書の歴史を臨書する

古今の名磧を臨書、最近は米フツ。
時折、気の向くままに漢詩や詩、俳句などを勝手気侭に書いております。

百人一首を書く  藤原 清輔

2010-08-19 08:21:28 | 百人一首
ながらへばまたこのごろやしのばれむうしと見し世ぞいまは恋しき
 
これから先もっと生きながらえたならば今のことが懐かしく思い出されるだろうか、生きるのも辛いと思った昔が今では恋しく思われるのだ

藤原 清輔(1104年 - 1177年)
藤原北家魚名流。初名は隆長。父は藤原顕輔。母は高階能遠の娘。同母兄顕方、異母弟に重家、季経、義弟に顕昭。子に清季。
父から人麻呂影供と六条藤家を継ぐ。御子左家の藤原俊成と対立関係にあった。六条藤家歌学を確立し、平安時代の歌学の大成者である。
「千載和歌集」他の勅撰和歌集に入集。家集に「清輔朝臣集」、歌学書に「袋草紙」「奥義抄」「和歌一字抄」がある。

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百人一首を書く  法性寺入道前関白太政大臣

2010-08-18 09:06:23 | Weblog
わたの原こぎ出でて見みれば久方の雲ゐにまがふ沖つ白波

大海原に漕ぎ出してあたりを見わたすと、遠くの沖の方で立っている白波と白雲はどちらがどちらか見わけがつかないよ。   

法性寺入道前関白太政大臣(1097~1164)
藤原忠道。摂政関白太政大臣藤原忠実の長男。従一位・摂政・関白・太政大臣。法性寺殿と号す。同母姉に高陽院藤原泰子、異母弟に藤原頼長。法性寺と号す。
白河法皇の養女の藤原璋子(後の待賢門院璋子)との縁談を固辞し破談した話は有名である。
詩歌に長じ、書も法性寺様といわれ一家をなした。
漢詩集に「法性寺関白集」、家集に「田多民治集」。日記に「玉林」。


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百人一首を書く  壬生忠見

2010-08-17 16:57:49 | Weblog
恋すてふ我が名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか  

わたしがあの人を恋しているといううわさが、何時の間にか広まってしまったわぃ、だれにも気づかれないように、大事に大事に恋し始めたばかりなのになぁ。

壬生忠見(?~?)
壬生忠岑の子。三十六歌仙のひとり。
この歌で「天徳四年内裏歌合」で平兼盛と競うが負けてしまい悶死したと言う話が残っている。
「後撰和歌集」他の勅撰和歌集に36首入集。家集に「忠見集」。


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百人一首で学ぶ散らし書き
及川 小汀
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百人一首を書く  貞信公

2010-08-16 08:56:42 | Weblog
小倉山やま峰の紅葉葉心あらば今まひとたびのみゆき待たなむ  

小倉山の峰を美しくいろどっている紅葉よ、もし、おまえに物のあわれを解する心があるのなら、いまそんなに散り急がずに、もう一度天皇がここにいらっしゃるときまで待ってて欲しいなぁ。

貞信公(880~949)
藤原忠平。関白藤原基経の四男で、兄の時平・仲平とともに「三平」とよばれた。醍醐天皇に仕え、摂政・関白を長く勤め藤原氏が栄華の元を作る。
朝政を司り、延喜の治と呼ばれる政治改革を行う。
極めて聡明で、穏健寛大な人物であったとの記録が残っている。
兄・時平と敵対した菅原道真とは親交があったとされる。
平将門が忠平の家人として仕えた時期があった。

百人一首を書く  参議篁

2010-08-15 08:41:36 | Weblog
わたの原八十島かけてこぎ出ぬ人には告げよあまのつり舟 

海原はるかに多くの島々をめざして私の乗せられた船は出て行ったと都のみんなに伝えてよな、釣り船の漁師さんたちよ、頼むぜ。

参議篁(802~852)
小野篁。小野妹子の子孫で、父は小野岑守。三蹟の一人小野道風は孫。
遣唐副使に任ぜられたが正使藤原常嗣といさかいを起こし乗船を拒否、
また、「西道謡」で朝廷を批判し嵯峨上皇の怒りを買い、官位剥奪の上隠岐への配流された。 許されて帰京後参議まで昇進。
政務能力に優れていたが漢文や和歌などにもすぐれ当時の屈指の詩人であった。
「経国集」、「和漢朗詠集」に作品が残り、「古今和歌集」他の勅撰和歌集に18首が入首している。
私の友人の小野さんは小野一族の血を引いているが、その風貌、性格、才知が参議篁とダブってならない。

