国鉄があった時代blog版 鉄道ジャーナリスト加藤好啓

 国鉄当時を知る方に是非思い出話など教えていただければと思っています。
 国会審議議事録を掲載中です。

国鉄労働組合史 269

2011-08-24 10:00:00 | 国鉄労働組合史
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第五章 分割・民営体制の矛盾の表面化と国労運動

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第三節 賃金・労働条件・安全確保をめぐる取り組み
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 国労の労働時間短縮要求

 ところで1990年に入ると、JR各社は株式上場と経営改善を目指した90年度事業計画を明らかにし、さらなる「合理化」を打ち出していたが、JR各社における労働時間の実態は、もともと会社側が一方的に作成した就業規則所定の労働時間をはるかに超過していた。所定内時間までの超勤交番、QC・増収運動などの強制によるタダ倒きが全職場に広がり、年次有給休暇がとれない、病気になっても休めない実態、そして健康をおびやかす不規則な労働時間と労働条件という状況から、JR各社に働く労働者にとって労働時間の短縮、勤務の改善、休日・年次有給休暇の確保など、労働条件改善の要求は切実であった。90年8月2日から開いた第55同定期全国大会( 東京・品川総合区民会館) において国労本部は、JR発足後の職場の実態を踏まえて、次のような「労働時間短縮・勤務改善の闘い」を決定した。そして、これら週40時間労働制を中心とした諸要求は、90年代国労の労働時間短縮要求の闘いの主要テーマであった。
  「労基法改正によって、91年4月1日から46時間- 44時間が実施となり、93年4月1日、40時間の実施となる。労働者の職場の状態、会社の動向等の情勢を踏まえ、具体的に労働時間短縮、勤務の改善、労働条件の改善を次のように闘う。
 (1) 現在の労働時間の実態から、労働時間を全体として週40時間に到達させることが大切である。所定労働時間が週40時間から週48時間までも大きな差があり、変形労働時間制の悪用による勤務種別の多様化による非人間的な始業、終業時刻の一方的設定と変更が強行されている実態のもとで、所定労働時間の圧縮と平均化が必要である。3年後のことを考慮して、最長所定労働時間を週42時間とすること。
 (2) 変形‘種のなかの労働時間が最短4時間、最長15時間となっているが、これは始業、終業時刻の反社会的な設定となっている。これを改善するために所定労働時間を制限すること。
 (3) 休憩時間( 食事時間合む) を完全に確保する。それに必要な要員を確保すること。
 (4) 年休の失効が全職場に広がっている。また、祝日の買上げや休日労働の制度化など、年休、祝日、調整休日等の完全確保を実現する。労働省等の現在の動向は年休の最低日数を15日にするなどが提起されている。時短が休日増という方向で検討されているが、これは一面で『合理化』の強化を許すという問題を残すものであり、基本的には1日の労働時間、1週間労働時間の短縮、つまり、実質的時短を行わせることが大切である。
 (5) 動力車乗務黄、列車乗務員、自動車( バス) 運転士の勤務の改善、時短を実現するためには、交番作成基準の改善が不可欠である。①1勤務の制限、②1連続乗務キロの制限、③所定労働時間内の交番作成、超勤交番をやめる、④折返し箇所における睡眠時間の確保、⑤準備時間の見直し、必要時間の確保、など、具体的な要求を明らかにし、職場の圧倒的多数の労働者の要求を統一して闘うこととする。
 (6) 婦人労働者の健康と権利を守るために、夜間作業の制限、 生休・産休の確保等についての要求を明らかにし、全体として取り組むこととする。」
 
続く
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国鉄労働組合史 268

2011-08-23 10:00:00 | 国鉄労働組合史
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第五章 分割・民営体制の矛盾の表面化と国労運動

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第三節 賃金・労働条件・安全確保をめぐる取り組み
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二 労働時間短縮への取り組み

