ガンバレ よし子さん

手作りせんきょ日記

スピーチ on 波除通り ~ その2 ~

2019年03月20日 | SAVE 築地市場
 昨年10月に築地市場は閉鎖され、場内の住人だった仲卸業者は去り、彼らの住処だった水産卸売市場の建物は ―これは文化的、歴史的に貴重な建造物ですがー 無人のまま放置されています。仲卸業者が市場の新旧交代に翻弄されながらも豊洲転進の方針を固めた背景にはひとつの言葉がありました。「目利きの技」がそれに当たります。

2年前の夏、東京都知事が「移転プランは一旦立ち止まって考える」と宣言し、昨年秋に築地場内が封鎖されるまでの間、仲卸業者は移転推進派と慎重派に分断され、内外から有形無形の圧力を受けていました。ちょうど同じ頃、築地のマグロのセリ場が外国人観光客の人気を集め、そこで働く仲卸業者が築地の主役としてメディアの脚光を浴びました。テレビは鮮魚の付加価値を高める仲卸の独自技術を「目利きの技」と賛美し、食通をうならせる名店を顧客にもつ仲卸に密着するドキュメンタリー映画も公開されました。にわかに巻き起こったブームは、今にして思うと、移転問題の渦中にある仲卸に必ずしも良い影響を与えませんでした。周りにちやほやされた人が、うぬぼれて判断を誤ることを「贔屓の引き倒し」と言いますが、場内もその例外ではありませんでした。たとえば仲卸の島津修さん。彼は市場移転の是非を問われ、取材カメラに向かってこう答えました。

「僕らは誇りを持って仕事をしているプロの集団。築地の仲卸の代わりはどこにもいない。僕らのいるところが市場になる」

目利きのプロの誇りとフロンティア精神で豊洲の未来はバラ色。島津さんの発言からはそんなイメージが浮かんできます。しかし残念ながらそのイメージは、今日私たちが豊洲で目にする光景の対極にあります。島津さんのように良識派と評される仲卸が、メディアのキャンペーンと安易に足並みを揃え、あたかも移転に太鼓判を押すかのような発言をしたことは、他の仲卸が移転のリスクを過小評価する空気を醸成したかもしれない。彼の発言は「批判封じ」の効果を上げ、移転推進派を利する結果を生んだかもしれない。勝手な想像かもしれませんが、私はそう思っています。

「目利きの技」が卓越した技術であり、それが築地のブランド力を高めていることに疑問の余地はありません。しかし築地市場を他に並ぶもののないオンリーワンの卸売市場にしている要因を「目利きの技」だけに求めるのは無理があります。
私たち一般大衆が築地と聞いて真っ先に思い浮かべるのは三億円マグロの行列や波除通りの賑わいです。築地の魅力はそこに集まる多種多様な客が生み出す活気にあり、仲卸の「目利きの技」は集客の要因のひとつに過ぎません。そして築地の客の多彩さは売り手の多彩さに裏打ちされていて、その根本には場内と場外が共存し、早朝のプレイヤーと昼間のプレイヤーが交代で客を集める重層構造があります。
仲卸のターゲットはプロの飲食店なので、場内市場は夜明け前にオープンし、昼には店じまいします。それ以降は場外商店街がランチやショッピング目当ての一般客と観光客を一手に引き受けます。場内は一見の客には敷居が高く、侵しがたい聖域のイメージがありましたが、場外の商店街がその敷居を下げて間口を広げ集客力を高めてきました。その商いの住み分けの機微や客のニーズを無視して、ことさらに仲卸の優位性のみを強調する島津さんの発言は「木を見て森を見ず」といいますか、前後の文脈を省略した短絡思考でもありました。

しかしこの短絡思考は仲卸さんたちの心を動かし、汚染問題で停滞していた移転プランを再び活性化させます。その頃の仲卸さんたちは先行きが見通せないストレスから「このまま時間を空費するより白黒はっきりさせたい」という気分を抱き始めていて、「目利きの技でフロンティアを開拓する」というイメージはその欲求にうまくマッチしていました。さらに「目利きのプロの誇り」という言葉は、築地というホーム・グラウンドから追放される痛みを忘れさせてくれました。こうして移転の合意形成が進み「豊洲では採算が合わない」という慎重派の警告は退けられます。

そして現在、仲卸さんたちは衛生面においても立地面においても大きなハンディキャップを背負い、豊洲で採算の合わない商売を余儀なくされています。取扱高は激減し、客足は遠のき、「目利きのプロの誇り」は微塵に砕かれ、経営体力の弱い業者は廃業の危機に晒されています。

  もし築地の仲卸が「目利きの技」なんていうキャッチコピーでメディアに持ち上げられることがなかったら、彼らは行政に翻弄される自らの弱さを直視し、市場の新旧交代の波を「三方よし」の心得に立ち帰るきっかけと捉え、場外や客と連携し、一丸となって豊洲移転に「ノー」を突き付けていたかもしれない。築地の市場関係者が権力から受ける圧力を、自らの共同体の求心力に転換することができれば、その意志は漁業権の私物化に抗う各地の漁業関係者にも波及したかもしれない。そう考えると仲卸の短慮が残念でなりません。現実の仲卸はメディアが与える三割増のセルフイメージに溺れ、築地離脱という逆張りの博打に活路を見出し、場外と袂を分かち、残留を乞う客を残して去って行きました。どんな世界でもそうですが、褒め殺しくらい怖いものはありません。

しかしそれよりもさらに私が残念に思うのは、仲卸に進路の判断を誤らせた三割増のセルフイメージが、今度は場外の商店街から聞こえてくることなのです。「木を見て森を見ず」の短慮に走っているのは仲卸だけではない。場外の皆さんもまたメディアが与える幻想に惑わされている。それを私はこの場で訴えたいのです。

(つづく)