な意志によって、神を愛さない道を選びました。神を愛さずに、自分を愛するようになっていったのです。ここに人間の罪が入って来ました。この人間に罪が入ったことによって、人間は死ぬ者となっていったのです。神から離れた人間は、滅びの道を歩むようになっていきます。

 神から離れた人間を、神はそのままにはしませんでした。どうにかして、人間を救う道をさがしていくのです。まず、神が始めたことはアブラハムを選ぶことでした。つまり、イスラエルの人々を選ぶことでした。神は、イスラエルの人々を選民として選び、人間の救いのために動いてくださいます。神は、イスラエルの人々と共に歩み、人間の救いの計画を始めていきます。神は、イスラエルの人々をエジプトに送りました。そこで、長い間、奴隷としての苦しい日々を送らせるのです。430年にも渡る苦しい日々でした。その時に、神はモーセを送ります。モーセを通して、神はイスラエルの人々を、奴隷の状態から解放しようとします。出エジプトです。神は、10の災いをエジプトに送って、イスラエルの人々をエジプトから解放されます。

 エジプトを出たイスラエルの人々は、神の示す約束の地カナンを目指して、荒れ野の旅を続けていきます。荒れ野の旅は苦しいものでした。水はない、食べ物はないという命に関わる苦難を経験していくのです。その中で、神がイスラエルの人々を養ってくださる経験をしていくのです。更に、神は、イスラエルの人々と契約を結びます。神の民としての契約です。神は、イスラエルの人々の神となり、イスラエルの人々は神の民となるということです。その内容は、十戒を中心とした神の教えを守るということでした。十戒は、イスラエルの人々の日常生活を中心として、守るべき事柄が細かく書かれてあります。神の教えを守ることによって、イスラエルの人々は、約束の地で平和に、幸福に生きることができるという内容でした。

 神は、十戒を中心とした神の教えだけでなく、神とイスラエルの人々が出会う場所として、幕屋を造るように命じました。この幕屋は移動式でした。荒れ野の旅を継続していたので、そのような機能が必要だったのです。幕屋を中心に、イスラエルの人々の宗教生活も細かく指示されていきます。幕屋の働きを担うために、レビ人が選ばれ、その中で、祭司が選出されて、宗教儀式をするようになっていきます。祭司の中で大祭司がいて、大祭司の大きな仕事としてイスラエルの中で、贖いの日というのが定められていきます。それは、年に一度だけ、大祭司が、幕屋の中の一番聖なる場所である至聖所に入って、自分のための罪の贖い、そして、イスラエルのすべての人々のために、罪の贖いをするということです。人間は神の前で罪を犯してしまいました。そのために、罪を贖う必要があります。どのようにして、人間の罪を贖うのかといえば、家畜に、自分の罪を負わせるのです。家畜が、人間に代って、神の前でささげられます。家畜は殺されて、血を流し、肉は焼かれていきます。このことが人間の罪の贖いにとなっていくことを神は許してくださいました。イスラエルの人々の神への礼拝をいえば、家畜をささげて、人間の罪の贖いをするということでした。

 旧約聖書を読んでいると、イスラエルの人々は、神の教えを守らなければならないということですが、守ることができないのです。多くの預言者が与えられて、イスラエルの人々への罪の悔い改めを求めていきますが、守ることができないのです。ここに神のご計画があるのです。それが、パウロによって明らかにされていきます。

ローマ3:19~20
さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。

 それは、神はイスラエルの人々に与えた律法の役割は、人間は神の教えである律法を守ることができないことを示すために与えられたものでした。罪の自覚を生じさせるために、神の律法が与えられたのです。つまり、旧約聖書だけでは、神の救いはないということが分かります。それで、イエス・キリストの新約聖書が必要となってくるのです。パウロは続けていいます。それは、どのようにして、人間の救いが完成するかです。今まで、家畜の犠牲によって、罪の赦しがなされていました。