 労働基準法改正と労働時間短縮問題

 1987( 昭和62) 年9月、その制定以来といわれる労働基準法の抜本改正が行われ、わが国の法定労働時間は週48時間労働制から週40時間労働制への移行が決まった。そして、「当分の間週46時間」( 87年12月政令) 、「週44時間」( 90年12月政令) 、「労働時間の短縮の促進に関する臨時措置法」( 92年6月) 、そして93年6月の労働基準法改正によって法定労働時間を94( 平成6) 年4月から週40時間とすることになった( 1日の労働時間は従来通り入時間) 。しかし、一定の規模と職種については3年間の猶予期間が設けられ、また時間外労働の割増賃率は50% 以下の範囲で政令で定めるとなっていたが、実際には休日労働が35% 割増になっただけであった( 他は従来通り25%) 。
それに、労働時間の"弾力化〃の名において変形労働時間制の拡大やフレックスタイム制が導入され、原則40時間労働制の実態とくに交替制職場の労働時間が複雑になり、そのことはまた使用者側の恣意的な勤務変更を許すおそれが十分にあった。なお、87年労働基準法改正により、年次有給休暇は最低6日から10日になった。
 一方、労働時間の短縮と"経済大国"らしい豊かでゆとりある生活を実現するには、すでに先進諸国で普及している週休2日制の実施は、もはや避けることのできない課題であった。経済審議会の「経済運営5ヵ年計画」答申( 88年5月) は、「完全週休2日制を普及して1992年度までに週40時間制の実現を期し、年間労働時間を1800時間程度にする」としていたが、わが国の銀行など金融機関が土曜日を閉店して週休2日制になったのは89年2月から、土曜閉庁による国家公務員の完全週休2日制が実施されたのは92年5月から、そしてわが国の年間労働時間が、ともかくも数字的に初めて2000時間を切ったのは1992年のことであった。
 さて、国鉄時代の労働時間は、1974( 昭和49) 年10月の第三次労働時間短縮協定にいたってその大勢は確立していた。そして75年10月の段階で、14勤務種別所定労働時間の単純平均は週42時間37分となっていたが、それらは職種・勤務形態などにより違いがあり、1日の平均労働時間は6時間40分~7時間50分、年間所定労働時間はおおむね2086時間~2452時間( 以上87年3月現在) であった。しかし、それらは87年4月の国鉄「分割・民営化」による一切の労使協定などの破棄により白紙となった。そして、JR体制下の各会社の労働時間などの労働条件は、使用者側が一方的に実施した新しい就業規則と、それを追認した「労使共同宣言」組合の労働協約により成立した。例えば、87年4月以降のJR東日本の1日の労働時間は7時間16分~ 入時間43分、年間所定労働時間は1962時間~2393時間半( 加重平均で2088時間) となっていた。しかもその運用の実態は、「使用者が業務の都合によって任意に労働時間を変更するような制度は( 1月変形制に) 該当しない」( 平三・基発一) 状況となっており、労働基準法違反がまかりとおっていた。
 こうしたなかで、93年6月の労働基準法改正( 前述) により、わが国の法定労働時間は94年4月から原則40時間制に移行し、運送事業などを営むJR各社( 非現業・病院・工場等を除く) については93年4月から44時間制、しかもほとんどすべての職場で交代制勤務と変形労働時間制を採っていた。そこで、わが国の労働時間短縮の趨勢を踏まえながらJR 各社の労働時間短縮策が出されてくるが、それらに対する国労の対応も急を要した。

続く
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国鉄労働組合史 267

2011-08-22 10:00:00 | 国鉄労働組合史
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第五章 分割・民営体制の矛盾の表面化と国労運動

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第三節 賃金・労働条件・安全確保をめぐる取り組み
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一 1990年代国民春闘再構築の方向

