Be Natural

気取りも なんのてらいもなく  あるがままの自分を 感性の赴くままに そんな独りよがりの書き捨て日記です。

思い出の昭和の風景(横浜下町編①)

2011-07-22 01:54:11 | 旅行

もしかしたら せっかくこのブログを観ていただいている方々から

大顰蹙&軽蔑されるかもしれませんが・・・

 

 

実は私、大正一桁どころか片手生まれの両親のもとに生まれ

一般の同級生の家庭と比べて、非常につつましやかな

生活の中で育ちました。

 

西洋風なオヤツが与えられることはなく

月額で決まったお小遣いもなし

衣服は、基本的に兄のおさがり

厳寒の季節にあってもコタツもフトーブもなく練炭の暖房のみ

高度成長まっただなかの世の中にあって

我が家はいつまでたっても昭和初期のような生活でした(笑)

 

 

とはいえ

母は苦学して、家庭に入るまでは当時稀な職業婦人

反対に父は、体育会系の出身でしたが

物ごころついた頃から医者でも教職でもないのに世間からは”先生”と呼ばれ

運転手付きの車が家に送り迎えにきていました。

(政治家ではないですからネ)

 

母方の伯父は、茅ヶ崎の東海岸に板塀に囲まれた女中さんのいる数百坪程の自宅と

葉山の御用邸の近くに別荘を持ち

歳の離れた従兄は昭和30年代、自分がいまだ幼稚園当時に東大の研究職にあって

アメリカ・カナダに客員教授として招聘され

その当時、渡米する数少ない邦人のひとりとして歓待された日本大使が世話人となって

従妹がふたりカナダ大使公邸に寄宿しながら留学している。

 

もう一人の伯父宅は

世田谷の等々力に住む油絵の画家で 一年の半分を

愛車のデボネアを運転しながら日本全国を旅しながら絵の題材を探していて

子供がいなかったので、小学校がお休みになると

兄とふたり東京に招待されて 遊園地や動物園はもとより

博物館に美術館、富士山から箱根、日光などなど

連れていってもらっていました。

 

そしてそれがとっても自慢なタカビー小僧でした(^^;)

 

 

これは単なるほんの一例ですが、

幸か不幸か、自分の意志には関係なく

そんな家庭に育っちゃったんです

 

ある日のこと、小学校の高学年にあがった頃

ボーイスカウトに入団したかったのに

そんな父が横浜で生まれた日本が生んだ青少年育成団体を

地元に持ってきたからと、その団体に入団するようにされてしまいました。

 

そして、小学校5年生になった歳の夏

その団体が実施していた年間最大行事の全国大会が

発祥地横浜で開催されることになり

海の記念日に伊勢佐木町でパレードに参加し

その後、地元の団員のお宅に泊めていただくとことなったのです。

 

幼稚園の頃から、茅ヶ崎の伯父さんの家に遊びに行っていたので

大都会で西洋の雰囲気たっぷりの横浜は

さぞやエキゾチックで魅力的な街なんだろうと期待していたところ・・・

 

ホストファミリーの場所は

横浜市鶴見区生麦!

 

実は、その青少年団体、貧しい家庭の子供達が

明るく健全に育って欲しいとの願いから設立されたため

裕福な山の手の子供達よりも下町を対象に広めていったもの

 

そのため、当時でも下町中の下町

京浜工業地帯のまっただなかにある生麦に行きました。

おどろくような部屋(?)に寝かされ

でも、当時まだ活気のあった街、鶴見のあちこちに連れていってもらって

到底忘れられないさまざまな思い出を作っていただきました。

 

それはそれは、言葉で表すことのできないほどのカルチャーショックでしたが

その後も時間をみつけては当時を懐かしみながら再訪し続けています。

 

 

そんな生麦と京浜工業地帯が懐かしくなって

先日、東京方面に出張した折に、鶴見線の旅をしてみました。

鶴見線のホーム

朝夕の通勤ラッシュ時には、溢れかえる人でゴッタがえしていた場所でした。

活気があって、明日への希望に溢れた人々の姿、

笑顔で帰宅する風景が未だに瞼に焼き付いています。

駅前に、工員さんで賑わう立飲み屋さんがあるかと訪れてみましたが

残念ながら時間切れで陽の高いうちに鶴見方面に戻ることに・・・

このままではあまりにも寂しいので国道駅にも立ち寄ってみました。

とても平成の時代とはおもえないこの佇まい☆

ノスタルジックな想いにかられ おもわず涙がこみあげてきそうでした

その昔は、ガード下のほとんどが昼日中から客で賑わう

飲み屋街だったんですが・・・ いまはたった一軒しか残っていませんでした。。。

 

鶴見駅の崎陽軒売り場

ココのシュウマイ弁当が大好きなんですヨ~

 

この橋の下の風景は、昭和43年当時とはすっかり様変わりしてしまいました。

 当時は、こんなにしっかりした護岸でなく、漁港もない自然のままの川岸に

漁船がつながれ、アサリの名産地でもあったため

道路はほとんどが貝がらで覆われていたことを思い出します。

 

 


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