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11月3日の礼拝の内容です。

2024-11-02 19:28:00 | 日記
11月3日の礼拝の内容です。讃美歌は、210.451.385.484.26です。聖徒の日(永眠者記念日)の礼拝です。
オンラインのアドレスはhttps://youtube.com/live/YHEkEZc_80s?feature=shareです。

礼拝説教     ヨハネ11:38~44「ラザロ、出て来なさい」  2024.11.3

 今日の教会のカレンダーは、聖徒の日(永眠者記念日)です。先に天に召された方々のことを覚えて、神を礼拝します。教会堂の後方に先に天に召された方々の写真があります。この教会を通して、神と出会い、イエス・キリストへの信仰を与えられ、その信仰生活を送られた方々です。今は地上の生涯を終えて、神のみもとでおられる方々です。この聖徒の日(永眠者記念日)の礼拝の時に、私たちは何を確認するのでしょうか。それはまず、私たちの地上の歩みは限られているということです。私たちの命は限られているということ、誰も生きている者は、必ず死を迎えなければならないということです。人の死や自分の死を考えることは辛いことです。しかし、それは必ず目の前で起って来るのです。それぞれの死は、いろいろな場面があるでしょう。でも、必ず誰もが、その死の時を迎えなければならないのです。死は避けることができないということです。ならば、その時まで、与えられた尊い命の時間を大切に悔いのないように生きていたいと願います。与えられた命は一つです。それも限られた時間があります。そうであるので、大切に命を使っていきたいと心から願います。

 一方で、人の死に対してのキリスト教の役割を考えていきたいと思います。キリスト教も宗教の1つですが、宗教の役割とは何でしょうか。これは私個人の考えですが、私たちの力の及ばない時に、必要なものです。その一番は人の死です。人の死の時に、宗教が大きな役割を果たしています。人の死を宗教によって克服していくことです。教会は、キリスト教は、人の死に対して何を語っているのでしょうか。それはイエス・キリストの十字架です。教会のシンボルといえば十字架です。教会堂のどこかに十字架があります。十字架、イエス・キリストの十字架は何を意味するのでしょうか。それは、イエス・キリストの死と復活です。人の死を克服するために、イエス・キリストの十字架があるのです。

 先週の日曜日に、私たちの教会は1人の兄弟を天に送りました。兄弟の突然の死、そして、葬儀、火葬と行われました。兄弟の葬儀の時に、改めて人間とは何かと考えさせられました。死の前にどうすることもできない、人間の力では克服することはできないと思いました。人の命のはかなさを深く感じました。

 新約聖書の中では、4つの福音書があります。これは、イエス・キリストの働きについて書かれてあるものです。特に、最後の場面では、イエス・キリストの受難、十字架の場面、そして死、埋葬の部分、そして、復活のことを書いてあります。今日の聖書の箇所は、ヨハネによる福音書から、ラザロの復活の場面があります。イエス様は多くの奇跡を行われました。その奇跡の中で、一番というのが、このラザロの復活の場面です。この出来事は、イエス・キリストの十字架を決定的なものとしたといわれています。イエス様は時々、エルサレムに行かれたようです。エルサレムは、聖書の舞台の中心的な町です。イエス様の時代には、このエルサレムには神殿がありました。神がおられる場所として神殿がありました。そこではユダヤ人の大きな祭りが行われていました。イエス様も、この祭りに参加するために、エルサレムに行かれたのです。

 そのエルサレムの近くにべタニアという小さな村がありました。イエス様はエルサレムに行く時には必ず、そのべタニアに行き、そこに住んでいるマルタとマリアの姉妹、そして兄弟のラザロの家に行きました。非常に仲が良かったのです。深い交わりがあったようです。その家の中で兄弟ラザロが重い病気になってしまいました。マルタとマリアは人を送って、イエス様にすぐに来てもらうようにお願いをしています。兄弟ラザロが重い病気になっていて、死にそうだからです。結果的ですが、イエス様は兄弟ラザロが死んで4日目に、べタニアに行きます。兄弟ラザロが死んで、姉妹であるマルタもマリアも深い悲しみの中にありました。マルタもマリアもイエス様に、どうして遅れて来たのですか。早く来てくれれば、兄弟ラザロは死なずにすんだかもしれないのに、文句をいっています。マルタの涙、マリアの涙を見て、イエス様ご自身が涙を流されています。

 イエス様はマルタとマリアと共に兄弟ラザロが眠る墓にやって来ました。墓は洞穴で大きな石の扉で閉じられていました。イエス様が「その石を取りのけなさい」といわれると、マルタは「主よ、4日も経っていますから、もうにおいます」といいました。イエス様は「もし信じるなら、神の栄光が見られると、いっておいたではないか」といわれました。人々がその石を取りのけると、イエス様は天を仰いで「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこういうのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしなったことを、彼らに信じさせるためです」と祈られました。そして、イエス様は「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれたのです。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来ました。顔は覆いで包まれていました。イエス様は人々に「ほどいてやって、行かせなさい」といわれたのです。