 長引く平成不況下の春闘

 95春闘 95年春闘は、バブル崩壊後の平成不況からなお脱しきれないだけでなく、新年1月17日未明に襲った阪神・淡路大震災、そして一ドル80円突破( 4月19日) へ向けた急激な円高などの影響をうけた。経営側は、
①ベースアップはゼロ、
②支払能力ある企業だけ賃上げし横並び賃上げ廃止、
③春のべースアップ方式を見直し定期昇給とボーナスの二本立てとする、
など春闘っぶしの主張を展開した。労働側は、連合が1万4000円中心の賃上げ要求、全労協と全労連が3万5000円以上賃上げの要求をかかげて春闘に取り組んだ。しかし、阪神. 淡路大震災に襲われた関西の一部労使は春闘統一交渉からはずれ、私鉄絵連はストライキを構えない関東・関西の交互交渉になった。3月に人って早々、全電通はNTT 分割阻止・全国一社制維持の要求のため定昇込み9300円( 2.8%) で妥結し、下句には鉄鋼が3500円( 1.21% ) で妥結した。全体的な賃上げ妥結は平均8376円( 2.83%で、額・率ともに前年をさらに下回った。
 国労は2月6日、貨物会社をはじめ全国一社および各旅客会社に対し、
①3万5000円の賃金引き上げ、
②第二基本給の廃止、
③超過勤務及び休日労働の割増賃金率を100分の150以上とすること、
④昇進・昇職制度の改善、
⑤都市手当・55歳以上の在職条件の改善、
などの申し入れを行った。しかし、1月の大震災による被害が拡大して阪神地区を中心とした産業界に?春闘自粛〃論が先行するなかで、3月上旬から低額回答が浸透した。JR関係では、とりわけ貨物会社と西日本会社の震災被害甚大による運賃収入激減が交渉を難航させた。3月下旬になって、まず西日本が前年を下回る同答をしたのにつづいて、各社の回答が示された。その内容は各社で格差があったが、賃上げ全国平均9977円( 3.04% ) であった。他労組が回答日あるいはその翌日に妥結していくなかで国労は、前年に引きつづく低額回答に抗議する大衆行動を組織し、支社・支店での抗議行動を指示したが、3月30日、全国闘争を集約し、妥結した。
 
 全国単一組織としての国労の課題

 新賃金引き上げ額が各社で〝多極化〃し、その配分内容も多様化する傾向にあり、新規採用給などにも差がつきはじめた。こうした実態をうけて全国単一体組織としての国労には、労働時間をはじめとする労働条件や福利厚生面も含めて、各社間におけるこの現状をどう改善し、どう近づけていくかが問われていた。95年7月27日・28日に開いた第60同定期全国大会( 東京・九段会館) において国労は、経過を振り返りながら95春闘を総括し、これからの課題を次のように提起した。
  「第一に、資本の側は春闘そのものを見直すという春闘っぶし を95春闘において画策し成功している。従って労働側は、春 闘の歴史と意義を再認識し、秋の段階から中央・地方における春闘構築にむけた集会や交流会を重ね、ナショナルセンターや企業別労働組合の枠を越えた春闘のうねりを創出することが求められている。
  第二に、三島及び貨物の各社に対し赤字の要因を突き付け、賃金の押さえ込みでなく経営形態を含めた抜本的見直しを迫ることが求められている。こうした事を通じ会社間の賃金格差を是正させていく。
  第三に、『賃金・生活実態調査』を全組合員参加で成功させ、春闘期における、とりわけ春闘前段の職場・地域における学習会・交流会を計画的に取り組む事が大切になっている。そして、全職場での要求づくりと現場長への申し入れと交渉を求める行動を粘り強く展開する。その過程で組織拡大を勝ち取る。
  第四に、95春闘では3月22~25日にかけて各エリア本部を中心に創意・工夫した大衆行動が展開された。しかし、ヤマ場での全国統一闘争の質的発展が求められている。
  第五に、引き続き全国単一組織としての機能発揮が課題となっている。JR グループとの統一交渉を目指して、要求提出から交渉そして回答指定日、さらに戦術配置・妥結への過程が問われている。」

続く
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国鉄労働組合史 265

2011-08-21 21:40:36 | 国鉄労働組合史
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第五章 分割・民営体制の矛盾の表面化と国労運動

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第三節 賃金・労働条件・安全確保をめぐる取り組み
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一 1990年代国民春闘再構築の方向

