1月19日の礼拝の内容です。讃美歌は、361.412.452.457.26です。
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礼拝説教 使徒13:42~52「神の恵みの中で生きる」 2025.1.19
1995年1月17日に、阪神大震災が起りました。その時から30年が過ぎました。あの日は金曜日だったと思います。私は埼玉県飯能市にある日本基督教団飯能教会にいました。朝5時46分に地震が起りました。約6400人以上の方々がなくなりました。その時から2ケ月後に神戸に入りました。大きくゆがんだ道路、大きなビルが倒壊していました。ある場所では火災が起り、焼け跡が残っていました。大きい傷を神戸の町に残しました。その後、様々な災害が起りました。東日本大震災、昨年1月1日に起った能登半島地震です。日本に住んでいるといろいろな災害が起ります。その時に大切なことは、起りうる災害に備えることです。つまり、防災、減災が大切だといわれています。ある時のために、私たちは備えることが何よりも大切なのです。
私は礼拝で、使徒言行録を読んでいます。キリスト教の最初の記録が書かれてあります。イエス・キリストによって始まったキリスト教が、その弟子たちによって、どのようにエルサレムから当時の中心であったローマにまで伝わっていったのかが分かります。使徒言行録は大きく2つに分けることができます。1~12章は、イエス・キリストの福音がユダヤ人に伝えられていくのです。13~28章は、イエス・キリストの福音が異邦人に伝えられていくのです。使徒言行録13章では、アンティオキアに初めて異邦人の教会が誕生しました。そのアンティオキア教会からバルナバとサウロが派遣されて、第1回伝道旅行が開始されています。その旅は、バルナバの出身地であるキプロス島からスタートしました。そしてピシディア州のアンティオキアに行きます。
そして、安息日にユダヤ人の会堂に入って席に着きます。律法と預言者の書が朗読された後、会堂長たちが人をよこして「兄弟たち、何か会衆のために励ましの言葉があれば、話してください」といわれて、パウロが立ち上がって話し始めていきます。これがパウロによる初めての説教となっていきます。説教の内容は、イスラエルの歴史を通して、神が救いの業を行ってきたことを語っていきました。出エジプト、荒れ野の旅、ヨシュアによる約束の地に入って行くこと、士師時代、王国時代、サウル、ダビデ、特に、ダビデから救い主イエス・キリストの誕生をいいます。更に洗礼者ヨハネの言葉から救い主イエス様のことをいっています。
パウロは、ピシディアのアンティオキアのユダヤ人の会堂の集まっているユダヤ人に向けて話し続けています。彼らに、兄弟たち、アブラハムの子孫たち、ならびにあなたがたの中にいて神を畏れる人たちと呼びかけて、この聖書を通しての救いの言葉は私たちに送られたというのです。エルサレムに住むユダヤ人やその指導者たちは、イエス様を認めず、また、安息日ごとに読まれる預言者の言葉を理解せず、イエス様を罪に定めることによって、死に当る罪はないのに、イエス様を死刑にするようにローマ総督ピラトに求めました。イエス様は十字架につけられて死なれました。十字架から下ろされて墓に葬られました。これはすべて神の御心だったといいます。神はイエス様を死者から復活させてくださった。復活されたイエス様は弟子たちにその復活の姿を幾日も渡って現してくださったのです。イエス様の弟子たちは、今、イエス様の証人となって、先祖に与えられた約束について、あなた方に福音を伝えています。神は、イエス様を復活させて、私たちのために、子孫のために、その救いの業を実現してくださったのです。神は、イエス様を復活させて、もはや朽ち果てることがないようにしてくださいました。ダビデは、神の計画に仕えた後、死んで朽ち果ててしまいました。
しかし、神が復活させてくださったこの方は、朽ち果てることがなかったのです。そして、パウロは福音の中心に迫って来ます。だから兄弟たち、知っていただきたい。イエス様による罪の赦しが告げ知らされ、あなたがたがモーセの律法では義とされなかったのに、信じる者は皆、イエス・キリストによって義とされるのです。パウルの説教を聞いたユダヤ人は、全く新しい言葉を聞いたのです。イエス・キリストの福音を聞いたのです。モーセの律法では義とされないこと、イエス・キリストの十字架の死と復活によって義とされるということです。
パウロたちが会堂を出る時に、ユダヤ人たちは次の安息日にも同じこと話してくれるように頼んでいます。集会が終っても多くのユダヤ人と神をあがめる改宗者とがついて来ます。パウロたちは、彼らに語り、神の恵みの下で生きるように勧めています。次の安息日になりますと、ほとんど町中の人が神の言葉を聞こうとして集まって来ています。
