さて、またまた続けてTongaの事(但し1980年代)を
ご案内させていただきますね。
まづは、Tongatapu島の交通事情について
最もポピュラーな公共交通機関はやはりバス
首都のあるTongatapu島では中古のバス(窓ガラスのないタイプがほとんど)
離島のVava’u島ではボンネット型のトラックの荷台に乗るタイプ
(ほとんどが砂洲でできたHa’apai諸島では車両よりも船外機付きのボートでした)
↓これは当時では最もまともなバスですが
なんせたぶんオーストラリアかニュージンランドからの中古
しょっちゅうエンストするのですが
乗客も慣れたもので
よく主要道路で数名の客が降りて押しがけしてる光景に出くわしました。(笑)
次に紹介するのが現地での名称がベートル(Vae Tolu:足三つ=三輪車)
大家族が基本のトンガでは主に市街地の中心部での
観光客御用達って感じでした。
↑ この三輪車の後ろにある中古トラックがそののち最もポピュラーな車となり
ファミリー単位(数家族、10~15名)で所有して
土曜日の市場での買い出しや
ピクニックと称してファミリー総出で荷台に乗り込みドライブを楽しんでました。
(購入資金は出稼ぎや移住しているファミリーからの援助で)
タクシーと言えば、この小型ジープのような”Mini Moke”(ミニモーク)
市場で買った食料品を積み込んでの利用が多かったですね。
Tongatapu島はほぼノッペリとした土地だったので普通に走ってましたが
起伏の多いVava’u島では下り坂になるとエンジンを切って
惰性で下ってました。
島嶼間の交通は
当時ドイツからの援助で供与されていた
Olovaha号(Tongatapu~Ha’apai~Vava’uを週一で運航)と
Tongatapu島の隣のEua島間用の小型フェリーがありましたが
その他の島々へは寄港しないのと
修理でニュージーランドにドック入りしたり故障したりと
運航が不定期になることが多かったため
中古鮪延縄船が運航していました。
(中古鮪延縄船の後ろはオーストラリア、ニュージーランドとの定期航路に就航していた貨物船で
Tongatapu島とVava'u島の直行便として利用したりしていました。但し旅客は甲板でのみ乗船可)
それからセスナに毛の生えたような小型飛行機もあって
パイロットは一人だけ
Tongatapu島とHa’apai諸島のPangai,
Vava'u島の間を、安息日の休日を除きほぼDailyで飛んでました。
これは私が再赴任してしばらくたった1985年頃だったかな?
王様がどこかの先進国に得意のオネダリして
Royal Tonga Airとして当初は小型プロペラ機から
後にはたしか737がリースされて周辺諸国(Samoa, Fiji)他
NZ, OZにHawaiiまで就航していた時期もありましたが
なんせ王族による援助頼みの放漫経営で赤字の垂れ流しとなり
結局2004年に休業となりました。
それ以外にも
Vava’uにはParadise Hotelと言う名称の
トンガきってのアメリカンスタンダードの高級リゾートホテルがあり
アメリカ人の富豪が趣味半分のようにして自分で建て増ししながら
見事なリゾートホテルにしていたのですが
そのオーナーとビジネスパートナーの”グリーンベレー”あがりのドイツ系アメリカ人がいて
双発のプロペラ機を自分たちで操縦して
チャーターベースで首都のTongatapu島や
American Samoaなどにホテルの客を送迎したりしてました。
続いて食料事情も少々
それぞれの諸島の中心部に公営の市場があり
農家や漁師が持ち込みで販売するのが最も一般的な買い方
市場の中以外でもこうして露天売りしてました。
(手前がパンの実”Bread Fruit”、奥が食用バナナなど)
左半分がKumala(サツマイモ)右が西瓜
中央が熟したココナッツ(ココナッツミルク用)
左がlemaniと呼んでいた柑橘系(右はサツマイモ)
こちらは魚貝類市場の浅蜊
当時の価格でバスケット(籠)1Pa’anga(T$1=220円)
写真に撮るのを忘れてましたが
ロブスターが10匹単位紐でくくられてT$10=2,200円
蛸は天日干しして売られてましたがT$5=1,100円と高価な食材でしたが
その干し蛸、ココナッツミルクとChile(島唐辛子)で煮込むと激ウマでした
↓ この右端がトンガのオカマ(Fakaleti:女モドキ)
Tongaでは女の子が生まれないと、その末っ子を物心つく前に女の子のように育て
オカマにしちゃうらしく、ラグビー選手みたいなガタイのオカマが結構いました。
(因みに、テーブルの上にあるのはココナッツとパッションフルーツ
↓こちらは、ココナッツジュース用のもの
↓これが主食して最も人気のタロイモ
バナナとパパイヤ(バナナは基本房売り)
これは最もリースナブルな主食のキャッサバ(トンガ語でManioke)
主に皮を剥いて茹でて食べるのですが生だと毒(腸内で青酸ガスが発生)なのが難点
↓ 貝類(左側がトコブシ、中央がシャコ貝)
恥じらいもせず展示台の下で休んでるのが”らしくて”いいでしょ~
こちらは、主食の中でも最も高価なヤム芋(Ufi)
我々日本人がトロロのようにして食べていると「毒がある!」と恐れながら言われましたが
まだ生きてるから大丈夫だったんでしょうね。
これは最も一般的なタロイモ
茹でたり、ウム(焼いた石で作るオーブン料理)で蒸して食べます。
沖縄の田芋やハワイのように水田で耕作するものと違い
畑で栽培するのですがキャッサバよりも時間がかかるため高価でした。
上の積んであるのはタロイモの葉で(Lu)
ウム料理の時に、コンビーフや羊肉などを塩と胡椒で味付けして
濃い目のココナツミルクを加えてこの葉で包み
更にバナナの葉で包んで蒸すのですが
これがもう絶品
市場は基本平日は毎日開いているのですが
やはり一番混雑するのが土曜日の午前中
お客も沢山集まるので質も量も多くなり必然的に混むようになってました。
Fish Marketも同様ですね。
青果類の市場にも写ってましたが
蝙蝠傘は外出時の女性の必需品
雨ではささず、日除け用でした。
普段の買い物は
Tongatapu島では
そこそこモダンなOZ,NZ系スーパーマーケット2軒と
冷凍食材専門のCold Store(BeefのFiletや鶏、ソーセージの輸入品)
昔の田舎の百貨店的な地元のスーパーマーケットが数軒
近所にある掘っ立て小屋の雑貨屋(Falekoloa)で
もっぱら煙草の買い物がてら
このお店でオネーチャンと無駄話するのが楽しみのひとつでした。
(右端がわたし)
当時は、南太平洋といえば”缶詰文化”と言われた時代で
海に囲まれてるのにサバやサンマの缶詰が主なタンパク源になってました。
海に囲まれた島国とはいえ
鮮度を要求される食材の保存法や輸送手段のなかった時代のこと
それらで外貨収入を得ることはできず
狭い国土では隣国Fijiのように奴隷を連れて来てサトウキビを栽培することもできず
英国も植民地とせずに保護領でいられたんだろうなと思っていました。
そんなわけで輸出できるものと言ったらコプラ(石鹸の原料となるココナッツ)程度しかなく
国としては、『男子が成人したら何百本のココナッツを植えること』
『そのために、国王(貴族)より土地を貸し与える』とされ
昔はトンガの主要産業とされていましたが
実際には、OZ,NZに移住したファミリーからの仕送りと
客船の寄港時に落とされる観光収入が主な外貨収入源となっていました。