百人一首を書く  謙徳公

2010-08-14 08:57:17 | Weblog
あはれともいふべき人は思ほえで身のいたづらになりぬべきかな
 
あなたに見すてられたわたしを可哀想だと同情してくれそうな人は思い浮かびません。
あなたを恋焦がれながら空しく死んでしまうしかないのです。

謙徳公(924~972)
藤原 伊尹。藤原師輔の長男。関白兼家の兄。
妹の中宮・安子が生んだ冷泉天皇、円融天皇の即位と共に、摂政・太政大臣正二位・摂政・太政大臣まで栄達するが早逝、以降、権勢は弟の藤原兼家の家系に移る。
贈正一位。別称は一条摂政。漢風諡号は謙徳公。
性格は豪奢で贅を尽くした寝殿の話が残る。
歌人としても名が高く梨壺に設けられた撰和歌所の別当に任ぜられ、
「後撰和歌集」の編纂に深く関与した。
「後撰和歌集」他の勅撰和歌集に38首が入首。家集に「一条摂政御集」。 
書家として名高い藤原行成は孫に当たる。

百人一首を書く  中納言朝忠

2010-08-13 08:01:14 | Weblog
あふことの絶えてしなくはなかなかに人をも身をも恨みざらまし 
 
あなたと会い愛し合うことが一度もなかったのならば、あなたのつれない仕打ちもわが身の切なさも恨むことなんか無かったでしょうに、
あーあ、逢っちゃったばっかりに切ないなぁ。

中納言朝忠(910~966)
三条右大臣藤原定方の五男。
大宰大弐、従三位権中納言。
三十六歌仙のひとり、和歌や漢文にすぐれ、笙の名手と伝はる。
右近を始め多くの女性との浮名が残っている。
「後撰和歌集」他の勅撰和歌集に22首が入集。家集に「朝忠集」。

百人一首を書く  権中納言敦忠

2010-08-12 08:46:04 | Weblog
あひみての後の心にくらぶればむかしは物を思はざりけり 

貴女と共に一夜を過ごした後のこの苦しい思いにくらべたら、
逢いたい逢いたいと思っていた逢う前の切ない気持ちなど取るに足らないものだったのだなぁ~。

権中納言敦忠(906~943)
左大臣藤原時平の三男。母は業平の血を引く在原棟梁の娘。
蔵人頭・参議をへて、従三位中納言、三十八歳の若さ夭折。
三十六歌仙のひとり、美貌であり、和歌や管絃にも秀でていた。
雅子内親王他多くの女流歌人との贈答歌が残る。
「後撰和歌集」他の勅撰和歌集に30首入集。家集に「敦忠集」。
右近や西四条斎宮雅子内親王との恋は歌物語に説話化されている。
この歌は右近との恋模様を詠んだ歌として伝わる。

清原元輔

2010-08-11 09:11:12 | Weblog
契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波こさじとは  

あの時、喜びの涙で濡らした袖をしぼりながら固く約束しましたね。どんな大波もあの末の松原を越すことが絶対に無いように、私達の愛は永遠に変わることはないと・・・

清原元輔(908~990)
内蔵允・清原深養父の孫、下総守・清原春光の子。清少納言は娘。三十六歌仙の一人。官位は従五位上・肥後守。
梨壺の五人のひとりで、「万葉集」の訓読、「後撰和歌集」の編纂に携わる。
「拾遺和歌集」他の勅撰和歌集に約100首が入集。家集に「元輔集」がある。
枕草子に、清少納言が歌を詠むように強く迫られた時に、
「父の名を辱めたくないので歌は詠みません」と言って許されたという逸話が載っているが、
それ程に著名な歌人であった事を示す。

平 兼盛

2010-08-10 08:44:46 | Weblog
しのぶれど色に出でにけり我が恋は物や思ふと人のとふまで 

誰にも知られまいと心に決め耐え忍んできたのに、人から「恋をしているね」とか言われるようについつい顔に出てしまうのです。

平 兼盛(?~990)
光孝天皇の子孫、父大宰大弐・篤行王。三十六歌仙のひとり。さまざまな歌合、歌会、屏風歌の有力歌人として知られる。
「拾遺和歌集」「後拾遺和歌集」の代表的な歌人の一人、「後撰和歌集」以降の勅撰和歌集に約90首が採録。
家集に「兼盛集」。
兼盛と離婚し赤染時用と再婚した妻が娘を出産したが、兼盛が娘の親権を主張して裁判で争ったが認められなかったと言う逸話が残っている。
その娘は赤染衛門であり大江匡衡に嫁ぎ、大江広元や大江姓毛利氏に繋がっている。