西武池袋線は都心から秩父まで続いている。
西武池袋線に乗って終点の西武秩父駅が近づくと、一際存在感のある山が目に入ってくる。
その山とは武甲山である。
私はこれまでに西武秩父へは何度となく行ってきた。
まあ、ここ数年は行ってないけれど。
日帰りで行ったことも何度かあるし、泊りがけで行ったことも何度かある。
その度に、武甲山の姿も何度も見てきたし、武甲山が見えてくると、いつも複雑な思いを持ってきた。
なぜか?
その理由は武甲山の姿ゆえに。
武甲山は良質の石灰岩の鉱床として知られ、明治の時代からセメントの原料として山は採掘され続けてきた。
採掘の跡は、見ててすぐにわかる。
山は削りに削られ、昔の本来の武甲山の姿とは変わり果てた姿になってきている。
採掘跡の山姿を見ると、痛々しいくらいだ。
山を擬人化して見ると、可哀想なくらいだ。
本来は歴史のある山であり、日本武尊の伝説もある。
削られてしまった山頂部分には、縄文時代から現代に至るまでに信仰遺跡や巨岩郡があったらしいのだが、採掘により、それらはすでに消滅しているらしい。
また、採掘のせいで、高さそのものも少しだけ低くなってしまっているらしい。
ネットには、大昔の武甲山の写真もあるので、近年の武甲山の山姿と見比べてみると、その違いに気がつくだろう。
昔の武甲山の山肌は、白黒写真ではあっても、豊かな山肌だったことがわかる。
だが近年の武甲山は、山肌が削り取られ、痛々しい姿になっている。
こういう写真を見比べたり、実際の武甲山を見たりすると、武甲山が気の毒に思え、採掘に批判的な意見を持ってしまいたくなる人はいるだろう。
まあ、そう思うのはわかる。私もそんな気持ちは正直、ある。
だが、その一方で。
武甲山の犠牲(?)のおかげで、日本人は豊かな生活を送れてこれたという事実もある。
セメントが日本人の生活にどれだけ使われてきたか。豊かな生活にどれだけ貢献してきたか。
そのへんのことも考えてしまう。
また、採掘で、雇用も生み出してきたはずだ。
そんなことも考えてしまうと、採掘への批判一辺倒にはなりきれず、その結果複雑な心境にもなってしまう。
武甲山は、秩父では本来シンボリックな偉大な存在なのだと思う。
人々の生活向上にも役立ってきた。
あの悲しい山姿を見て、同情すると同時に、感謝の気持ちも持たないといけないのだろうね。
でも、このままいくと、いつか武甲山そのものがなくなってしまいそうな気もする。
このままいくと、そんな未来がきてしまいそうで仕方ない。
それでいいのだろうか。
それだけは、さすがに見るに忍びない。
これまでの貢献に感謝の気持ちを持ちつつ、削られる役割からそろそろ解放させてあげることは、できないのだろうか。
今はただ、武甲山が人間になんらかの報いをもたらさないことを願うのみ。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます