愉しい触れ合いを目指してゆとりの有る人生を歩みましょう

平凡な日常生活にまつわる拘り情報、写真、並びに体験談等を交えて皆さんとの交流を深めて参りたいと思います。

ベラジオ ホテルの植物園作成下準備状況

2010-09-18 06:56:43 | Weblog

ラスベガス通りの中心部にこのベラージオ ホテルカジノが美しい池を挟んで見えます。
この池で行われる噴水ショーはラスベガス ストリップの名物の一つで大抵毎日決められた一定時間(約15分間)に素晴しい音楽に合わせて目を愉しませてくれます。特に夜間中のショーは美しい色鮮やかな照明に照らし出されラスベガス通りを往復する人々の目を惹き付けます。
猶、夜の噴水ショーは関連動画で観覧戴けますので是非ご覧下さい。

ホテルの中に設けられている大きい植物園内では毎年季節に応じて相応しい模様替えが施され色鮮やかな様々な飾り付けで観光客の目を愉しませてくれています。 今回はたまたま今の時期に入って丁度模様替えの下準備の工事中でしたが、一週間後には完成の予定です。 工事現場の状況は初めて目にしましたので物珍しく思いカメラに収めましたのでご覧下さい。


猶、この植物園の直ぐ傍にはこの動画で見られる様にアイスクリームやその他のケーキ、クレイプス及びドリンクスなどで人気が有り賑っています。
右側の大きいショーケースの中に見えるのは天井から垂れているチョコレートの滝です。













9llの大惨事!

2010-09-11 23:38:04 | Weblog
2001年9月11日にニューヨークのTwin Towersで起こった同時多発テロの大惨事で多数の犠牲者を出し、米国市民にとっては忘れる事の出来ない悲劇の悪夢となりました。 それから9年を経た今日ではその跡地に着々と新しい建物が復興されています。 今日の911に関連したニュースは目立つほど大きく取り上げられていませんが、今回は此処にこの場を利用させて頂き当時の悲惨な大惨事の状況を捉えた多数の画像が載せられているサイトをご覧下さい。 (URLをクリックしたら更にAmerica Attacked 911の項目をクリックして下さい)


America Attacked 911

思えば私にとってニューヨークは殆ど縁の無い都市でしたが、同年の8月中旬にロスアンゼルスから観光旅行で2日ばかり滞在しておりました。 私は残念ながらTwin Towersを訪れた事は有りませんが、自由の女神を訪れた折、写真の背景に当時のTwin Towersが写っていました。無事観光旅行から戻った翌月の9月にこの惨事が起こり2,3日は毎日テレビニュースに釘付けになっていました。一日も早くテロの無い平和な世界が訪れて欲しいと念願して止みません。  

レッドロックのCalico Basin (キャリコ)Walkway

2010-08-31 11:53:19 | Weblog
画像の黒く見える部分が駐車場で左下に見えるグリーンとブラウンの部分一面に散策専用の木造の橋が横たわって居るのがかすかに形付けられているのが見えます。 








この場所はラスベガスの中心繁華街の西方約20マイル(32km)離れた所にレッドロックと呼ばれる山岳地帯が連なっていますが、其の直ぐ手前の狭い盆地にCalico Basin(キャリコ)と呼ばれる地名の場所があり小さい村や牧場が有ります。其の一角にピクニック用の小さい公園が出来ており、駐車場、BBQグリルとピクニックテーブル、便所なども備わっています。 因みに私の家からは僅か10km離れた所に有ります。
低いごつごつした岩山に面した場所で其処から一寸したハイキングも楽しめます。 其の岩山側面までの荒地の地上に木造の散歩専用の橋が掛け渡されており、入り口の最初に見られる地図の説明に依ると其の距離幅は約0.5マル=0.8km有りゆっくり歩いて20~30分の散策を楽しめます。
勿論夏の日中の陽射しは厳しい上に余り木陰も無いのでお勧め出来ませんが、朝早く涼しい内の散歩は最適です。  何しろ砂漠の地質ですから美しい草花等は見掛ける事は出来ませんが、何故か今回訪れた8月20日の午前9時頃の風景は意外と緑の茂った木や潅木、雑草で覆われていて大変心地良い気持ちでした。 途中で一組の若い日本人のカップルの姿も見られました。
38枚の画像をごゆっくりご覧下さい。



65年の過去を顧みる  その#2

2010-08-14 13:47:50 | Weblog
毎年思い浮かばれる事は同じですが、今年は今まで思い違いしていた事に気付かされた事が有りました。それは私が原爆投下後に初めて被爆地域に足を踏み入れた日は火災が燃え尽きたと思われた数日後の8日か9日頃だったと信じて居り定かではなかったのですが、今年になって色んな調べた情報から翌日の7日で有った事が裏付けられほぼ確定された事でした。 私が被爆地域で目にした屍は8日には既に殆どが片付けれていたと言う確かな情報からでした。

