書の歴史を臨書する

古今の名磧を臨書、最近は米フツ。
時折、気の向くままに漢詩や詩、俳句などを勝手気侭に書いております。

後鳥羽院

2010-08-01 08:49:17 | Weblog
人もをし 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆゑに 物思ふ身は 

思い通りにならないこの世の中をつまらないなあと思うからだろうか、或る時は人をいとおしいく思ったり、
また或る時は人を恨めしく思ったりしてしまうのだ、これが私の定めなのかも知れない。    

後鳥羽院(1180~1239)
高倉天皇の第四皇子、母は従三位坊門信隆の娘七条院殖子。安徳天皇の異母弟。後白河法皇の孫。
安徳天皇が退位しないまま後鳥羽天皇が即位したため在位期間が2年間安徳天皇と重複している。
承久の乱で鎌倉方に敗れて隠岐島に流され、その地で崩御。
藤原俊成に師事し、宮中に和歌所を置くなど歌人の育成に努め、多くの歌合せなどを主宰し、自らも当代一流の歌人であった。
源平の興亡、皇族内での錯綜、鎌倉幕府成立後の北条氏との対立、承久の乱等々混乱の中を生きた後鳥羽院は33歳にして既に白髪だったと言う。
藤原定家等に「新古今集」を選集させた。