ローマ3:21~25
ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。

 パウロが、ここでいっていることは、旧約聖書でなされていた家畜による罪の贖いが、神の子イエス・キリストの十字架の死によって、完全な罪の贖いが完成したということです。私たちは新約聖書を通して、旧約聖書を読んでいます。そうすると人間の罪の現実というのが弱くなってしまうのではないかという思いを私は持っています。人間の罪とは何かを教えるために、神がイスラエルの人々の歩みを通して、旧約聖書を通して、私たちに教えてくださったいます。その人間の罪深さと重さを知って、イエス・キリストの十字架がいかに、私たちにとって神の恵みとなっているかと受け止めることができるのです。神の救いのご計画は、神によって与えられた恵みの業です。私たちは心から感謝して、受け止める必要があります。私たちが何もできないことを、神はすべてご自身で成し遂げてくださっているのです。神の救いの業の最後に、最後の審判というのがあります。神が造ったこの世界は、いつの日か終りを告げます。そして、神によって新しい世界が造られます。その時に、新しい神の世界、神の国に入る資格があるかどうか審判されるのが、最後の審判です。全ての人々は、神の国に入る資格はありません。イエス・キリストの十字架による贖いを信じ、洗礼を受けて教会に加わった者だけが入ることを許されているのです。そうでないものは、神の国に入る資格はありません。最後の審判の後で、神の救いと裁きが用意されていることを、私たちは知っています。イエス・キリストの十字架だけが、私たちの本当の救いを完成することができるものです。

祈り 神よ、あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。パウロが語る神の救いについてみてきました。私たちの人間の力で、神の救いに預かることできません。神の恵みであるイエス・キリストの救いを信じることによって救われることを改めて確認をすることができました。この神の救いの業の中にあって、その生涯を送ることができますように、また、この神の救いを、周りの人々に伝えていくことができますように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。


1月8日の祈祷会の内容です。

2025-01-07 19:51:00 | 日記
祈祷会      士師記20:1~25「悲しみの物語」     2025.1.8

 士師記19~21章は、イスラエルの12部族の中で、ベニヤミン族が滅んでしまうかもしれない危機が書かれてあります。この間の主題は「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた」(士師記21:25)です。

 エフライムの山地の奥に1人のレビ人がいました。レビ人はユダのベツレヘムから1人の女性を側女として迎え入れます。その側女がレビ人を裏切り、自分の実家に帰ってしまいました。レビ人は側女を連れ戻すために、側女の実家にやって来ます。和解して、レビ人は側女を連れて、自分の家に帰ろうとします。旅を続けて、ベニヤミン族のギブアにやって来ました。そこで、1人の老人の家に泊まることになりました。その家で事件が起ります。町のならず者が家を取り囲み、戸をたたいて、「お前の家に来た男を出せ。我々はその男を知りたい」といいます。家の老人は拒否します。でも、ならず者たちは承知しません。そこで、レビ人は側女をつかんで、外にいる人々の所に押し出すと、ならず者たちは、側女を知り、一晩中朝になるまでもてあそび、朝の光が射すころようやく側女を放しました。朝になるころ、側女はレビ人のいる家の入り口にたどりつきましたが、倒れて、死んでしまいました。レビ人は、死んだ側女をろばに乗せて、自分の家に戻ります。家に戻ると、レビ人は刃物を取って側女をつかみ、その体を12の部分に切り離し、イスラエルの全土に送るのです。これを見たイスラエルの人々は大きな衝撃を受けて、ミツバに集まります。

 ミツバにイスラエルの全部族、剣を携えた40万の歩兵が集まります。ベニヤミンの人々も、イスラエルの人々がミツバに集まったことを伝え聞きます。イスラエルの人々はレビ人に「このような犯行がどうして行われたのか説明してもらいたい」といったので、レビ人は「ベニヤミンのギブアに来て、わたしは側女と共に宿を取っていました。ギブアの首長たちがわたしに向かって来て、夜、わたしの泊まった家を取り囲み、わたしを殺そうとして、側女を辱めて死に至らせたのです。わたしは側女をつかみ、その体を切り離して、イスラエルの嗣業の全耕地に送りました。ギブアの首長たちがイスラエルの中で極悪非道なことをしたからです。イスラエルのすべての人たちよ。ここで話し合って、協議してもらいたい」といいます。レビ人の説明の中で、ギブアの首長たちとありますが、実際はギブアのならず者たちです。また、レビ人は、自分が側女をつかんで外に押し出したのです。自分の都合の悪いことは隠しています。