現在も日本では多くの生存被爆者の方達が何らかの事情で未だに政府から認可されない為に被爆者健康手帳を入手出来なくて充分な治療が得られないで居られることを知りました。 実は私が2007年4月に60年振りに初めてアメリカのラスベガスより帰国した理由はそもそもアメリカにも数多く居る在外被爆者の一人として2005年に初めて医療援助の可能性が有る事を知らされ其の申請依頼の為廣島市の社会局原爆被害対策部を訪れたのでした。必要書類を纏めて提出し担当者の方とも面接を交わして調査検定後の結果報告を待ちましたが、結果は私が被爆地域に入った時は単独行動を取って居た為に証人不在の理由で却下され諦めていました。60数年後に至っては当時の学友の所在さえも不明で、身内の者は証人として認可されないので止むを得ず諦めていたのでした。 其れが昨年の11月に突然廣島の担当者の方からの連絡を受け再度私の申請書の見直しを考慮して頂き、又最初から申請の遣り直しで以前よりもっと詳しい情報を先方からも調査をして頂いた結果で私の証言が認可され今年の4月には正式に被爆者健康手帳を入手する事が出来たのでした。 然し残念ながらこのアメリカに於いては被爆者健康手帳は此方での医療費に対しては一切無効なのです。 私は被爆地域に深入りした割りには運良く原爆の放射線に拠る被害は未だに体内に及ぼしていません。

被爆者の生存者は年々高齢化され数少なくなって居り若い世代の人達に体験談を語り継ぐにも記憶が薄れて充分語り尽くせなくなっている事と思います。 私の年代で体験した事の範囲内では終戦後に生まれた若い世代の方達の体験出来なかった戦時中の日本の状態でしょうか。
私はハワイ生まれの帰米二世ですが幼少時代を広島で育って来ましたので、殆ど空襲を受けなかった廣島では其の恐ろしさを体験していませんでした。 空襲警報になると寧ろ戸外に出て敵機の様子を伺って居た程でた。 それでも2,3度真向かいに見えていた宮島の山の上空には日本の高射砲でどんどん撃ちまくっていた状況を見た事が有りましたが、炸裂して出来た白い雲は遥かB-29の下でとてもB-29の高度まで届いていなかったのでした。 時たま岩国方面から飛び立ったと思われる日本の飛行機は戦闘機では無く練習機で白い煙を出しながら基地に戻って行く哀れな光景を見て悲しく思いました。 其の頃から日本はとてもアメリカには立ち向う事は不可能な気がして負け戦になる不安な気持で一杯でした。 当時の私は未だ嘗てアメリカ人を見た事も無く日本がこの戦争に負けたら一体どんな目に合わされるのかと様々な想像をしていましたが、特に恐怖心に襲われた事は有りませんでした。

8月6日の朝8時15分丁度、私が住んでいた家の2階の部屋の北側に面していた窓からいきなり強烈な黄色の光線が稲光の如く射し込み其の数秒後には窓の障子に嵌められていたガラスが物凄い爆音と共に爆風で部屋の中に飛び散り、飛び上る程に吃驚り仰天しました。階下には事務所が有って常に数人の人達がいて大騒ぎとなり忽ち近所からも人が集まって来て北部に見える広島市の上空にもくもくと素早い速さで音も無く見る見る中に大きく膨れ上がって行く茸雲の光景を皆は無口で目を皿の様にして釘付けとなっていました。 一体何事が起こったのか知る由も無く無我夢中で茸雲から目を反らす事が出来ず暫くの間瞠り続けていました。家の直ぐ北側は瀬戸内海の海に面していて廣島市方面に向っていました。海を隔てた直ぐ右側(東部)には宮島の南部が見える処でした。 

2日目頃からどんどん 被爆に遭った人達がトラックで小学校の校舎に運び込まれて治療に当って居たと後から聞きましたが、治療に間に合わず多くの方が亡くなられたとの事でした。火傷の表面に直ぐ蛆虫が発生して取り除く手当てが大変だったと聞かされましたが、今でも想像しますとまるで生き地獄状態で有ったろうと思 います。

大人達の話しを聞いていましたら広島市には今後70年は草木も生えない土地となり住めなくなると話していましたが、話の内容ではその様に発表されていた様でした。

因みに私は原爆投下当時、広島修道中学校1年生在学中の12才の時で8月5日の前日まで学徒動員の一員として中心部に近い広島日赤病院近くの作業場で疎開された後の家屋の後片付けの作業に携わっていました。 翌6日は上級生の2学年生徒と交替される事となり、我々一学年は全員休日を与えられ運良く生き残ることが出来たのでした。交替された2学年の上級生は勿論全員被爆され尊い犠牲を払われました。