ここで、ユダヤ人たちが、多くの群衆を見て、ひどくねたみます。口汚くののしって、パウロに反対していきます。ユダヤ人たちはずっと大切にしてきたことがありました。ずっと守ってきたことがありました。それは、モーセの律法を守って生きるということでした。それを、パウロからモーセの律法を守ることはできないこと、神に義とされないといわれたことに我慢ができなかったのです。更に、イエス・キリストのよって義とされることといわれたことに強く反発していきます。町の多くの人々が、パウロの言葉を聞こうとして集まったことも、ねたむことになってしまいました。
パウロたちは、反対するユダヤ人に「神の言葉はあなたがたに語られるはずでした。だが、あなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、私たちは異邦人の方に行く」と勇敢に語ります。
異邦人たちはこれを聞いて喜び、神の言葉を賛美しています。そして、永遠の命を得るように願った人々は皆、信仰に入って行きます。このようにして、イエス・キリストの福音はその地方全体に広まっていきます。ところが、ユダヤ人たちは神をあがめる貴婦人たちや町のおもだった人々を扇動して、パウロたちを迫害させ、その地方から追い出してしまいます。それで、パウロたちは彼らに対して足の塵を払い落とし、イコニオンに行きます。他方、弟子たちは喜びと聖霊に満たされています。
イエス様の働きが書かれてある4つの福音書を読んでいると、神に選ばれたユダヤ人の役割がはっきりとしてきます。旧約聖書で、神はユダヤ人を通して、モーセの律法を与え、それを守ることによって、神に義とされるとされていました。でも、そうではなくて、モーセの律法では、神によって義とされないことが分かるのです。更に、モーセの律法によっては、ユダヤ人に神の前に自分たちの罪が明らかにされるということです。そのユダヤ人の罪の大きなものは、神の子イエス・キリストを十字架にかけてしまうということです。つまり、ユダヤ人の役割は、モーセの律法によっては義とされないこと、モーセの律法によって自分たちの罪が明らかにされるということ、そして、ユダヤ人がイエス・キリストを十字架にかけて殺してしまうということです。
悲しいことに、多くのユダヤ人たちは、その自分たちの役割に気づいていないということ、また、イエス様の弟子たちを迫害し、教会を荒らしてしまうことになっていきます。使徒言行録でも、使徒たちの働きを妨害し、迫害し、時には殺してしまいます。パウロによる異邦人伝道がこれから本格化していきます。そのパウロの伝道活動で障害となるのは、ユダヤ人たちでした。これからも、パウロの伝道に対する抵抗、迫害を続けていくのです。
ふと、振り返ってみると、悲しいことではありませんか。旧約聖書を見てください。新約聖書に比べて、本当にあついです。旧約聖書の内容は、神がユダヤ人を通して、人間の救いの業を行うというものです。それが、神の救いの業を無にすることになってしまうことをどのように受け止めればいいのでしょうか。神がユダヤ人を選ばれたことの意味を考えると何とも悲しいことだと思います。パウロは、ここで自分たちはこれからユダヤ人ではなく、異邦人の方に行くといっています。でも、パウロの伝道を見ていると、まず、ユダヤ人の会堂に入って行きます。その新しい町に入って、そこにあるユダヤ人から伝道をしていきます。それから、異邦人の方に行っています。パウロのユダヤ人に対する思いは、とてもあついものがあります。
ローマ9:2~4
わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。
このようにパウロは、同胞であるユダヤ人の救いについて、強い気持ちを持っていました。この点も忘れることなく、伝道を考えていきたいと思います。私たちは改めて、イエス・キリストによる救いを受け止めていることに感謝をしたいと願います。最初に、私は震災を通して、備えの大切さをいいました。イエス・キリストへの信仰も同じだと思います。いつか来る、その時のために、今、備えることが必要です。私たちは、イエス・キリストへの信仰を持って、神の国を目指して歩んで行こうではありませんか。
祈り 神よ。あなたを皆さんと一緒に礼拝することができましたことを心かから感謝します。備えることについて考えて来ました。私たちには聖霊を通して、イエス・キリストの福音が与えられています。神の恵みの中で生きていることができています。どのような時でも、あなたを見上げて、希望と喜びと感謝を持って歩むことができますように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。