 目の前に、兄弟ラザロが葬られた墓があります。ラザロは死んで、すでに4日も経ってしまいました。周りには姉妹であるマルタとマリアが泣いています。イエス様はおられて、墓の石をどかせよといいます。マルタは、「主よ、兄弟は死んで4日も経っています。匂います。」と、イエス様にいいます。どうでしょうか。すでに死んで4日も経ってしまった人を、よみがえさせることができるでしょうか。できないですよね。それが、神の子イエス様にはできるのです。イエス様の奇跡として、死んで4日経ったラザロが、「ラザロ、出て来なさい」というイエス様の言葉を聞いて、墓の中から出て来たのです。まさしく奇跡が起ったのです。イエス様による奇跡です。ラザロは生き返ることができました。でも、また、死を迎えることになるのです。それでは、このラザロの復活は、何を告げようとしているのでしょうか。

 それは、イエス様の死からの復活を告げるものです。もうしばらくすると、イエス様は十字架につけられて死んでしまいます。そして、アリマタヤのヨセフの墓に葬られてしまいます。葬られて3日目の朝です。次のようなことが起りました。

ヨハネ20:11~16
マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。

 イエス様の側には弟子たちだけではなく、多くの女性たちもおりました。イエス様が十字架につけられた時には、弟子たちは逃げていました。女性たちは、イエス様の十字架の場面を遠くからずっと見つめていました。イエス様が十字架で死んで、十字架から下ろされて、アリマタヤのヨセフの墓に葬られていく様子もじっと見つめていました。イエス様の死から3日目の日曜日の朝に、初めて女性たちはイエス様に近づくことができました。その女性の中に、マグダラのマリアがいました。マリアは、イエス様がいない墓の前で泣いていました。復活されたイエス様が「マリア」と、呼びかけています。マリアは振り向いて答えています。ここは、イエス様の復活の場面です。イエス様が十字架で死なれ、墓に葬られて、3日目によみがえられたことは、私たちに何を示してくださっているのでしょうか。

ヨハネ3:16
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

 このみ言葉こそ、イエス様の十字架の死と復活の意味を教えています。イエス様を信じる人は、すべて永遠の命が与えられるのです。永遠の命というのは、何を意味するのでしょうか。私たちは今、生きています。でも、いつかは死を迎える時がやって来ます。死は誰も避けることはできません。でも、イエス・キリストの十字架の死と復活を信じる者は、神によって、永遠の命が与えられて、神の国で、神と共にあることができるのです。このイエス様のみ言葉を、生きる希望として、残された地上の時を悔いのないように生きていきたいものです。永遠の命の約束を信じて生きていきましょう。

祈り 神よ、あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。今日は、聖徒の日(永眠者記念日)の礼拝を守ることができました。すでに、地上の歩みを終えて、あなたのみもとにいる人々と共に礼拝をささげました。彼らのように、復活の命、永遠の命を信じて歩むことができますように、私たちの歩みを支え導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。



11月3日の礼拝の内容です。

2024-11-02 19:26:00 | 日記
11月3日の礼拝の内容です。讃美歌は、210.451.385.484.26です。聖徒の日(永眠者記念日)の礼拝です。
オンラインのアドレスはhttps://youtube.com/live/YHEkEZc_80s?feature=shareです。

礼拝説教     ヨハネ11:38~44「ラザロ、出て来なさい」  2024.11.3

 今日の教会のカレンダーは、聖徒の日(永眠者記念日)です。先に天に召された方々のことを覚えて、神を礼拝します。教会堂の後方に先に天に召された方々の写真があります。この教会を通して、神と出会い、イエス・キリストへの信仰を与えられ、その信仰生活を送られた方々です。今は地上の生涯を終えて、神のみもとでおられる方々です。この聖徒の日(永眠者記念日)の礼拝の時に、私たちは何を確認するのでしょうか。それはまず、私たちの地上の歩みは限られているということです。私たちの命は限られているということ、誰も生きている者は、必ず死を迎えなければならないということです。人の死や自分の死を考えることは辛いことです。しかし、それは必ず目の前で起って来るのです。それぞれの死は、いろいろな場面があるでしょう。でも、必ず誰もが、その死の時を迎えなければならないのです。死は避けることができないということです。ならば、その時まで、与えられた尊い命の時間を大切に悔いのないように生きていたいと願います。与えられた命は一つです。それも限られた時間があります。そうであるので、大切に命を使っていきたいと心から願います。

