脳のミステリー

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4.何これ!脳卒中?

2005-07-13 13:31:13 | Weblog
 二〇〇一年九月二十三日は日曜日で祝日でもあった。秋分の日を挟んだ連休はまさに天高く馬肥ゆるという詞がぴったりだった。地下鉄虎ノ門駅はひっそり静まり返っていた。地上に出ても車の量も少なく人影も疎らだった。十日ほど前、在日アメリカ大使館周辺はあの恐怖の米国テロ事件の影響でごった返していた筈だ。午後四時近くになり、コーヒーを飲み終えた未来は帰り支度を始めた。典型的な現代日本の中年婦人の集まりで、呑気な女性三人の会話は他愛無いもので世界情勢も話題にならなかった。腕時計を見た一人の女性が口火をきった。
「じゃあ、また」
椅子から立ち上がろうとした身に招かれざる客が忍び寄ってきたのを知る由もない未来はコントロールを失った。静かに、ゆっくり訪ねて来た客は予期せぬ手土産を持ってきていた。沈着冷静という言葉はこの時の未来には通用しなかった。
世界にとって新世紀の幕開けは九一一テロという悲劇で始まり、未来の第二の人生は生きている彼女と死んだ彼女という双子の新劇で始まったのである。それまで二十世紀の未来にとってのモットーは切磋琢磨であったが、この魔の日を境に彼女にとってのモットーは沈着冷静に変った。いつも平常心を持つという事は絶えず努力をする事より遥かに難しい。未来は敢えてパニックという言葉を隅に追いやろうとした。あの日、店のテーブルに摑まって立ち上がれなかった未来は確かに冷静さを失っていた。椅子から立ち上がろうとした未来が突然、有無を言わせず体験したものはパニックにならないようにという方が無理だった。それまで未来は常に知らず知らず重心を右に掛けていたが、あの時は左足が無意識に全体重を支えようと必死になっているのに気がつかなかった。それより未来の右足がまるっきり反対方向を向いているのに気付いた自分自身をパニック状態から救い出せなかった。アキレス腱が前向きになり、つま先が後にある自分の足の位置が信じられなかった。当然、右足を床に着く事が不可能になり、やがて未来の体は静かに沈んでいった。パニック状態になる自分は恐ろしいもので何の変化も見せていない筈の左足も思うように動かせなかった。こんな時は一本では立ち上がったり、直立とは言わないまでも立ち続ける事が不可能だと体も脳も否定的になるものである。とにかくテーブルと椅子の間が狭かったのが不幸中の幸いだった。しかもテーブルも椅子もあり難い事に結構重量のある物だった。未来はテーブルと椅子に挟まれた格好で沈没した。友人達はあまり静かに倒れ込むというか座り込んだ未来に異常を感じる事はなかった。
「救急車を!」
未来本人の言葉に驚いて駆け寄った友人達は彼女の身に起きた急変が一体何なのか分からなかった。幸い、友人達は二人一緒でなく、一人は未来の前に立ちはだかり、もう一人は後に回った。後の友人が冷静に言った。
「動かさないで、そっと支えるから。お店の人を呼んで!」
前に立っていた友人は言われるがままに動いた。
「救急車を呼んで!」
店内は空いていたので、スタッフの方が多くいた。
「どうしました?」
「見れば分かるでしょ。早く救急車を呼んで!」
未来の背後から友人が店内のスタッフを咎めるように急かした。
 程なくして、未来の耳に救急車のサイレンが届き、身近な所で止まった。救急隊員は未来を見るや否や救急車から担架を運び出している仲間を早くと急かした。未来は友人の冷静な行動と素早い指示に感謝した。彼女はまるで未来と一心同体になって動いてくれた。未来を載せた救急車はすぐには発車せず、病院と交信を始めた。つい先ほど仲間を急かした救急隊員と同一人物とは未来には思えなかった。連休で手薄だという理由で近所の虎ノ門病院には搬送を拒否された。「どこにする?」救急隊員達のやりとりをよそに未来自身が口を挟んだ。
「広尾の日赤に行って!」
「日赤か、日赤は渋谷区だな。慈恵にあたってみるか」
「日赤に行って下さいって言ってるのに!」
あたかもタクシーの運転手に行き先を告げるように未来は言った。
「何が問題なの? 早く日赤に行ってよ。本人が日赤ってお願いしているんだから」
友人が怒ったような口調で急かした。未来はまたまた彼女に感謝した。「名前は?」「年は?」「住いは?」ありきたりの事を次から次へと質問してくる救急隊員が少し鬱陶しいと思った。失礼な話だが、未来は本気でそう思っていた。
無事に日赤に搬送されて、まな板の鯉になって横たわった未来は呑気なもので、一命は取り留めて、自分が意識があって、質問にも自分は全部答えられた、最悪の事態は免れたと思っていた。急を聴いて駆けつけた家族の者が説明を受けた。頭の左側の極一部分の血管が切れて出血したが、開頭手術の必要はないという説明だった。
-カイトウ? カイトウって何を解凍するの?-
未来の質問に答える人は誰もいなかった。本人は正確に喋っているつもりでもレロレロと呂律が回らず、普段のようには喋れなかったのである。僅かな時間で喋り方があれほど急速に妙になっていくとは考えられなかった。案外、聴覚は無事なんだ、と未来は思った。
「右手足にかなりのダメージが現れます。そして、今夜が山です」
拍車を掛けるように医者は酷な説明を更に続けた。まもなく未来の意識は薄れていき、やがて意識不明の状態に陥り、丸二日間、呼びかけにも答はなかったという。

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1 コメント

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読後感 (門井幸子)
2005-07-14 21:14:43
脳出血の方は回りに何人かいらっしゃる。しかし、ろれつが回らなかったりして、どんなだったのか?今、どういう状態なのか?は聞いた事が無かった。どんなものなのかが、よく解った。

脳出血を下方のためにも、又、その周りに居る家族の方のためにも、書いた価値があると思う。

これからも、頑張って続けてほしいと思う。
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