社長様、かく語り記

東北のとある社長の名言・行動から、人としてあるべき姿を探していきたいと思います。

憎まれっ子 世にはばかる 後編 (全三話 ③)

2013-12-28 08:45:06 | 日記
お詫び…
風呂敷を広げ過ぎてしまい、まとまりのないままに終わりそうです。
あらかじめ お詫び申し上げておきます


さて、「鬱病」の正体とは?

解決に近づくためには、理解する所から始めなくてはいけませんね。

わたくし、23歳の頃に半年間ほど入院し、母親の付き添いを含めると1年以上に渡り、脳外科の病棟に居たので、亡くなっていく方々や そのご家族の様子を度々拝見しておりました。

そんな体験もあり「心」がどのような存在であるのか疑問に感じ…時間があれば感じ取ろうとしてまいりました。

色々な深い感情が、肉体の生命維持が終わるとともにこの世から消え去るとは到底思えなかったからです。

そんな状態で生きていましたので、青春を謳歌する若者と話が合うハズもなく、激しく暴れる自分の「心」と戦っていましたが、そんな自分を客観的に観察している自分も居たりして…まぁそのような自分の中の二面性自体とも戦うことも、かなり苦悩の一因となっていたんですけどね。

現時点の感触では、身体の中に「心」が居座っている特定の場所は存在せず、身体の機能自体は独立して活動出来る存在であるように捉えています。

「心」がそこになくとも生きている方は存在するように思いますから。

「心」と、脳内に蓄積された体験に基づいて形成された「感情」とは、相互干渉はあるでしょうが別物だとも考えております。


身体を動かす筋肉は、脳からの指示信号を受けて伸び縮みすることにより肉体を動かしておりますが、そこに心が介在せずとも、生命の維持活動に問題は生じないと考えている感じです。

と、いうかそのような肉体機関の方が多いかも。
ご飯を食べりゃ勝手に排泄までしてくれますからね。

「鬱病」が発現している状態は、身体のどの部分が機能低下を起こして身体の不調に繋がっているのか?
そこに「心」がどのように関わっているのか?


わたくしの知人がパニック発作を発症した場合、過呼吸や強い眩暈などが生じるそうです。

過呼吸は、息を吐き出せなくなり、そのため新たな空気を吸い込めず身体が酸欠に陥ってしまうので、かなりの恐怖心を感じるそうです。
と、言うか恐怖心により呼吸すら出来ない心境となっている状態にも見えますから、パニック発作の名前の通りなんですね。
(知人は小さなビニール袋を携行常備して、落ち着く術を身につけておりました。この状態、パニック状態の「身体」と冷静に対処する「心」を見ても、心と身体の分離を感じてしまうんですよね。)

眩暈については、医師からはメニエール症と診断されたようですが、耳内の三半規管が異常反応してしまうことにより、強い眩暈が生じているみたいです。


余談です
わたくしは23歳の入院時に両耳を手術しており、今後死ぬまで経過観察の必要があります。

耳管を切開したことにより耳垢が自動排出されなくなり、耳管に出来るカサブタを取ってもらう必要があるのです。
医師にピンセットで、ペリペリっと剥がしゴソゴソっと引っ張り出されますが、カサブタなんで繋がっていて、でかいヤツが出てきますので、脳みそを引っ張られているようにも感じます…

たまに治療中 消毒のために耳に冷たい薬液が入るんですが…
グ~ルグル… グ~ルグル
と、視界が横回りを始めます…
少しでも油断すると、嘔吐してしまいそうになりますなぁ。

わたくしは眩暈に強い方らしいので、まだ嘔吐したことはありません。

しかし、一度 耳管内に雑菌を繁殖させてしまい、冷たい薬液で耳管内を洗浄して頂いた時は、視界が100回くらい高速回転をして、治療後の1時間近く薬局の駐車場で休んでました…
少し車の運転をしただけで嘔吐しそうになりましたので…

先生さんよぉ~…
耳の中は暖かい薬液で洗おうぜ…
ベイべ~…
余談おわり…


メニエール症により感じる眩暈は、恐らく わたくしが治療中に感じている眩暈と似ているんだろうなぁ~と、勝手に解釈しておりますが、あれがずっと続くのは、さぞやツラいだろうなぁと、同情することしかできません。


