北京オリンピックが始まった。
早くも、悲喜こもごもだ。
個人的には、野球が楽しみ。
次回の五輪では、野球はない。残念。
野球が、サッカーと同じくらいに全世界でさかんになればいいのに。
野球という競技が一般的なのは、今のところ、アメリカ、カナダ、キューバ、日本、韓国、台湾、そして中国あたりだろうか。
ちょっと、地域的に偏ってるよね・・。
欧州、アフリカ、インド、ロシア、中近東、南米でももっとさかんになってくれればいいのに。
さて。
先ほど、台湾の名をあげたが、私には台湾の野球人で、どうにも忘れられない選手がいる。
今日は、その選手について書いてみたい。
一瞬、辺り全体を照らすような輝きを残して、去ってゆく人物というのがいる。
どの世界にも。
今回取り上げたい、呂 明賜というバッターは、その典型的な例だろう。
呂 明賜。ルー・ミンスー。ろ・めいし。
1988年に、読売巨人軍に入団した野手だ。台湾出身。
今では、彼の名を知らない人も多いだろう。
野球ファンの中では、忘れられつつある名前のような気がしている。だからこそ、取り上げてみたい。
彼のデビューは衝撃だった。
当時、巨人にはガリクソンやクロマティという優良外国人選手がいたおかげで、呂には中々一軍での出番がまわってこなかった。
でも、その豪快な打撃フォームは、二軍にいた頃にもすでに話題になり、マスコミで取り上げられていた。
凄い打撃フォームだった。
バットにボールがジャストミートしたら、どこまで球が飛んでゆくか分からないような迫力のあるスイングだった。
彼は、巨人に入団する前からも、一部の野球ファンには知られていた。
台湾に凄いバッターがいるらしい・・・という噂は私も耳にしていた。
その「噂の凄いバッター」がついに日本の球団に入ったということは話題になったもんだ。
でも・・中々一軍にあがる機会はなかったのだ。きっと、モンモンとしてたことだろう。
ところが、一軍でクロマティが故障する・・という呂にとっては絶好のチャンスがやってきた。
早速一軍に引き上げられた彼は、いきなりとんでもない活躍を始めた。
デビュー戦の初打席でホームランをかっとばした後、10試合で7本・・というとんでもないペースでホームランをかっとばし続けたのだ。
びっくりした。
あの衝撃は、ヤクルトにボブ・ホーナーが出現した時のような衝撃だった。
ホームランは、台湾では「全塁打」と呼ばれるらしい。
彼がホームランを打つと、スポーツ新聞では、呂の郷里の台湾に敬意を表して(?)「全塁打」という言葉をよく見かけた。
もちろん、台湾でも凄い話題になってたらしい。郷里の誇り・・台湾の英雄・・そんな感じだったろう。
野茂がメジャーでデビューして大活躍した時、日本人の誰もが野茂を誇りに思ったが、当時の台湾の人にとっては、呂はそういう存在だっただろう。
コツコツとまめにバットにボールをミートするタイプの打者が多かった日本人選手の中では、呂のそんな打撃スタイルは痛快だったし、見てても気持ちよかった。
力いっぱいスイングするプレースタイル、私も大好きだった。しびれた・・と言ってもいい。
そのインパクトは、彼を主人公にした漫画が現れたことでも分かる。
だが・・そんな呂も、やがて弱点を覚えられ、そこをやたらと突かれることで、徐々にペースが落ち、デビュー時のようなホームラン量産ができなくなっていった。
日本の投手も「さるもの」だったのである。
パワーの呂を、技術とデータで、日本人投手は抑え込むことができるようになった。
翌年になると、クロマティが怪我から復帰し、外国人ワクの問題に直面した呂は二軍暮らしが続くようになった。
で、気づけば、出番に恵まれぬまま、いつしか「ひっそり」と巨人を退団していた。
退団した時の彼の気持ちは、いかばかりだったろう。
入団するときは、台湾全土の期待を背負い、また、一瞬ではあったかもしれないが、その期待に見事に応え、日本人ファンをも魅了したのだから。
確実に、日本野球界に新風を吹き込み、輝いたのだ。
巨人退団後、彼は台湾に戻り、台湾の球団に入団して、また主力選手として活躍するようになったらしいが、なんでもその後、思わぬトラブルに巻き込まれて引退したという。
で、今は、台湾で野球の指導者として活躍しているらしい。
日本での活躍は、尻すぼみで終ってしまった感がある。
でも、光り輝いたのは一瞬だったかもしれないが、その輝きは、とうてい忘れられるものではない。
日本の野球界を明らかにまばゆく照らしたと思う。
個人的には、呂には、あの外国人枠は残念だった。
できれば、日本人選手と同じような条件で、日本野球が根気よく育てあげてほしかった。
そうしたら、どんな選手に育っていっただろう。
なにしろ、素質は天下一品だったのだ。凄いものがあった。
日本人選手と同じくらいの条件で育てていったら、生涯通算記録で、かなりの数字を残せたのではないだろうか。
そう思うと、残念でならない。今も。
王貞治は、父親が中国人で母親は日本人だった。
外国人枠というものを「しかたないもの」ととらえるなら、呂の親のどちらかが日本人であったら・・と思ってしまう。
そうすれば、王やダルビッシュのように、外国人枠をクリアできただろうに・・。
・・とまあ、こんな色々な思いが交差し、呂明賜という選手は、私にとっては忘れられない選手だ。
日本野球界は、彼の潜在的な才能を活かしきれなかった・・と言えるだろう。
凄い生涯成績を残す可能性があった選手を、掴み損ねてしまったと思えてならない。
でも、最後に私は言いたい。
呂 明賜さん、あなたの豪快なバッティングスタイルが私は大好きでした、と。
日本を去る時、きっと日本球界に対して思うことは色々あったことでしょう。
でも、呂 明賜という豪快なパワーヒッターを忘れられない日本人もいるのです。それだけは、覚えていて下さい。
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