休日を戴いた我々一学年全員が必ずしも無事に生存した訳では有りません。多数の学生達は既に疎開先から通学されていましたが、市内に在住されていた生徒も多数居られその殆どは言うまでも無く被爆されました。

4歳上の姉も当時広島第一県女に通学中でやはり学徒動員で出勤中に被爆を受けましたが、奇跡的に運良く 工場の建物の下敷きになって大怪我は免れましたが、翌日まで帰宅出来ませんでした。

6日の当日の広島市は一晩中燃え続けて上空は真っ赤に染まって見えていました。 翌7日には早速単独行動で学校の安否を確認する為に市内に出向いて未だくすぼって居た焼け爛れた瓦礫や悪臭を放つ死体を除けながら1時間余り掛けて行ける所まで行きましたが、天満川まで辿り付いて断念せざるを得ない酷い状況だったので引き返しました。 己斐駅(西広島)で下車して電鉄の線路に沿って歩き途中二つの川も鉄橋を渡ってやっと天満町の天満川まで辿り着いた所で引き返したのでした。流石に天満川まで来ると川の表面や川岸には焼死体で殆ど埋め尽くされていました。 足元には瓦礫の山で無数の焼死体で足場も無い位にごろごろと横たわっていたのです。 悪臭を放つ焼死体の光景は余りにも無残なのでそれらの状況はご想像にお任せして詳しい説明は控えさせて頂きます。

引き返す途中の電鉄の線路上に1台の焼け爛れた電車がありその中には一人の座った状態の焼死体が無残な姿で外から良く伺われました。 私が歩いた範囲内では少数の探し人達しか見掛けていませんでしたが、もっと居られたかも知れませんが私も夢中で歩いていたので覚えていませんでした。 己斐駅の前の狭い空間には彼方此方に筵(むしろ)が敷かれて火傷を負って動けない5,6人の人が苦しそうな呻き声を挙げて飲み水を乞い願っていた光景も目にしましたが通り掛かった方達に介護をされていた様子には子供ながらにも居た堪れませんでした。  

天満町と言えば中心地から然程遠くではない町で私が小学4年と5年生の頃、天満橋が在った川の直ぐ傍に1年半住んで居た思い出深い町で其処の天満小学校の生徒でした。 

其の後学校に戻った時の様子に就いては殆ど記憶が有りません。殆どの同学年の生徒達は既に郊外地区に疎開していましたので無事でしたが、市内に住んで居た生徒達の殆どは亡くなっていました。 お互いに生き残った無事を喜び合い倒壊した校舎の片隅で片付ける作業をさせられていたと思いますが、全く覚えていません。 校舎の復興には数ヶ月掛かり不便を重ねながらの一学年を過ごしました。 終戦後の教育制度も大きく変わり新制中学と呼ばれる様になりました。  

一応終戦前後の中学生当時の思い出した範囲の体験談として述べさせて頂きました。説明が後先になってさぞ読み辛い点も多々お気付きになったと思いますが、率直な説明が判り易いと思い敢えて思い通りの体験談として述べさせて頂きましたのでご了承下さいます様に。 

この過ちは人類に二度と起させては成りません。 
    

65年の過去を顧みる

2010-08-12 14:51:36 | Weblog
遂に終戦65周年目を迎える日が迫って来た。 軍国主義の国から民主主義の世に移り変わり今や日本の新政権は完全に若い世代に受け継がれて来た。

未だ幼少だった頃の自分は軍国主義だった日本の厳しさは然程に感じられなかったが、思えば小学校時代から先生の生徒に対する処罰は半端な物ではなかった。

低学年(4年生まで)の頃は男女共学だったが、先生の生徒に与える体罰は柔道の技で床に叩き付けた挙句に顔に何度もびんたを食らわせ教室の生徒全員に恐怖感を与えてぴりぴりさせられていた。中学生だった頃も厳しい暴力を振るっていた先生が居た。そんな或る日の放課後、1年生全員は講堂に集められてきつく巻いたゲートルを付けた侭で床にお行儀で正座させられて初のお説教を1時間近く聴かされたが、終った後に殆どの生徒が足の痺れに立てなくて呆気なく床に転落していた。 

私達同じ方角から汽車で通学するグループ(本線下り方面)は必ず一緒に列を組んで下車する駅から学校までの行き帰りは上級生の指示に従って通学させられていた。或る日帰る歩道の途中から狭い場所に連れ込まれて並ばされ、いきなり一人一人の顔にびんたを食わされた事が有った。其れは飽くまでも上級生に従わせる為の説教だった。

8月6日の前日までは1学年の生徒は学徒動員として市内の中心部に近い地区での疎開された後の空き家屋の取り壊された後始末の作業勤務に従事させられていた。 翌日の6日は2年生の上級生と交代させられる事となり1年生は全員休日が与えられ大喜びで帰路に就いたのだった。 その結果が生死の境い目となり運良く原爆から生き延びられた所以と成ったのだった。 2学年の上級生は全員帰らぬ犠牲者となったのだ。  (続く)

フーバーダムの橋桁完成状況とLake Mead マリナ

2010-07-21 03:08:50 | Weblog
久し振りにフーバーダムの橋桁建設工事の近況を訪れて見た。先ずはその工事現場の橋桁の真下を通過して駐車場に向った。 暑くなる前と観光客で交通が渋滞する前に朝早く出掛けたので僅か45分で到着した。 橋に接続するハイウエイもほぼ完成していた。 これからは細かい作業を完了させて年末までには正式に開通出来るであろうとの事だった。


フーバーダムに入る手前に小高い岡の上に有るLake Meadを見下ろせる展望駐車場から望んだマリナの風景。
<object width="580" height="360"><param name="movie" value="https://www.youtube.com/v/4HgavSybjlM?fs=1&hl=ja_JP&border=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param></object>

フーバーダムの橋が遂に完成!

2010-07-20 06:25:27 | Weblog
この度は大変長らくお待たせ致しました。 最近のフーバーダムの橋桁完成に伴い同時にLake Meadのマリナやピクニック用の施設もご紹介致します。



待ちに待ったフーバーダムの橋の建設工事が遂に完成しました。 今年末中には正式にステイトハイウエイ#93として開通される事となります。


この動画は上空から写されたものを拝借させて戴きました。未だ橋桁が完成する以前の光景です。

マリナではレント用のハウスボートも用意されています。

今回はLake Meadのマリナとピクニック用の施設の様子の一部を紹介しています。 ご覧の様に水面が年々可なり減少して湖の畔がピクニック グラウンドから段々遠ざかっています。 又直ぐ傍にはレンタル用のトレイラーハウスやRV車の専用駐車場も整っています。

ハチ鳥の巣立ち

2010-05-26 14:23:12 | Weblog




5月25日の朝7時には元気に振舞っていた一羽は既に巣立って姿は見えなかったとの報せを受けました。 巣に取り残されていた一羽もその日の5時間後には巣立って巣はもぬけの殻となった状態で何とももの寂しい風景でした。
然し午後からは一羽づつ巣が作られて居た木に繋がれていた一本のロープに泊まり其の後から親鳥が来てロープの上で餌を与え始めていたのです。二羽が交互に来て泊まり親鳥も15分毎位の割りで戻って来ては餌を与えて居た光景が伺われました。然し何故か立去った巣には戻らなかったそうです。 

(参考までに・・・)
ハチドリには約17種類に分類され生息する場所も夫々異なる。カリフォルニアやアリゾナ州にも一定の種類のハチドリが多く生息している。 
ハチドリは渡り鳥で毎年春にはメキシコ方面から必ず同じ場所に戻って来るのだそうだ。移動する距離は何と2,000マイルス(3,218㌔)までに達するそうだ。
ハチドリの食べ物は花蜜と小さい蜘や虫を蛋白質として取り入れている。家庭で与える甘水は砂糖1に対して水4の比率で沸騰させたものが花蜜に相当するものだそうだ。
ハチドリは小さくて可愛いがペットとして飼う事は厳しく禁じられている。 
(参照:http://hummingbirdworld.com/h/qa/qa.htm)


蜘蛛の巣に引っかかったハチ鳥

2010-05-26 03:36:47 | Weblog

2008年06月01日 ― Found lying on the hot ground tangled in a spider's web so that it could not move,lay dying a fragile hummingbird. After the web was carefully pulled off the bird, it happpily flew away.

この動画は関連動画の中からお借りして改めてこの場で紹介しているものです。
蜘蛛の巣はご存知のように非常に粘り気が有り丈夫なので大きい蜘蛛の巣に引っかかるとこのような危険に曝される事も有り得るのですね。 早くこの若い夫婦(?)に依って見付けられ命拾いして良かったです。嘴の周りに粘り付いていた蜘蛛の巣を懸命に取り除いてやっている姿を見て胸が熱くなりました。それにしてもハチ鳥は暴れていませんでしたが、余程衰弱していたのだと思います。掌に載せられていた姿は恐れをなさず可愛いですね。感動させられました。 他にも素敵な動画を見られますのでご覧下さい。