 イスラエルの人々は、ギブアの人々に対して攻め上ろうと決めました。ベニヤミンがイスラエルの中で行った非道の制裁をしようということです。イスラエルの人々はすぐに、ベニヤミン族を攻めようとしませんでした。まず、ベニヤミン族に「あなたたちの中で行われたあの犯行はなんということか。今、あのならず者の犯人を引き渡せ。犯人を殺して、イスラエルの中から悪を取り除こう」と聞いたのです。ここで、ベニヤミンの人々が、イスラエルの人々の声を聞いて、ならず者たちを出せば、よかったのです。ならず者たちが殺されて、それでこの騒動は終わりとなるはずでした。ところが、ベニヤミンの人々は、イスラエルの人々の声を聞かず、戦おうとするのです。これから最も悲劇的な展開になっていきます。イスラエルの全部族の中で11部族対ベニヤミン族との戦争となっていきます。どうして、ベニヤミン族はそのような決断をしたのでしょうか。分かりません。

 ベニヤミン族は剣を携えた兵士26000人と、ギブアから兵士700人が集まりました。一方、イスラエルの人々も剣を携えた兵士40万人が集まっています。イスラエルの人々はベテルに集まって、神に問うています。「我々のうち、誰が最初に上って行ってベニヤミンと戦うべきでしょうか」と。主は「最初はユダだ」といわれます。翌朝、イスラエルの人々は行動を起して、ギブアに対して陣を敷きます。イスラエル対ベニヤミンの戦いが始まりました。1日目は、22000人のイスラエル兵が倒れました。大きな被害が出たのです。イスラエルの人々は、主のみ前に上って、夕方まで泣き続け、主に問うていいます。「兄弟ベニヤミンと、再び戦いを交えなければなりませんか」と。主は「ベニヤミンに向かって攻め上れ」といいます。2日目も戦いになっていきます。またも18000人のイスラエル兵が倒れてしまいました。ここまでが、今回の聖書の箇所の内容となっています。

 その後は、3日目の戦いでやっとイスラエルの人々の勝利となっていきます。イスラエルとベニヤミンとの戦いの結果として、ベニヤミン族が滅んでしまうかもしれないという危機になっていきます。そうならないように、イスラエルの人々は努力していきます。そして士師記は終ります。神はどうして、この戦いを止めようとしないのでしょうか。分かりません。この戦いは、イスラエル全体に大きな悲劇となっていきます。どうして、そうならないようにすることができなかったのでしょうか。それは、それぞれが自分たちの正しさを主張しているからだと思います。自分たちの正義といいますか。自分たちの正しさといってもいいかもしれません。その正しさがぶつかって戦争となり、大きな悲劇になってしまったのです。

コヘレト7:15~16
善人がその善のゆえに滅びることもあり、善人すぎるな。賢すぎるな。どうして滅びてよかろう。

 自分たちは罪人である。弱い人間であると受け止めることができることは、本当に大切なことだと思います。自分の弱さを知り、自分の罪を知り、人間同士互いに弱い存在だと知り、互いに許し合い、愛し合うことができるようになるからです。自分の弱さを知る人が本当は強いのかもしれません。神は自分をも愛し、他の人々も愛してくださっているのです。

祈り 神よ、聖書の学びと祈りの時を与えてくださり、ありがとうございます。自分の正しさを強くすると、本当の自分が見えなくなってしまいます。神の前で、私たち1人1人は、罪深く、弱い存在であることを知り、そのことを喜んで、受け入れて、互いに愛し合うことができること、許し合うことができるように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                               」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございます。(横山厚志)


1月5日の礼拝の内容です。

2025-01-04 11:33:00 | 日記
1月5日の礼拝の内容です。讃美歌は、18.194.368.451.27です。
オンラインのアドレスはhttps://youtube.com/live/fGKG_bFC6sM?feature=shareです。

礼拝説教    使徒13:26~32「イエス様の証人となる」  2025.1.5

 2025年になりまして、最初の日曜日を迎えました。1週間の初めの日曜日に、このように神を礼拝することができますことを心から感謝したいと思います。示された神のみ言葉を受けて、それぞれが豊かな1週間の歩みをすることができますように祈ります。

 私たちはキリスト教の信仰を持ち、教会生活をしています。一番大切にすることは何かといえば、それはイエス・キリストの十字架です。十字架の死と復活です。いつも私たちは、イエス・キリストの十字架を見上げつつ、信仰生活を送っています。このキリスト教の信仰生活は、私たちのいろいろな場面で生かされていると思いますが、一番発揮されるのは、人の死と向き合った時だと思います。私たちの日常生活では、死を意識することは少ないと思いますが、死を意識する場面に突然に出会うこともあります。私はいつかくる死とどう向き合うのかを、日常生活の中で意識することが大切だと考えます。死を意識することによって、イエス・キリストの十字架とより向き合うことができるのです。イエス・キリストの十字架の死と復活は、私たち自身の死とその後の復活、永遠の命を受け止めることになります。人の死の先に未来と希望があることを知るだけで大きな勇気を持って生きることができるのです。

