
そう考えると、この「三方よし」の心得というのは、商売の枠を超えて、持続的な社会のあり方を示唆する普遍的な教えのような気がしてきます。たとえば最近よく耳にする言葉に「エシカル消費」があります。新しい消費のスタイルとして現代人の意識に浸透しつつありますが、念のため説明すると、「エシカル消費」とは買い物の際に自分の利益だけでなく、自分の属する共同体の利益を視野に入れて商品を選ぶ消費行動をいいます。資本主義の競争原理に従って自己利益を追求しているだけでは、いずれ資源が枯渇し共同体が消滅するのは目に見えている。そんな危機感を共有する人たちが、行き過ぎた資本主義への対案として、自分だけでなくまわりを思いやることで弱体化した共同体を回復しようとする試みがエシカル消費です。
そして築地市場はエシカル消費の先進地でした。
同じ魚でもスーパーで買うのはただの消費だけど築地で買えばエシカル消費になる。なぜか。魚の鮮度が勝るのは大前提であるが、それだけではない。客は築地で買った魚を食べて命を支える。同時に魚の背後にある漁師の暮らしや浜の共有資源を支える。客は取引を介して、消費する自分と魚を供給する共同体とのつながりを明確にイメージする。そのイメージはグローバル資本主義や拝金主義や合理主義といった現代社会の前提をいったんリセットする力を持っていて、客は現代社会の枠組みを棚上げし、その束縛の外で自分らしさを回復することができる。
利己(己を利する)と利他(まわりを利する)を等しく視野に入れることで、自分がひとつの共同体の欠かせない構成要素であることを実感し、自分の中に潜在する力を掘り起こす。そのわくわく感こそが築地での買い物の醍醐味であり、その楽しさはそのまま「売り手よし、買い手よし、世間よし」の「三方よし」の心得に通じます。

でもそんなのは当たり前のことで、「三方よし」の心得は、裏返して見れば浮世のしがらみであり、心理的拘束です。売り手の喜びが買い手の喜びになるということは、売り手の痛みもまた買い手にとっての痛みになるわけで、「三方よし」の共同体の一員は他人の痛みを知らんふりはできない。それを自分の痛みと同じように受け止めなくてはいけない。そして痛みを受け止めた人はたいていの場合なにか行動せずにいられなくなって、下手をすると私みたいに使命感に駆られて辻立ちなんかをするはめになる。そんなことをするくらいなら家でバイオリンを弾いていたい。テレビでスポーツ中継を見ていたい。スマホでゲームをしていたい。面倒なことには関わりたくない。そう考える人が多数派を占めているのが今の日本です。
暗い現実は見たくない。明るいことや楽しいことだけを見ていていたい。誰もがそんな気分で暮らす世の中では、人は自分の生活に何か大きな問題が降りかかっても「木を見て森を見ず」とでも言いますか、限られた文脈で一部分を切り取ることで全体を無効化します。そうやって目の前の大きな問題をなるべく見ないようにすることが処世術として、あるいはスマートな大人の態度として高く評価されます。それに比べると、路上に辻立ちして「この痛みをなんとかしなければ」と訴える私のようなアプローチは世の平穏を乱す蛮行にあたるわけで、そんな人は白い目で見られても仕方ない。それが波除通りのみなさんの、ひいては国民の大多数の共通認識ではないかと思います。でもそれを承知の上で、私は今日ここに立っています。
(つづく)
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