 一方で、人の死に対してのキリスト教の役割を考えていきたいと思います。キリスト教も宗教の1つですが、宗教の役割とは何でしょうか。これは私個人の考えですが、私たちの力の及ばない時に、必要なものです。その一番は人の死です。人の死の時に、宗教が大きな役割を果たしています。人の死を宗教によって克服していくことです。教会は、キリスト教は、人の死に対して何を語っているのでしょうか。それはイエス・キリストの十字架です。教会のシンボルといえば十字架です。教会堂のどこかに十字架があります。十字架、イエス・キリストの十字架は何を意味するのでしょうか。それは、イエス・キリストの死と復活です。人の死を克服するために、イエス・キリストの十字架があるのです。

 先週の日曜日に、私たちの教会は1人の兄弟を天に送りました。兄弟の突然の死、そして、葬儀、火葬と行われました。兄弟の葬儀の時に、改めて人間とは何かと考えさせられました。死の前にどうすることもできない、人間の力では克服することはできないと思いました。人の命のはかなさを深く感じました。

 新約聖書の中では、4つの福音書があります。これは、イエス・キリストの働きについて書かれてあるものです。特に、最後の場面では、イエス・キリストの受難、十字架の場面、そして死、埋葬の部分、そして、復活のことを書いてあります。今日の聖書の箇所は、ヨハネによる福音書から、ラザロの復活の場面があります。イエス様は多くの奇跡を行われました。その奇跡の中で、一番というのが、このラザロの復活の場面です。この出来事は、イエス・キリストの十字架を決定的なものとしたといわれています。イエス様は時々、エルサレムに行かれたようです。エルサレムは、聖書の舞台の中心的な町です。イエス様の時代には、このエルサレムには神殿がありました。神がおられる場所として神殿がありました。そこではユダヤ人の大きな祭りが行われていました。イエス様も、この祭りに参加するために、エルサレムに行かれたのです。

 そのエルサレムの近くにべタニアという小さな村がありました。イエス様はエルサレムに行く時には必ず、そのべタニアに行き、そこに住んでいるマルタとマリアの姉妹、そして兄弟のラザロの家に行きました。非常に仲が良かったのです。深い交わりがあったようです。その家の中で兄弟ラザロが重い病気になってしまいました。マルタとマリアは人を送って、イエス様にすぐに来てもらうようにお願いをしています。兄弟ラザロが重い病気になっていて、死にそうだからです。結果的ですが、イエス様は兄弟ラザロが死んで4日目に、べタニアに行きます。兄弟ラザロが死んで、姉妹であるマルタもマリアも深い悲しみの中にありました。マルタもマリアもイエス様に、どうして遅れて来たのですか。早く来てくれれば、兄弟ラザロは死なずにすんだかもしれないのに、文句をいっています。マルタの涙、マリアの涙を見て、イエス様ご自身が涙を流されています。

 イエス様はマルタとマリアと共に兄弟ラザロが眠る墓にやって来ました。墓は洞穴で大きな石の扉で閉じられていました。イエス様が「その石を取りのけなさい」といわれると、マルタは「主よ、4日も経っていますから、もうにおいます」といいました。イエス様は「もし信じるなら、神の栄光が見られると、いっておいたではないか」といわれました。人々がその石を取りのけると、イエス様は天を仰いで「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこういうのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしなったことを、彼らに信じさせるためです」と祈られました。そして、イエス様は「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれたのです。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来ました。顔は覆いで包まれていました。イエス様は人々に「ほどいてやって、行かせなさい」といわれたのです。

 目の前に、兄弟ラザロが葬られた墓があります。ラザロは死んで、すでに4日も経ってしまいました。周りには姉妹であるマルタとマリアが泣いています。イエス様はおられて、墓の石をどかせよといいます。マルタは、「主よ、兄弟は死んで4日も経っています。匂います。」と、イエス様にいいます。どうでしょうか。すでに死んで4日も経ってしまった人を、よみがえさせることができるでしょうか。できないですよね。それが、神の子イエス様にはできるのです。イエス様の奇跡として、死んで4日経ったラザロが、「ラザロ、出て来なさい」というイエス様の言葉を聞いて、墓の中から出て来たのです。まさしく奇跡が起ったのです。イエス様による奇跡です。ラザロは生き返ることができました。でも、また、死を迎えることになるのです。それでは、このラザロの復活は、何を告げようとしているのでしょうか。

 それは、イエス様の死からの復活を告げるものです。もうしばらくすると、イエス様は十字架につけられて死んでしまいます。そして、アリマタヤのヨセフの墓に葬られてしまいます。葬られて3日目の朝です。次のようなことが起りました。