さてパニック障害とは、
遺伝的なモノなのか?
後天的な要因によるモノで完治出来るモノなのか?
わたくしには判りませんので、医学の進歩を祈る他ありません。
(現状だと、抗躁鬱薬により症状を緩和しつつ、考え方を矯正していきながら症状を抑えていく方向の治療なのでしょうかねぇ。)


さて、鬱病の症状だけから見ると、
①脳細胞の神経回路自体が何らかの障害により、正常に信号伝達が行われていない。
②脳細胞は正常動作しているが、脳細胞と身体の各器官における信号伝達(相互?or片側?)に不具合が生じている。

こんな感じでしょうか?
いずれにせよ、無意識領域において働く機関が異常な動作を示しているのだですから、本来であれば「心」が影響を及ぼすことは難しいように思います。

けれども、良く聞く言葉が「心が病んでしまう…」このことから、鬱病が心のありようから誘引され発症すると、感じられている方が多いのでしょうかね?

鬱病の症状を読んでみますと、中学生の頃の自分自身は完璧に鬱病に当てはまりますが、わたくしは知っています。
わたくしがただ単にグウタラ人間であったことを。

自分の興味のあることは楽しく行なうが、「学校に行き勉強する」なんてことには心と身体が拒否反応を示す。

こんなのは、ただのワガママであります。

後にわたくしがグウタラであった一因を見つけましたので、自分自身の鬱症状についてはこのように確信しております。

グウタラの一因とは?それは慢性的な鼻詰まりです。

わたくし、高校1年生の冬になるまでまともに鼻をかんだことがなく、常に鼻が詰まっている子供でした。

それまでに何度も鼻をかもうと試みたのですが、鼻水が固かったせいか鼻をかむとすぐに耳がビィ~ンと痛くなり、かめずにいたのです。

初めて鼻をかんだ時…
いまだに光景を覚えていますが、冬場で鼻水がゆるくなっていて学校の寮に1人で居て暇だったこともあり、鼻水出そうだなぁ~と、ゆっくりゆっくり片方の鼻穴から息を出していると、ベロベロベロ~と、一気に鼻水が流れ出てきたのでした。
宿便であったためか、膿に似たような色合いでありましたねぇ…
大量の鼻膿が両鼻から出てきた後のスッキリ感たるや…
10年以上に渡った苦痛から解放された瞬間でしたねぇ…

その後ようやく勉強が楽しくなり始め、学力の向上が見られました。
(ホンマかいな…


今から10年位前でしょうか?
「子供の鼻詰まりは、集中力が欠落してしまうので、とても大事です。上手に鼻がかめるように練習をさせましょう。」
みたいな記事を目にして、ようやく小中学校時代のわたくしが勉強に身が入らなかった理由が判明したのでした。
(ホンマかいな…

と、言う訳でわたくしは鬱病ではなくて、集中力欠落によるグウタラ人間であったと理解出来たのでした。


鬱病と一括りにしてしまい、すぐに投薬治療を行なう儲け主義の医療って、いかがなモノなんだろう…と、思ってしまいます。


わたくしが昔から感じていたこと、
「肉体的暴力」と「精神的暴力」
この二つを平等に扱えないに法の無力さに対する不満があります。

目で見て判る、肉体的な暴力には刑事罰が下されるというのに、精神的なダメージを推し量る術はなかったのですから。
(いまだに、正確には判らないでしょう、ズルい人間ならば演じることが可能ですからね。)

最近でこそ
「◯◯ハラスメント」
なんて言葉で、「精神的暴力」に対する法整備も進んできましたが、結局のところ気弱な人間のことを救うまでには到れずにおります。

結局は…
自分の身は自分で守る。
子供の身は親が守ってやらねばならぬのが現状であります。


さて、
「憎まれっ子世に憚る」
の核心でございますが…

自然界における弱肉強食が、現代の人間社会においても存在していて、自由経済社会において大前提であるはずの弱者救済のお題目すら政治家さん(実体はお役人官僚様ね)の頭の中にはありません。

そんな訳ですから、ごく一般的な人々から憎まれるような「個性&才能豊かな方々」が、ドンドンと蔓延る社会となり、逆に心優しき人間は競争社会から弾き出されてしまうのでしょう。

かのお釈迦様の教えが、発祥の地インドからは駆逐されてしまい、当のインドは いまだカースト制度の呪縛から逃れられない状況と、似ているかも…
(知りもしないクセに、偉大なテーマを引き合いに出すんじゃない…


結論
世は常に弱肉強食である。
従って…

「弱い者よ、強くなれ!」
「弱い者よ、憎まれろ!」
「憎まれっ子に仲間入り」

が、ベストアンサーなのか?

