【日本ドラッグレースウエイ】
ということで、いろいろ書いてきた思い出話も、ドラッグコースについて語って終わりにします。
年寄りの話みたく、いい加減長ぇし。飽き飽きだよ!!っつう方もおられることでありましょうし(笑)
つって、何からどう書いたらいいんでしょうねぇ。なにしろ、コースが出来たばかりの時から通っていたわけですから。
まぁ、当然、まず思い出されるのは、初めて行った時でございますな。
スタート地点に立って、ゴールを見たら、壁みたなっているのでたまげました。あまりにも不安なので、まだスタンドもちゃんと出来ていない土手を歩いてゴールまで見に行ったっけ。そしたら、壁の手前は蟻地獄のように下り坂になっており、余計恐ろしくなったものでした。
当時は、タイム15秒ほどのA型のサニーでして、そんなビビらんでもたいした終速でないから心配ゴム用だのに、しかも下ってもあれだけ登れば途中で加速せなリターンロードにたどり着けぬのに、まぁ、まだドラッグレース初心者でしたからね。理屈抜きに恐ろしかったんですな。若かったし。25歳?けっ、ガキじゃね(笑)
そのガキを、見るに見兼ねて、アドバイスしてくださったのが、川崎哲哉師匠でございました。
川崎師匠と初めてお会いしたのは富士RRCで、まだPRO-GT-Rクラスが出来る前、師匠がオプションビデオのレポーターをなさっていた頃でございました。
わたくし、ドラッグレースを1度見ただけで、次からは参加しちゃってた大バカチンなので、師匠がどれだけすごいお方か存じませんで、ずいぶんと失礼だった記憶があります。すんませんでした(またかよ)
さて、後にHKS GT-Rにて日本一いや、世界一のタイムを記録するものすごいドラッグレーサー川崎師匠。
そのお方が、仙台ハイランド日本ドラッグレースウエイにて、どうにもプレステージ、ステージの点け方がわからんバカチンの私に、どこぞから持ってきたタイヤを用いてスタートラインに立ち「ここが1個めの光電菅ね!そんでタイヤひと転がしで2個め!わかる?」つって、教えてくださったのでした。
ちなみに、2個めをつける前に行う儀式まで伝授していただいたのだが、それは内緒じゃい!聞きたくば、わたくしの弟子になられよ。そのかわりたいしたことじゃないよ、儀式は(笑)
それからの師匠は、この大バカチンを何かと気にかけてくださいましてね。ピットに挨拶に行くと「ゆみちゃん、コーヒー飲んでいきなよ!!」なんて言ってくださって。
HKSワークスドライバーとお話出来るだけでもすごいのにね。大バカチンは、まーだよくわからず、おのれの車の走り方なんかを相談しちゃったりしてね。ある意味すごいよね、わたし(笑)
その後、師匠が「ドライホップ」という大会を立ち上げて、15シルビアで参加したときのことも思い出すなぁ。
久しぶりに2駆で走った私を見て、「あんた、そんな走り方しなかったのに、4駆乗ってたから運転が荒れたね」と言われたんだよなぁ。
GTOでテングになってたわたくし、ものすごくショックでね。初心に返らねばならぬ!!と、再び精進を誓ったんだけども~
そのドライホップには団体戦つうのがあって、何台かのチームのトータルタイムを競うという、画期的かつ楽しげな企画で、私はドリームチームの中に入れてもらったんだけども、15のミッションが壊れちゃって負けちゃったんだ。悔しかったなぁ。笑ったけど。
それから、2001年のドライホップに33で参加したのを最後に、2010年のJDDAに参加するまで、私は冬眠していたんだぁ。
こんなことになるのなら、もっと早く冬眠から目覚めるべきだったなぁ。
もう遅いけどもね。
けれどもね、震災が起きる前に走れたこと、先日、皆さんのおかげでラストランを便乗させてもらったこと、その時ツグが一緒だったこと、いろいろな人と話が出来たこと…、
全ては日本ドラッグレースウエイが引き合わせてくれたことであり、
きっと、あのコースに思い出がある全ての人達に、何かしらの形で、そんなプレゼントがあったのではないか。
最後の最後まで、ありがとう。お世話になりました。一生忘れません。思い出も、ずっとずっと、なくならない。息子にも、きっちり伝えておきます。それが私の恩返しです。
ということで、いろいろ書いてきた思い出話も、ドラッグコースについて語って終わりにします。
年寄りの話みたく、いい加減長ぇし。飽き飽きだよ!!っつう方もおられることでありましょうし(笑)
つって、何からどう書いたらいいんでしょうねぇ。なにしろ、コースが出来たばかりの時から通っていたわけですから。
まぁ、当然、まず思い出されるのは、初めて行った時でございますな。
スタート地点に立って、ゴールを見たら、壁みたなっているのでたまげました。あまりにも不安なので、まだスタンドもちゃんと出来ていない土手を歩いてゴールまで見に行ったっけ。そしたら、壁の手前は蟻地獄のように下り坂になっており、余計恐ろしくなったものでした。
当時は、タイム15秒ほどのA型のサニーでして、そんなビビらんでもたいした終速でないから心配ゴム用だのに、しかも下ってもあれだけ登れば途中で加速せなリターンロードにたどり着けぬのに、まぁ、まだドラッグレース初心者でしたからね。理屈抜きに恐ろしかったんですな。若かったし。25歳?けっ、ガキじゃね(笑)
そのガキを、見るに見兼ねて、アドバイスしてくださったのが、川崎哲哉師匠でございました。
川崎師匠と初めてお会いしたのは富士RRCで、まだPRO-GT-Rクラスが出来る前、師匠がオプションビデオのレポーターをなさっていた頃でございました。
わたくし、ドラッグレースを1度見ただけで、次からは参加しちゃってた大バカチンなので、師匠がどれだけすごいお方か存じませんで、ずいぶんと失礼だった記憶があります。すんませんでした(またかよ)
さて、後にHKS GT-Rにて日本一いや、世界一のタイムを記録するものすごいドラッグレーサー川崎師匠。
そのお方が、仙台ハイランド日本ドラッグレースウエイにて、どうにもプレステージ、ステージの点け方がわからんバカチンの私に、どこぞから持ってきたタイヤを用いてスタートラインに立ち「ここが1個めの光電菅ね!そんでタイヤひと転がしで2個め!わかる?」つって、教えてくださったのでした。
ちなみに、2個めをつける前に行う儀式まで伝授していただいたのだが、それは内緒じゃい!聞きたくば、わたくしの弟子になられよ。そのかわりたいしたことじゃないよ、儀式は(笑)
それからの師匠は、この大バカチンを何かと気にかけてくださいましてね。ピットに挨拶に行くと「ゆみちゃん、コーヒー飲んでいきなよ!!」なんて言ってくださって。
HKSワークスドライバーとお話出来るだけでもすごいのにね。大バカチンは、まーだよくわからず、おのれの車の走り方なんかを相談しちゃったりしてね。ある意味すごいよね、わたし(笑)
その後、師匠が「ドライホップ」という大会を立ち上げて、15シルビアで参加したときのことも思い出すなぁ。
久しぶりに2駆で走った私を見て、「あんた、そんな走り方しなかったのに、4駆乗ってたから運転が荒れたね」と言われたんだよなぁ。
GTOでテングになってたわたくし、ものすごくショックでね。初心に返らねばならぬ!!と、再び精進を誓ったんだけども~
そのドライホップには団体戦つうのがあって、何台かのチームのトータルタイムを競うという、画期的かつ楽しげな企画で、私はドリームチームの中に入れてもらったんだけども、15のミッションが壊れちゃって負けちゃったんだ。悔しかったなぁ。笑ったけど。
それから、2001年のドライホップに33で参加したのを最後に、2010年のJDDAに参加するまで、私は冬眠していたんだぁ。
こんなことになるのなら、もっと早く冬眠から目覚めるべきだったなぁ。
もう遅いけどもね。
けれどもね、震災が起きる前に走れたこと、先日、皆さんのおかげでラストランを便乗させてもらったこと、その時ツグが一緒だったこと、いろいろな人と話が出来たこと…、
全ては日本ドラッグレースウエイが引き合わせてくれたことであり、
きっと、あのコースに思い出がある全ての人達に、何かしらの形で、そんなプレゼントがあったのではないか。
最後の最後まで、ありがとう。お世話になりました。一生忘れません。思い出も、ずっとずっと、なくならない。息子にも、きっちり伝えておきます。それが私の恩返しです。