ヨハネ20:11~16
マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。

 イエス様の側には弟子たちだけではなく、多くの女性たちもおりました。イエス様が十字架につけられた時には、弟子たちは逃げていました。女性たちは、イエス様の十字架の場面を遠くからずっと見つめていました。イエス様が十字架で死んで、十字架から下ろされて、アリマタヤのヨセフの墓に葬られていく様子もじっと見つめていました。イエス様の死から3日目の日曜日の朝に、初めて女性たちはイエス様に近づくことができました。その女性の中に、マグダラのマリアがいました。マリアは、イエス様がいない墓の前で泣いていました。復活されたイエス様が「マリア」と、呼びかけています。マリアは振り向いて答えています。ここは、イエス様の復活の場面です。イエス様が十字架で死なれ、墓に葬られて、3日目によみがえられたことは、私たちに何を示してくださっているのでしょうか。

ヨハネ3:16
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

 このみ言葉こそ、イエス様の十字架の死と復活の意味を教えています。イエス様を信じる人は、すべて永遠の命が与えられるのです。永遠の命というのは、何を意味するのでしょうか。私たちは今、生きています。でも、いつかは死を迎える時がやって来ます。死は誰も避けることはできません。でも、イエス・キリストの十字架の死と復活を信じる者は、神によって、永遠の命が与えられて、神の国で、神と共にあることができるのです。このイエス様のみ言葉を、生きる希望として、残された地上の時を悔いのないように生きていきたいものです。永遠の命の約束を信じて生きていきましょう。

祈り 神よ、あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。今日は、聖徒の日(永眠者記念日)の礼拝を守ることができました。すでに、地上の歩みを終えて、あなたのみもとにいる人々と共に礼拝をささげました。彼らのように、復活の命、永遠の命を信じて歩むことができますように、私たちの歩みを支え導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。


10月30日の祈祷会の内容です。

2024-10-29 20:00:00 | 日記
祈祷会       士師記15章「サムソンの行動」    2024.10.30

 士師サムソンのことは、士師記13章~16章にかけて書かれてあります。いつものようにイスラエルの人々は主の目に悪とされることを行ってしまいました。そこで、神はイスラエルの敵として、ペリシテ人を送り、40年間も支配されるのです。その時に士師として活躍するのが、サムソンです。サムソンはダン族のマノアとその妻の間に生まれます。ナジル人ととして神に仕える者として生まれて来るのです。ナジル人としてしてはならないことは、ぶどう酒や強い飲み物を飲まない、汚れた物を一切触れないことなどがありました。

 士師サムソンの働きとして、ナジル人としてふさわしくない歩みをしていきます。怪力の持ち主であり、女性に弱い部分がありました。サムソンは成長して、ティムナに行き、1人のペリシテ人の女性を好きになり、結婚したいと両親に告げました。イスラエルの人々、それもナジル人である者は、異邦人との結婚は許されないものでしたが、サムソンは両親の反対を押し切って結婚したいと話を進めてしまいます。サムソンは両親と共にティムナに行き、ペリシテ人の女性と結婚することになります。その結婚の披露宴の時、サムソンはペリシテ人の出席者30人になぞかけをします。ペリシテ人もそのなぞかけに応じます。ペリシテ人は、サムソンの出したなぞの答えを得ることができず、サムソンの妻を脅迫して「あなたは夫をうまくいいくるめて、このなぞの意味を我々に明かすようにしてほしいと、そうでなければ、火を放ってあなたを家族もろとも焼き殺す」というのです。サムソンがペリシテ人になぞかけをしなければ、サムソンの妻はこんなに苦しまなくてもよかったのです。披露宴が開かれた1週間、妻は夫に泣きすがって、なぞの意味を教えて欲しいと懇願します。妻はしつこくせがんだので、7日目になぞの意味を証してしまいます。妻はすぐにペリシテ人にそのなぞの意味を教え、殺されずにすみました。そこで、サムソンはアシュケロンに下って、30人を打ち殺すことになりました。妻が、自分が教えてことを仲間に伝えたことで腹を立てたサムソンは、自分の父の家に帰ってしまいました。サムソンの妻は、サムソンに付き添っていた友のものとなってしまったのです。ここもサムソンのわがままが目立ちます。