 私が青年時に、マザーテレサの働きに大きな影響を受けました。インドのカルカッタ、今は違う呼び方になっています。ここで紛争が起りました。その紛争で多くの難民が生まれ、難民がカルカッタの町に逃れて来たのです。多くの難民が町にあふれました。そうすると、高齢者や子どもなど弱い立場の人たちが倒れて、そのまま死を迎える人々が多くいたのです。死者の数があまりに多いので、人々は人の死に無関心になってしまったというのです。そこで、マザーテレサの活動が始まるのです。普通なら、死にそうな人ではなく、生き延びる可能性がある人を助けると思うのですが、マザーテレサはそうでなくて、今にも死にそうな人を見つけて、助け出し、死を待つ人の家に連れて行くのです。その意味は、今にも死にそうな人に「あなたは愛されるために生まれて来たことを感じて欲しい」という願いがあっての行動でした。家で、その人に一杯のあたたかいスープを飲ませます。あなたは大切な人ですという願いを持って、そのような行動になっているといいます。

 今にも死にそうな人が自分だったらどうでしょうか。紛争で逃げて来て、道端で倒れて、今にも死のうとしている。その時に、誰かから抱き起されて、どこかの家に運ばれて、汚れた体をきれいに洗ってもらい、最後の一杯のあたたかいスープを飲ませてもらえる、うれしいことだと思います。私たち1人1人が、人生の最後を迎える時に、誰かが側にいてくれる、これだけでうれしいと思います。何もできなくても、ただ側にいてくれる、それだけでいいのです。あなたは神に愛され、人に愛されて、ここまで生きることができた。幸いな人生だと感じて、死を迎えることができることは本当に幸いなことです。

 使徒言行録を読んでいきましょう。今日の聖書の箇所は、パウロの第1回伝道旅行のピシディア州のアンティオキア、安息日でユダヤ人の会堂で行われたパウロの説教の部分です。パウロの伝道旅行は、異邦人に向けての伝道と考えられがちですが、新しい町に行った時には、最初にはユダヤ人の所に行って伝道しているのです。その伝道方法は最後まで変わることはありません。初めに、パウロはユダヤ人に向けて、神は私たち、イスラエルの民を選んでくださった。そして、エジプトの時代、荒れ野の40年の時代、士師の時代、サウルとダビデの時代、ずっとイスラエルを導いてくださったっことをいいます。ダビデの子孫から救い主イエスを送ってくださること、洗礼者ヨハネもイエス様のことを指し示してくださったことを語っていくのです。

 そして改めて、ユダヤ人に向けて、兄弟たちと呼びかけます。アブラハムの子孫の方々、神を畏れる人たちと。この救いの言葉はわたしたちに送られましたといいます。パウロがいう救いの言葉とは何を意味するのでしょうか。使徒言行録が書いていることは、ユダヤ人が神の民とされたにも関わらず、神の子、救い主にイエス・キリストを認めなかったことです。エルサレムに住む人々やその指導者たちは、イエス様を認めず、また、安息日ごとに読まれる預言者の言葉を理解せず、イエス様を罪人とされたのです。イエス様に死に当る理由は何も見い出せなかったのに、イエス様を死刑にするようにピラトに求めたというのです。ピラトのもとで、イエス・キリストは十字架にかけて殺してしまったのです。十字架の死後、ユダヤ人はイエス様を十字架から下ろして、墓に葬りました。

 ユダヤ人は、神から特別に選ばれた民でした。それは、ユダヤ人を通して、すべての人々の救いにつなげるということでした。旧約聖書を読んでいると、神に選ばれたユダヤ人が、神から与えられた神の教え、幕屋や祭司制度などを守ることが求められています。もし、神の教えを破った時に、神の罰が与えられるというものだと思います。しかし、旧約聖書の狙いは、そこにはなくて、神に選ばれたユダヤ人が、神の教えなどを守ることができない。その場合として、いかにユダヤ人の犯した罪を赦すのかの方法が書かれているのです。旧約聖書のレビ記の中に、ユダヤ人が罪を犯した場合、どのように神の前で罪を贖うことができるのかの具体的な方法が書かれてあるのです。それは、人間の犯した罪を、人間自身が負うのではなく、人間の飼っている家畜に、人間の罪を負わせて、神の前にささげるということでした。家畜が、人間に代って罪の贖いとしてくださるのです。