それらがどうしても無理な場合、

「弱い者よ、逃げなさい」
「弱い者よ、帰る場所を探せ」
「勉強が全てだと勘違いするな」
「帰る場所は親許だけじゃない、安心出来る場所を見つける努力をしなさい」

これがモアベターアンサーですかね。
(小森のオバちゃまですな。)

「憎まれっ子」は、世に沢山居ますから、逃げて逃げて心を鍛えていきましょう。
(ここまで来ると大陸思想だなぁ、中国古典を学ばせるべきですな)

親・学校・警察・役所、どれも頼りにならずとも、ひとつは目を見て話せる相手を見つけよう!

誰かに頼って良いのだ。
それでいいのだ~。


最後に、これはお釈迦様の教えを学んでいる最中に感じたことです。
(日本で布教されている大乗仏教ではなく、小乗仏教の教えかな?)

「憎まれっ子が世にはばかる」その理由が、「憎まれっ子」は長生きさせられているからだと云う話です。
そんな訳で蔓延るのが当たり前なんすね。

仏教では現世にある間に布施を尽くし功徳を積めば、何の苦しみもない悟りの世界へと導いてもらえるそうです。

「憎まれっ子」の方々は、まだまだ布施が足りないので、長生きさせてもらい、布施を行なうチャンスを頂いていると云う訳です。

まぁでも間違いなく、生まれ変わっても再び人間として生まれ、業を背負って苦しみながら生きることとなるでしょう。

人間が「虫けら」と蔑む生き物の方が、「生」を純粋に全うしていて、わたくしは尊い生き物であると感じます。
(個人的にカマキリが一番魅力的で、お腹が膨らみ産卵に備えた身体付きのメスカマキリは眺めていると涙が…

世の中には病などで、
「あんなにいい人が、なんで早く死んでしまうのだろう…」
と、云うケースが多々あるかと思いますが、周りの人間が哀しむことなどはないのです。

その様な選ばれた方々は、現世での修行が無事に済んで、覚者となり極楽浄土へと導かれて行ったのですから、もう人間のような苦痛からは卒業です。

ですから、安心して見送りを済ませてあげることが肝要ですね。
「早く亡くなってしまい可哀想」だと思う感情が、本当は「自分の大切な存在が目の前から消えてしまい、自分自身の欲望が満たされないことが可哀想」なのだと云う真実に気付くことが出来れば、苦痛からは解放されます。

この世(現世)は、業に満ちた苦しみの世界です、苦しみの中で修行を積むために生きていると感じてみて下さい。

死んであの世に行くよりも、現世が良いと思いこむのは、傲慢な人間の勘違いであると、わたくしは思い至りました。

「死」を恐れる心は誰にでも少しはあると思いますが、大概の方はすぐに生まれ変わり再びこの世に生を受けますから心配ありませんよ。

特に自死を選ばれた方は、すぐに生まれ変わってしまい同じ苦痛と戦うこととなりますから、自らがその苦痛の輪廻の輪を断ち切る努力が必要なようです。
頑張って下さい。


しかし、長生きしていると言うのに、周囲に対して布施をせずに来世も人間に生まれ変わってしまう自分を憂いた方が良いでしょう。

日々誰かに布施を行なう心得、これがあれば心安らかに過ごすことが出来、憎まれっ子を哀れむ気持ちが芽生えますので、受けるストレスも皆無となること間違いなしです。

結論
世に憚る憎まれっ子を哀れみ、話だけ聞いてあげよう。
ただし助力の必要はありません、手伝うことは憎まれっ子ご本人の成長を妨げる迷惑行為です。
道を指し示すことが、最大の布施であります。

おわり
え~取り敢えず公開しましたが、逐一修正を加えてまいりますので、本日はこの辺でお許し頂きたいと思います。

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