 しばらくして、小麦の収穫の時です。サムソンは一匹の子ヤギを携えて、妻を訪ねます。このころは通い婚といって、妻は実家にいて、そこへ夫が通っていくというものだったと思います。サムソンが「妻の部屋に入りたい」といいましたが、妻の父は入らせませんでした。父は「わたしはあなたが娘を嫌ったと思い、あなたの友に嫁がせてしまった。むしろ妹の方がきれいではないですか。その妹を代わりにあなたの妻にしてほしい」と告げました。サムソンは「今度はわたしがペリシテ人に害を加えても、わたしに罪はない」といって、ジャッカル300匹を捕らえ、松明を持って来て、ジャッカルの尾と尾を結び合わせ、その2つの尾の真ん中に松明を一本ずつ取り付けました。その松明に火をつけると、サムソンはペリシテ人の麦畑に送り込み、刈り入れた麦の畑やぶどう畑、オリーブの木に至るまで燃やしたのです。サムソンは自分の妻とその父親が裏切ったのですから、彼らに復讐すればいいのに、ペリシテ人全体に復讐しているのです。争いの火種を増やすことになってしまいます。麦畑などを燃やされたペリシテ人は、これはいったい誰がやったのかとなります。やったのはサムソンで、サムソンが、自分の妻を父親に取り上げられ、その友に与えたからだと分かると、ペリシテ人はその父親と娘に、火を放って焼き殺してしまいます。そのことを知ったサムソンは、ペリシテ人に仕返しをして、徹底的に打ちのめします。そしてエタムの岩の裂け目に住みます。逃げるような形でしょうか。今度はペリシテ人がユダに上って陣を敷き、展開します。ユダの人々が「なぜ、我々に向かって上って来るのか」と正したところ、ペリシテ人は「攻め上って来たのはサムソンを縛り上げて、我々に対する仕打ちの仕返しをするためだ」と答えます。すると、ユダの人々3000人が、エタムの岩の割れ目に下って行き、サムソンに「我々がペリシテ人の支配下にあることを知らないのか。何ということをしてくれたのか」というと、サムソンは「ペリシテ人がわたしにしたように、ペリシテ人にしただけだ」と答えます。ユダの人々は「我々は、お前を縛ってペリシテ人の手に渡すためにやって来た」といいます。サムソンは「あなたたちはわたしに害を加えないと誓ってくれるか」と問うと、ユダの人々は「我々はただお前を縛ってペリシテ人の手に渡すだけだ。殺しはしない」と答えます。ユダの人々は、新しい縄2本でサムソンを縛り、岩から連れ出し、ペリシテ人の所に連れて行きます。

 サムソンはペリシテ人の所に着くと、ペリシテ人は歓声を上げてサムソンを迎えます。その時に、サムソンの上に主の霊が激しく降り、腕を縛っていた縄は落ちました。サムソンは真新しいろばのあご骨を見つけて、手を伸ばして取り、これで1000人のペリシテ人を打ちました。歌を歌っています。戦いの中でサムソンは非常に喉が渇くのです。サムソンは主に「あなたはこの大いなる勝利を、この僕の手によってお与えになりました。しかし今、わたしは非常に喉が渇いて死にそうで、無割礼の者たちの手に落ちようとしています」と祈ります。主はくぼんだ地を裂き、そこから水が湧き出るようにされました。サムソンはそのから水を飲み、元気を取り戻し、生き返ることができました。そのために、その泉はエン・ハコレ(祈る者の泉)と呼ばれたといいます。サムソンはペリシテ人の時代に、20年間、士師としてイスラエルを裁いたと書いてあります。ここまでのサムソンの行動を私たちはどのように受け取ればいいのでしょうか。

ヘブライ11:32~34
これ以上、何を話そう。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、また預言者たちのことを語るなら、時間が足りないでしょう。信仰によって、この人たちは国々を征服し、正義を行い、約束されたものを手に入れ、獅子の口をふさぎ、燃え盛る火を消し、剣の刃を逃れ、弱かったのに強い者とされ、戦いの勇者となり、敵軍を敗走させました。

 これはヘブライ書の受け止め方です。サムソンの行動を肯定しています。サムソンの行動が神によって正しいものとされ、イスラエルのために戦い、勝利を与えたというものです。人は弱い者です。その弱さも神は受け止めて、救いを実行されるということです。

祈り 神よ。聖書の学びと祈りの時を与えてくださり、ありがとうございます。サムソンの行動を、どのように受け止めればいいのでしょうか。分からない部分があります。それでも、あなたがサムソンを導いてくださったことを受け止めることができるようにしてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                         」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございました。(横山厚志)


10月23日の祈祷会の内容です。

2024-10-22 20:11:00 | 日記
祈祷会      士師記14章「サムソンとその働きは」   2024.10.23

 士師サムソンについては、士師記13章~16章にあります。前回の士師記13章では、士師サムソンの誕生の様子が書かれてありました。イスラエルの人々は主の目に悪とされることを行ったので、主はイスラエルの人々を40年間、ペリシテ人の手に渡されたのでした。そこで、ダン族のマノアとその妻との間に、サムソンは生まれるのですが、主のみ使いによって、生まれてくる子は生まれた時からナジル人として神にささげられたものとして歩むことになっていました。ナジル人とは神に仕えて歩む人生を送ることを意味しています。ナジル人としてしてはならないことがあります。ぶどう酒や強い飲み物を飲まない、汚れた物を一切食べないこと、髪の毛を切らないこと、死んだものに近づかないことなどです。