 ルカは、この聖書の箇所で、「イエスを罪に定めることによって、その言葉を実現させたのです。」(27節)「イエスについて書かれてあることがすべて実現した後」(29節)と書いて、ユダヤ人がイエス様を十字架につけて殺すことは、神のご計画であったことを書いています。ここまで読んできて、驚くべきことは、神に選ばれたユダヤ人の役割は、神の子イエス・キリストを十字架につけて殺すことでした。そのまま考えれば、ユダヤ人の大きな罪であると思うのですが、その大きな罪を、神の赦しのために用いられるということです。

 神は、イエス様を死者の中から復活させてくださったのです。イエス様は、御自分と一緒にガリラヤからエルサレムに上った人々に、幾日もわたって復活の姿を現してくださったのです。その人たちは、今、ユダヤ人に対して、イエス様の証人となっています。私たちも、先祖に与えられた約束について、あなたがたに福音を告げ知らせていますといいます。

 この救いの言葉は私たちにおくられましたとパウロは、ここでいっています。もちろん、パウロの言葉を聞いているユダヤ人に対してですが、この言葉は、今、ここにいる私たち1人1人に語られている神の言葉です。私たちは旧約聖書、ユダヤ人の歩みから、人間の罪について、罪の赦しについて知ることができます。そして、新約聖書の4つの福音書から、イエス・キリストの働き、特に十字架の死と復活について知ることができるのです。使徒言行録では、使徒たちによって、このイエス・キリストの福音がエルサレムからローマにまで伝わっていくのです。ユダヤ人からすべての異邦人へ宣べ伝えられていきます。パウロが、ここでいっている、この救いの言葉というのは、イエス・キリストの十字架の死と復活によって、私たちの罪が贖われて、罪が赦されて、復活の命に預かることができるということです。

 私たちはいつの日か、死を迎えることになります。しかし、そこでは終わりではありません。新しい命の始まりが起ります。神によって造られた私たちは、罪を犯し、神から離れ、滅びを待つしかありませんでした。人間の力では、罪の現実に立ち向かうことができなかったのです。そのために、神は人間の救いのために、御子イエス・キリストを送ってくださいました。そのイエス・キリストを人間は、十字架につけて殺してしまったのです。神の目からすれば、決して赦されることのない罪を犯したかのようです。でも、それは神のご計画でした。神は、人間の罪を利用して、人間の罪の救いを成し遂げてくださったのです。それが、イエス・キリストの十字架です。この十字架を通して、私たちの本当の救いがあります。救いの言葉は、私たちの死後にある希望です。神と共にある永遠の命です。やがて、私たちの住む世界は、神よって終りの時を迎えます。そして、神よって新しい世界が造られます。神の国です。そこに、罪赦された私たちは、そこに入る恵みを与えてくださっているのです。これは神からの一方的な恵みです。まさしく福音です。新しい年が始まっています。私たちは、このイエス・キリストにある希望を持って歩もうではありませんか。イエス様の証人として歩み、復活の命のことを知らない人々に、伝えていきましょう。

祈り 神よ、新しい年の最初の日曜日に、このように神を礼拝することができましたことを心から感謝します。私たち1人1人が、イエス様の証人として歩むことができますように、十字架の死と復活の意味を知り、死の先にある復活の命の希望があることを、周りの人々に伝えていくことができますように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。


1月1日の礼拝の内容です。

2024-12-31 18:05:00 | 日記
1月1日の礼拝の内容です。讃美歌は、83.361.368.484.26です。
オンラインのアドレスはhttps://youtube.com/live/u_6sgAXeH7k?feature=shareです。

元旦礼拝説教     マタイ2:1~12「喜びにあふれよう」    2025.1.1

 新しい年が始まりました。1年の初めに、このように教会に集まり、神を礼拝することができますことを心から感謝したいと思います。2025年が素晴らしい年となりますようにと心から祈るのです。

