日本の三大怨霊といえば・・・・菅原道真・平将門・崇徳天皇です。
菅原道真は第59代宇多天皇の治世、寛平の治を支えた一人ですが、
皇室の外戚として権勢を振るいつつあった藤原氏を牽制し、
901年、宇多上皇が道真の娘婿である上皇の皇子・斉世親王を皇位につけ、
醍醐天皇から皇位を簒奪しようとしていると疑われ、
大宰権に左遷され、子どもたちも連座され、流刑となります。(昌泰の変)
903年、大宰府で亡くなると、京には異変が相次ぎ、醍醐天皇も体調を崩し、崩御します。
これらを道真の祟りだと恐れた朝廷は、道真の罪を赦すと共に贈位を行い、
子供たちも京に呼び返されました。
平将門は平安時代中ごろの豪族で、桓武天皇の5世にあたる桓武平氏です。
939年、「新しい天皇」という意味での「新皇」を自称し、東国独立を目指し、
朝敵とみなされます(平将門の乱)。
戦の最中、飛んできた矢が額を命中し、討ち死。首は京でさらし首となります。
将門塚(平将門を葬った墳墓)の周辺で、天変地異が頻繁に起こり、
将門の祟りだと恐れられました。
崇徳天皇は第75代天皇です。
父は第74代鳥羽天皇。母は中宮・待賢門院璋子。
しかしこの璋子は、鳥羽天皇の祖父・白河院(法王)の養女で、
崇徳天皇は白河院との不義密通の子どもと言われています。
そのため父・鳥羽天皇から「叔父子」と言われ、疎まれていたようで、
1141年、鳥羽上皇は崇徳天皇に譲位をせまり、異母弟・近衛天皇が即位。
病弱な近衛天皇が崩御すると、皇位を異母弟・後白河天皇が即位。
治天の君である鳥羽上皇が崩御すると、皇位継承問題や摂関家の内紛が要因となり、
後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し武力衝突に至る「保元の乱」が起こります。
崇徳上皇と讃岐に配流となり、8年後の1164年、讃岐の地で崩御します。
1176年、後白河法皇の周囲の者が相次いで亡くなったり、社会情勢が不安定となり、
崇徳天皇の怨霊の仕業と言われるようになります。
恨みを持った死者は怨霊となり、天変地異や戦乱、病を招くとされ、
こうした亡霊を復位や諡号・官位を贈りることで、その霊を鎮め、神として祀れば、
「御霊」となり、鎮護の神となるという考え方が平安時代におこります。
これが御霊信仰です。
古くは藤原広嗣、井上内親王、他戸親王、早良親王などがあげられ、
全国に御霊神社は存在します。
学問の神様として知られる太宰府天満宮や北野天満宮も、
元々、この御霊信仰から端を発したものです。
祀られるようになった謂れは、またおいおい・・・・・