 そして、士師サムソンの誕生です。サムソンは成長し、主はサムソンを祝福されました。サムソンはティムナに行って、ペリシテ人の娘に目をひかれます。サムソンは両親のところに行って、「ティムナに行って1人の女性、ペリシテ人の娘に目をひかれました。どうか、彼女をわたしの妻に迎えてください」と願います。両親は「お前の兄弟の娘や同族の中に、女性がいないとでもいうのか。無割礼のペリシテ人の中から妻を迎えようとは」といって、反対します。イスラエルの人々は同族との結婚だけが許されていました。まして、異邦人との結婚は許されていませんでした。それを知っているサムソンは好きになったからといって、簡単に破ってしまうのです。両親の反対があっても、サムソンは父に「彼女をわたしの妻として迎えてください。わたした、彼女が好きです」と願います。イスラエルの人として許されないことです。このサムソンの行動を、4節「父母にはこれが主のご計画であり、主がペリシテ人に手がかりを求めておられることが分からなかった。当時、ペリシテ人がイスラエルを支配していた」と書いています。サムソンがペリシテ人の女性と結婚することは、イスラエルの人々にとってはしてはいけないことですが、あえて、主はそれを許し、ペリシテ人の脅威をイスラエルから排除するための計画だといいます。

 サムソンは両親と共にティムナに向かって行きました。それはペリシテ人の女性と結婚するためでした。道の途中で、両親と離れます。サムソンはティムナのぶどう畑まで来たところ、一頭の若い獅子がほえながら向かって来ました。その時に主の霊が激しくサムソンに降り、手に何も持たなくても、子ヤギを裂くように獅子を裂きました。しかし、サムソンはこのことを両親には何もいわなかったのです。サムソンは女性のところに行って、言葉をかけました。サムソンは女性が好きでした。しばらくしてサムソンは彼女を迎えに戻って行ったが、あの獅子の屍を見ようと脇道にそれたところ、獅子の死骸には蜜蜂の群れがいて、蜜がありました。サムソンは手で蜜を集め、歩きながら食べました。また両親のところに行き、蜜を差し出したので、両親も食べました。しかし、その蜜が獅子の死骸からかき集めたものだとはいいませんでした。それは、ナジル人として死んだものに近づいてはならないことを破っているからです。

 結婚の披露宴でしょうか。サムソンはペリシテ人の30人と共に宴会を開きます。サムソンは30人の客に「あなたたちになぞをかけたい。宴会が続く7日間にその意味を解き明かし、いい当てるなら、わたしはあなたたちに麻の衣30着と、着替えの衣30着を差し上げる。もし解き明かせなかったら、その反対になる」といいました。彼らはそのなぞかけに応じました。サムソンは「食べる者から食べ物が出た。強いものから甘いものが出た」となぞかけをいいました。彼らは3日間経っても、このなぞが解けませんでした。7日目になって、彼らはサムソンの妻に「夫をうまくいいくるめて、あのなぞも意味を我々に明かすようにしてほしい。さもないと、火を放ってあなたを家族もろとも焼き殺してやる。まさか、我々からはぎ取るために招待したわけではないだろう」といって、脅します。サムソンの妻は、夫に泣きすがって「あなたはわたしを嫌うだけで、少しも愛してはくださらず、わたしの同族にかけたなぞの意味を、このわたしにも明かそうとなさいません」といいます。サムソンは「両親にも明かしていないのに、お前に明かすわけがないだろう」と答えます。宴会が行われた7日間、妻はサムソンに泣きすがったのです。妻がしつこくせがんだので、7日目には明かしてしまいました。妻は同族の者にそのなぞを明かしました。

 7日目のこと、日が沈む前に30人はサムソンに「蜂蜜より甘いものは何か。獅子より強いものは何か」と答えます。するとサムソンは「わたしの雌牛で耕さなかったなら、わたしのなぞは解けなかっただろう」と答えて、自分の妻が知らせたことをいっています。サムソンはアシケロンまで行き、そこで30人を打ち殺し、彼らの衣をはぎ取って、着替えの衣としてなぞを解いた者たちに与えました。サムソンは怒りに燃えて自分の父の家に帰ってしまったのです。サムソンの妻は、サムソンに付き添っていた友のものとなったのです。元はといえば、サムソンが宴会の時に、なぞかけを持ちかけたから、このような悲劇になってしまったのです。ここまでサムソンはして来たこと、異邦人との結婚、死体に近づいたこと、ぶどう畑に行ったことなどです。ナジル人として許されないことを犯しています。どうして、士師としてサムソンが選ばれたのでしょうか。それもナジル人としてです。サムソンがペリシテ人の女性と結婚すること、最初、両親は反対していました。そのことを、これは主の御計画であると(士師記14:4)答えています。これは、どのような意味があるのでしょうか。これは創世記のヨセフ物語に通じることがあると考えます。