2024年は、皆様にとってどのような年だったでしょうか。それぞれの2024年がありました。私にとって忘れることができないのが、能登半島地震です。ちょうど、1年前、この日は地区の新年礼拝で、名古屋教会に行き、午後には布池カトリック教会の隣にある福信館に越冬炊き出しのお手伝いに行っていました。午後4時に煮込みの時に地震が起ったのです。それぞれが持っているスマホに緊急地震速報のアラーム音が響きました。その後、輪島市や珠洲市に行く機会がありました。災害ボランティア活動中に見た被災地の現状に心を痛めました。9月末に輪島市の活動している時に昼休みに、輪島教会を新藤先生に案内していただきました。壊れた会堂を見せていただき、新藤先生の歩みを心配していました。でも、愛知県いて、何もできない無力感を感じていました。少しでも復興が進み、希望がある歩みができますようと願います。今日、中部教区では、16時10分から能登半島地震1年を覚えての祈祷会を、Webを使って行われます。共に祈りを合わせてくださるとうれしいです。

元旦礼拝の時に、選んだ聖書の箇所は、東方の博士たちのクリスマスの場面です。12月22日のクリスマス礼拝の後の祝会で、教会学校のメンバーによるクリスマスページェントが行われました。遠い東の国から3人の博士たちが、ユダヤのベツレヘムにやって来て、イエス様の誕生を祝い、礼拝し、贈り物をそれぞれがささげるのでした。

マタイ2:1~2
イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」

 この聖書の箇所を読んで、私は不思議に思うのです。それは、どうして、遠い東の国に住んでいる占星術の学者たちが、イエス様の誕生を祝うために来たのかということです。東の方とは、東方とはどこなのかですが、今のイラク、バクダットあたりではないかと思われます。聖書地図を見ると、約1500㎞あると思います。簡単な距離ではないと思います。今から2000年前に、東方の博士たちは、この距離をやって来たのです。占星術の学者たちとありますが、当時は、国の歩みを決めることに関わっていたと思われます。星の動きは規則正しく動いています。その動きに変化がなければ、何も起きないと考えていたのでしょう。でも、違った動きをすると、それは大切な知らせであり、今後の国の歩みにも関わるとされていて、その違った動きを見て、国の王に進言し、大切なことを決める判断になっていくのです。

 この学者たちは、星の動きをいつも見ていていました。きっと大きな動きがあったのでしょう。でも、それがどうして、ユダヤ人の王の誕生と関わっているとなったのかが分からないのです。東方の博士たちは、自分たちの国で、その星の動きを発見しました。それが、どうしてユダヤ人の王の誕生の知らせなのかと知ったのでしょうか。また、博士たちは、ユダヤ人の王の誕生は知りましたが、その誕生の地を正確に知ることができなくて、エルサレムに行き、当時の支配者であったヘロデ王に尋ねています。でも、ユダヤ人の王の誕生が大きな意味を持つということを受け止め、自国の王に知らせるために、旅に出て行ったのです。

 実は、それまでに東の国とユダヤ人の接点がありました。それはバビロン捕囚です。南王国ユダはバビロニアに滅ぼされて、都エルサレムは焼かれ、神殿も破壊されました。この時に多くのユダヤ人がバビロンに奴隷として連れて行かれたのです。バビロンの地でユダヤ人は困難の中を歩んでいました。でも、一方で東の国の人々はユダヤ人の影響を受けていたと思われます。バビロンのいるユダヤ人たちは、その苦しみの中で、自分たちの解放者、救い主、ユダヤ人の王を待望していました。バビロン捕囚が終っても、多くのユダヤ人はバビロンに留まって生活していったと考えられています。クリスマスの時と、星の動きが一緒になって、博士たちの旅立ちとなっていたのでしょう。神が東方の博士たちにクリスマスを知らせることは、すべての人々に神の救いを告げ知らせるというメッセージです。

 でも、博士たちの旅は困難なものだったと想像します。いくら仕事とはいえ、旅立ちは命をかけるものだったはずです。もしかしたら、家族とはもう会うことができなくなるかもしれないと思いは持ったと思います。それも星の動きを見ての行動です。東の国からユダヤまで、いったいどのくらいの時間がかかったのでしょうか。1年以上かもしれません。また、このような危険な旅ですから、3人だけで移動とは考えにくいと思います。少なくても100人ぐらいの旅だったと想像します。博士たちは、エルサレムで、ヘロデ王にユダヤ人の王の誕生のことを告げ、律法学者から、ユダヤ人の王はベツレヘムに生まれることを知り、旅を続けて行きます。一度は見失った東方で見た星が出て来て、星が先立って進み、ついに幼子のいる場所に止まりました。学者たちはその星を見て喜びにあふれるのです。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられました。博士たちはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげたのです。