オーストラリアを基点としたクルーズ船と世界一周航路の客船
稀に訪れる世界各国の海軍の船舶や私もその一人だった航海訓練の練習船が寄港すると
乗馬用の馬や
手工芸品や木彫りの土産物
その他もろもろのハンディクラフトの土産物屋が店を連ね
一般の人々の収入源となっていました。
客船が来ていない日は ↓ この有様
練習船で寄港した時も
出航前の帰船時刻になると土産屋はどこもかしこも投げ売り状態
次の船が入るまで収入が得られないため
1m以上ある木彫りのティキを$1で買ったなんて自慢してる練習生もいたなぁ
賑わってる様子と閑散としている様子の比較をついでご紹介すると
トンガ王国は、イギリスによって伝導されたキリスト教が憲法でも定められるようになり
休日(日曜日)は安息日
基本的に教会へミサに行く以外は外出が禁止され
労働は勿論、遊びさえも禁止
そんな様子をご覧ください。
”Nuku’alofaのバスターミナル”
(平日)
(日曜日)
”メインストリート”
(平日)
(休日)
”タクシー乗り場やバスターミナル”
(土曜日)
(日曜日)
”スーパーマーケット”
(土曜日)
(日曜日)
”メインストリート”
(土曜日)
(日曜日)
”魚市場&ローカル肉市場”
(土曜日)
(日曜日)
お次は、家や建物について
↓ 色灼けして観ずらいかもしれませんが
中央右側の赤い屋根の建物の様式がTonga式で
隣国のSamoaは酋長制の大家族のためこのような建物(但し、熱帯なので壁なし)に
酋長とその家族が住んでいました
Tongaは専制君主の王様と貴族、
その他は平民なので、その昔は椰子の葉葺きの家が一般的な住居でしたが
時代の流れで輸入材の合板製の壁とブリキ屋根の家が主流となった時期でした。
(下の写真は、ハリケーンの時に津波で建物が流されコンクリートの土台が残ったもの
↓ こちらの手前の木造家屋はハリケーンの後に
主にOZ,NZからの援助でツーバイフォーの壁とトタン板が数百なのか数千単位で送られたもので
一気にモダンな生活に変わっていきました。
それでは人々がどのようにして生活の糧を得ていたかと言うと
主な収入源としては、ほとんど民間の会社や工場などない国だったので
公務員が一番の就職先で
それ以外は第一次産業に占める割合が多かったと思います。
実際には、ほとんどのファミリーの中には
OZ,NZ,ハワイ、アメリカ本土へ出稼ぎに行き
そのまま不法滞在で市民権を得て移住した人間がいて
彼等からの送金があっての上ですが
観光客のお土産用のハンディクラフトを内職したり
内陸部ではココナッツにバナナ、パイナップル、パパイヤの栽培や
焼き畑でタロイモ、キャッサバ、ヤム芋等の農業だったり
海岸近くであれば
リーフ内での投網が最も一般的
ブダイや熱帯魚のような雑魚とは別に
海水で棲息するボラが高級魚として好まれてました。
協力隊の先輩隊員の一人は
元々は養殖隊員で派遣されていたのですが
現地人の女性と結婚して一度は日本に連れ帰ったものの
嫁が文化習慣の違いに馴染むことができず
あまりに非常識なふるまいを繰り返していたため実家の親から見放され
日本で暮らすことを断念して隊員時代に国内で積み立てられていた資金を使って
船外機や漁具(網漁の資材)を購入してトンガに戻り
木製のボートを使って嫁のファミリーの人間を使い漁師を生業とし
漁具漁法などまったく知らない現地では
毎日豊漁で市場でも人気が高く
一時はそこそこの収入を得ていて
彼の長男が一歳になった時のパーティーでは
最も高価な豚の丸焼きが何匹も、その他にもご馳走が並び
我々日本の青年海外協力隊員に加え
水産局に居たアメリカ平和部隊他のボランティアも招待され
(左端が桜井研次さん)
一時は現地でも成功者と思われていたのですが・・・
【またまた続く】