創世記45:4~5
ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか、もっと近寄ってください。」兄弟たちがそばへ近づくと、ヨセフはまた言った。「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。」

 ヨセフは兄弟たちから憎まれて殺されそうになりました。エジプトに奴隷として売られてしまったのです。その後、世界中に大飢饉が起るということで、エジプトで宰相になることになり、エジプトで兄弟たちと再会した時にいったヨセフの言葉です。人の憎しみを越えて、神は救いを行うことができるという意味です。サムソンの場合もそのように受け止めることができるのでしょうか。

祈り 神よ、聖書の学びと祈りの時を与えてくださり、ありがとうございます。士師サムソンのことを見てきました。サムソンの行為をどのように受け止めることができるでしょうか。でも、そのようなサムソンを用いて、神のご計画としてくださること、ペリシテ人の脅威からイスラエルの人々を守るために行ってくださることです。あなたのご意志を少しでも理解することができる知恵を与えてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                               」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございます。(横山厚志)


10月20日の礼拝の内容です。

2024-10-19 16:36:00 | 日記
10月20日の礼拝の内容です。讃美歌は、83.394.484.504.27です。教会創立136周年記念日です。
オンラインのアドレスはhttps://youtube.com/live/K6zEsUvE7g0?feature=shareです。

説教     ヨハネ4:7~15「永遠の命に至る水」    2024.10.20

 週報を見てください。日本基督教団瀬戸永泉教会、1888年10月20日創立と書かれてあります。今日は、2024年10月20日ですから、教会創立136周年となります。私たちの教会は、瀬戸教会ではなくて、瀬戸永泉教会となっています。永泉が入っています。この意味を現す聖書の箇所が、ヨハネ4:14です。先人たちが、この瀬戸永泉教会に込めた意味を考えていきたいと思います。ここでキーワードになるのが「水」だと考えます。

 私たちが水を考える時、豊かな水が身近にあり、水道から溢れるばかりの水が出てきます。また、お風呂も沸かして、ゆったりと入ることができています。水に関して不自由を感じることはない生活をしています。9月の後半に、能登地方を中心に大雨の被害がありました。先日、輪島市に行った時に、水害のすごさに驚きました。普段は、小さな川だったのが、大雨の影響で、水があふれて洪水が起り、大きな被害がありました。泥出しをしている時に、その日はとても暑い日でした。少しの時間でも重い泥を片付けている時に、大汗をかいてしまいました。休憩時間に水を飲んで、本当に生き返りました。水の有難さを深く感じたのです。今から、136年前の瀬戸地域の人々の水の事情はどのようなものだったのでしょうか。今のように水道があり、自由に水を飲むことができる状態ではなかったと想像します。私の勝手な想像です。間違っていたらすみません。

 話は、ヨハネによる福音書に入っていきます。この聖書の箇所は、「イエスとサマリアの女」という題になっています。イエス様の活動が進んでいきました。すると、洗礼者ヨハネより、イエス様の弟子たちが多くいるという話がファリサイ派の人々の耳に入っていったということです。イエス様はファリサイ派の人々からの攻撃を受けることになることを思いました。直接の戦いは、まだ早かったのです。それで、イエス様はユダヤ地方からガリラヤ地方に逃れていきます。その途中で、サマリア地方を通ることになりました。ここで、イエス様はサマリアの女性と出会うのです。この聖書の箇所全体を読んでいきますと、イエス様によるサマリア人伝道の様子が書かれてあるのです。1人のサマリアの女性を通して、サマリア人伝道とつながっていくのです。

イエス様はユダヤを去り、ガリラヤに行かれます。しかし、サマリアを通らねばならなかったとあります。それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られました。そこにはヤコブの井戸がありました。イエス様は旅に疲れて、そのまま井戸に座っておられました。正午のことでした。弟子たちは食べ物を買いに町に行っていました。そこにサマリアの女性が水を汲みに来ました。当時は、水汲みは女性の仕事だったといわれています。それは普通、朝に行われていたのです。ところが、この女性は熱い正午のころに水を汲みにやって来たのです。このサマリアの女性の境遇は、ヨハネ4:17~18「5人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない」というものです。この女性の置かれた環境が、他の人々の目を避けて生きていた。朝、水汲みに行くのを避けていたから、正午に1人で水汲みにやって来たということです。