 このように東方の博士たちは、ユダヤのベツレヘムで、幼子イエス様の誕生を祝い、礼拝し、ささげものをささげていったのです。ユダヤ人の王を拝むために来て、そのことを実現することができました。でも、どうして、この東方の博士たちはユダヤ人の王の誕生を祝うために、この厳しい旅をしてきたのでしょうか。東方の博士たちと、ユダヤ人の王と何の関係があるというのでしょうか。それは、東方の博士たちにとって、星の動きを通して、ユダヤ人の王の誕生は、すべての人々の王の誕生と理解したからだと私は思います。東方の博士たちにとって、クリスマスの出来事は、ユダヤ人だけの出来事ではなく、すべての人々の出来事だと受け止めたのです。クリスマスの出来事は、この東方の博士たちにとって大きな人生の変化をもたらしました。やがて、「ヘロデのところへ帰るな」と夢のお告げがあって、別の道を通って、自分たちの国に帰って行ったとマタイは書いています。

 この東方の博士たちも、そして、私たちもそれぞれの人生の歩みをしています。1人1人、いろいろな人生の歩みがあります。同じような歩みはありません。1人1人違う人生の歩みです。でも、最後は人生の最後、死と向き合うことになります。でも、博士たちがクリスマス、イエス・キリストに出会ったということは、全く違う人生の歩みをすることになっていくのです。それは神と共に歩む人生です。神が共に、私たちの人生と共に歩んでくださるのです。今までとは全く違う別の道です。東方の博士たちが、この後、どのような歩みをしていったのかは分かりません。でも、イエス・キリストの出会ったことは、全く新しい人生の歩みになっていくはずです。

 新しい年が始まりました。夢と希望にあふれる年になってほしいと心から願います。しかし、そうならないこともあるでしょう。不安と希望のない年になってしまうかもしれません。でも、イエス・キリストと出会ったことは、全く別の人生の道を歩むことになって行くのです。それは、神と共に歩む人生、イエス・キリストによる罪の赦し、死からの復活、永遠の命、神の国へとつながる歩みです。本当の意味で、恐れることはないのです。イエス・キリストの誕生によって、すべては神が解決してくださったのですから、神の救いをしっかりと受け止めて、どのようなことがあっても、神への信仰と希望を持ちつつ、新しい年を歩んで行きましょう。

祈り 神よ。新しい年の初めに、このようにあなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。2025年がどのような歩みになるのか、分かりません。でも、喜びと希望を持った歩みとなることができますようにと願います。また、神の愛を受け止め、イエス・キリストの信仰を深め、神と共にあることを忘れることなく、歩むことができますように、この2025年の歩みを守り導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。


12月25日の祈祷会の内容です。

2024-12-24 12:59:00 | 日記
祈祷会       士師記19:16~30「1人の側女の悲しみ」     2024.12.25

 士師記17~21章は、士師が登場していない内容となっています。この内容は「そのころイスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に正しいとすることを行っていた。」(士師記17:6)です。イスラエルの人々は神の教えなどがありましたが、それを自分勝手に解釈して歩んでいたということになっています。士師記19~21章は、ベニヤミン族の滅びと救済のことが書かれてあります。イスラエルの内部の争いが起っています。イスラエルの人々とその1つの民族であるベニヤミン族との悲しい戦争が起り、イスラエルは1部族が滅びるかもしれないという危機に陥っていきます。その原因となるのが、今日の聖書の箇所です。

 エフライムの山地の奥に1人のレビ人がいました。レビ人はユダのベツレヘムから1人の女性を側女として迎え入れました。しかし、その側女はレビ人を裏切り自分の父の家に帰ってしまったのです。レビ人はその側女を連れ戻そうとして、彼女の家にやって来ます。どういう訳か彼女とその父は、そのレビ人を歓迎しているのです。側女の父はレビ人である婿にゆっくりと家で過ごして欲しいと滞在期間を延ばそうとします。しかし、5日目に自分の家に帰ろうとします。自分の家に帰る途中、ベニヤミン族のギブアにやって来ます。そこに宿泊する予定でしたが、町の広場に来て腰を下ろしました。でも誰も彼らを家に迎えて泊めてくれる者はいなかったのです。夕暮れに1人の老人が畑仕事を終えて帰って来ました。この人はエフライム山地の出身でした。老人は目を上げて、町の広場にいる旅人を見て、「どちらにおいでになりますか。どちらからおいでになりましたか」と声をかけます。レビ人は「私たちはユダのベツレヘムからエフライムの山地の奥にある私の郷里まで旅をしている途中です。私たちを迎えてくれる家がないのです。ろばのためのわらもありますし、私たちにもパンとぶどう酒もあります。必要な物はすべてそろっています」と、答えます。老人は「安心しなさい。あなたが必要とするものは私に任せなさい。広場で夜を過ごしてはいけません」といって、自分の家に入れ、ろばに餌を与え、足を洗って食べて飲むことができました。レビ人と側女はやっと安心することができたと思ったのでしょう。その家で事件が起ります。