イエス様とサマリアの女性の間には、いろいろな課題がありました。イエス様はユダヤ人であり、この女性はサマリア人でした。ユダヤ人とサマリア人は当時、交際していなかったのです。もともとは同じユダヤ人でした。しかし、昔にアッシリアが北イスラエルを攻めて来た時に、移住政策と混血政策のために、北イスラエルのいたユダヤ人たちは異邦人と混血するようになってしまいました。南のユダも後にバビロニアによって滅ぼされまして、捕囚という厳しい状況にありましたが、ユダヤ人の純血を守ることができました。南のユダヤ人は北のユダヤ人をサマリア人と呼んで、混血のために汚れているとして交際しないことになってしまったのです。また、当時の社会は男性中心社会でした。外で男性が女性に話しかけることはなかったというのです。そのような社会的な壁はありましたが、イエス様はそれを乗り越えて、このサマリアの女性に声をかけるです。

ヤコブの井戸に、このサマリアの女性が水を汲みに来ました。イエス様は「水を飲ませてください」と、この女性に声をかけたのです。すると、サマリアの女性は「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と聞きました。イエス様は「もし、あなたが神の賜物を知っており、また、水を飲ませてくださいといった者が誰であるか知っておれば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたであろう」と、答えています。女性は「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手に入れるのですか。あなたはわたしたちの父ヤコブより偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、ヤコブ自身もその子どもや家畜もこの井戸から飲んだのです」と答えます。

そして、イエス様は「この水を飲む者は誰でもまた渇く。しかし、わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」と答えています。すると女性は「主よ、渇くことのないように、また、ここに汲みに来なくてもいいように、その水をください」と願っています。イエス様とこのサマリアの女性の会話は続きます。やがて、弟子たちが帰って来ます。すると、この女性は水がめをそこに置いたまま町に行き、町の人々にいうのです。「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません」と。サマリアの人々は町を出て、イエス様のもとにやって来るのです。

さて、その町の多くのサマリア人は「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました。」と証言したこの女性の言葉によって、イエス様を信じるのです。そこで、このサマリア人たちはイエス様のもとにやって来て、自分たちのところに留まるようにと頼んでいます。イエス様は2日間滞在されます。そして、更に多くの人々が、イエス様の言葉を聞いて信じていくのです。このように、イエス様によるサマリア人伝道がなされているのです。そのきっかけは、この一人のサマリアの女性です。この女性は、正午に水汲みにやって来ました。それは人々に会うことを避けるためでした。しかし、イエス様との出会いによって、この女性は変えられていくのです。自分が、ヤコブの井戸に来た意味を忘れて、水がめを置いて、町に帰って行き、人々にイエス様のことを伝えていくのです。

この一人のサマリア人の女性を通して、イエス様によるサマリア人伝道がなされていきました。当時のユダヤ人とサマリア人の状況がありながら、その壁を乗り越えていくのです。さて、これからイエス様がこの女性にいわれた言葉の意味を考えていきたいと思います。ヤコブの井戸、この井戸から多くの人々が、その水によって命をつないでいくことができました。井戸があること、水があることは、人々の命に関わる問題になっています。水があることによって、人々はそこで生きることができるのです。水がなければ、人々はそこで生きていくことができなくなるのです。イエス様は、まず人々が飲む水をいいました。この水を飲む者はだれでも渇くと、その通りです。絶えず、私たちは水が必要なのです。飲んでもまた、渇きを覚え、水を飲んでいきます、こうして、生きていくのです。

これからはイエス様が与える水のことをいっています。しかし、わたしの与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出ると。水は必要です。私たちが生きるために必ず必要です。では、永遠の命に至る水はどうでしょうか。イエス様が与えてくださる命の水、それは、私たちが永遠の命に至る水です。

いつもいうことですが、私たちは生きています。生きている者は、いつかは死を迎えることになります。私は毎週木曜日の午後に、ホスピスに行き、チャプレンとしての働きをしています。本当に死を前にした人と話します。又は、その家族と話します。ずっとその方が話すことを聞き尽くすのです。今まで、自分がどのように生きてきたのかを振り返るのです。自分のこと、親の子と、兄弟のこと、友人のこと、いろいろな良い思いでもあります。後悔が残っていることもあります。そして、その時がやって来ます。人の死、自分の死を、私たちは受け止めることができるのでしょうか。

そこにイエス・キリストの福音がある。イエス様が語る永遠の命に至る水がある。きっと大きな慰めになるのです。私たちの先にある死、そして、その先にある復活の命、永遠の命、イエス様にある希望があります。その永遠の命の水があることを、私たちの教会は、伝えていくのです。

祈り 神よ。私たちの教会は創立136周年を迎えることができました。長い日々を、あなたが守ってくださり、導いてくださったことを心から感謝します。今、教会を巡る様々な困難を抱えています。でも、教会をあなたが導いてくださることを信じています。イエス・キリストの永遠の命の至る水のことを伝えることを、あなたから託されています。私たちの瀬戸永泉教会を通して、神から与えられる永遠の命に至る水があることを、伝えていくことができますように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。