 老人の家でレビ人たちがくつろいでいると、町のならず者が家を囲み、戸をたたいて、老人に「お前の家に来た男を出せ。我々はその男を知りたい」といいます。老人は「それはいけない。悪いことをしないでください。この人が私の家に入った後で、そのような非道な振る舞いを許されない。ここに処女である私の娘と、あの人の側女がいる。この2人を連れ出すから、辱め、思い通りにするがよい。だが、あの人には非道な振る舞いをしてはならない」というのです。ならず者たちは老人に耳を貸そうとしませんでした。

 ここです。当時は、女性に対する思いというのは、このようなものなのでしょうか。町のならず者たちが求めているのはレビ人です。女性ではありません。そのレビ人を助けるために、この老人は、自分の娘やレビ人の側女を犠牲にしてもいいといっています。これと同じような聖書の場面があります。

創世記19:4~8
彼らがまだ床に就かないうちに、ソドムの町の男たちが、若者も年寄りもこぞって押しかけ、家を取り囲んで、わめきたてた。今夜、お前のところへ来た連中はどこにいる。ここへ連れて来い。なぶりものにしてやるから。」ロトは、戸口の前にたむろしている男たちのところへ出て行き、後ろの戸を閉めて、言った。「どうか、皆さん、乱暴なことはしないでください。実は、わたしにはまだ嫁がせていない娘が二人おります。皆さんにその娘たちを差し出しますから、好きなようにしてください。ただ、あの方々には何もしないでください。この家の屋根の下に身を寄せていただいたのですから。」

 アブラハムの甥ロトがソドムにいた時に、2人のみ使いが派遣された時です。ソドムの男たちがロトの家を取り囲んで「お前の所に来た者を出せ。なぶりものにしてやるから」と叫んでいた時に、ロトが自分の娘たちを差し出すから、好きなようにしてください」といっています。このようなことは、当時は普通だったのでしょうか。

 話は元に戻りますが、レビ人は自分の側女をつかんで、外にいる人々の所に押し出してしまっています。ならず者たちは側女を知り、一晩中朝になるまでもてあそび、朝の光が射す頃、ようやく彼女を放しました。朝になるころ、側女はレビ人のいる家の入り口までたどりつき、明るくなるまでそこに倒れていました。レビ人が朝起きて、旅を続けようと戸を開け、外に出て見ると、自分の側女が家の入り口で手を敷居にかけて倒れていたので、「起きなさい。出かけよう」といいます。しかし、答えはありませんでした。側女は亡くなっていたのです。本当に側女はかわいそうです。私はこのレビ人をどのように受け止めていいのか分かりません。その後、レビ人は側女をろばに乗せて、故郷に帰り、家に着くと、刃物をとって側女をつかみ、その体を12の部分に切り離し、イスラエルの全土に送るのです。これを受け取ったイスラエルの人々は大きな衝撃を受けて、やがて、ベニヤミン族と戦争することになっていきます。

 今日はクリスマスです。天使ガブリエルがイエス様の母となるマリアに告げた言葉が、私の心に響きます。「おめでとう。恵まれた方。主があなたと共におられる」(ルカ1:28)神の子イエス・キリストは、私たちの罪を負って十字架につくためにお生まれになるのです。神の愛の深さを感じます。

祈り 神よ、聖書の学びと祈りの時を与えてくださり、ありがとうございます。1人の側女の人生を思います。人は愛されるために生まれた来たはずです。それが、このような悲しい人生があるのでしょうか。神が、この側女を愛してくださり、御国において癒し、慰めてくださいますように心から祈ります。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                                」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございました。(横山厚志)