 長引く平成不況下の春闘

93春闘 バブル経済破綻による不況は長引き、資本の側はこれを機に「企業体質の改善」いわば労働力削減のリストラをすすめ、失業率が上昇をはじめた。春先に卒業予定者の採用内定取り消し企業が現れたことが、社会問題になった。連合は前年を1%下回る7% の賃上げ要求で93春闘にのぞみ、国民春闘共闘委や全労協などは前年と同じ3万5000円賃上げ要求で闘った。春闘のヤマ場は前年同様全体として早まり、3月下旬にJCなど主要金属産業に前年を下回る同答が示された。賃上げ妥結決結果は平均1万1077円( 3.89% ) となり、賃上げ率が3% 台に落ちたのは87春闘以来6年ぶりのことであった。
 国労は、
①3万5000円賃上げ獲得、
②人間らしく働くことのできる労働条件の改善、
③不当労働行為根絶、地労委命令の履行などを要求し、JR各社の動向を見つつ私鉄絵連の闘いと並行し3月25日に全1日のストライキを設定して93春闘に取り組んだ。
私鉄絵連は3月25日の回答( 賃上げ4.74%) でストを中止したが、国労は全国統一の入時間時限ストを決行した。スト参加者は3400人を越えた。JR各社の回答は、減益と世間相場を理由に前年より○.6%?1.15%低くなり、本州3社と貨物以外の全国各社が同率( 4.51% ) 、貨物会社と三島会社が格差のある回答で、JR全社の平均で1万3579円( 4.37% ) となった。国労の新賃金交渉は、4月1日までに妥結した。
 7月25日からの第58回定期全国大会で国労は、93春闘を振り返って「JR各社間の賃金格差是正解消にむけた取り組み方について検討を深めねばならない」とするとともに、「『労使共同宣言』を結んでいる組合が多数を占めている状況を変え、変貌した春闘を再構築していくことが必要である」と反省した。
 94春闘 景気回復のきざしすらうかがえぬなかで、自民党をとりまく東京佐川急便事件・金丸不正蓄財事件・ゼネコン汚職など政治腐敗問題が続出し、自民党内羽出・小沢グループの造反もあって宮沢内閣不信任案が可決され、1993年7月の総選挙は自民党の大幅な過半数割れと社会党の惨敗をもたらした。その結果、社会党、公明党、自民党を出た羽田・小沢グループの新生堂、日本新党、新党さきがけ、民社党、社民連の7党と参議院の民主改革連合の一会派を加えた連立内閣( 細川首相) が発足し、自民党は1955年結党いらいはじめて野党になった。
 94春闘にのぞむ日経連をはじめとする経営側は「賃上げゼロ」の姿勢であったが、連合は前年より低い5~6%賃上げ要求を中心に産別自決を強調し、全労連は3万5000円以上の賃上げ、全労協3万5000円以上・10%以上の賃上げ要求をかかげた。
国労は、JR労使紛争の全面解決を求めるとともに12万5000円の賃上げを要求し、全国統一闘争として3月24~25日にストライキを配置した。鉄鋼大手1.56%、私鉄大手3.94% 、NTT3.36% などの回答が出されるなかで国労は、3.24~25統一ストには全国で乗務員を含む6860人がストライキに突入した。貨物会社は、ストライキを背景にした団交には応じないという態度であった。3月25日に本州三社の回答が示され、その後は28日から31日にかけて三島、貨物、その他にそれぞれ回答が出された。内容は、この年もまた本州三社の3.77%から北海道および貨物の2.98%という格差回答で、全国加重平均3.63% ( 1万1634円) であった。
 この年7月29日から開いた第59回定期全国大会で国労は、94春闘をふりかえりながら総括し、①国民春闘再構築へと高揚させることができなかった、②三島および貨物会社の収入滅・「赤字決算」宣伝による低額抑え込み. 格差攻撃に対する反撃が不十分だった、と反省するとともに、①ストライキを通じた職場の団結づくりが前進し、組織拡大を勝ち取ることができたが、まだまだ点であり線から面への大量復帰への条件づくりが日常不断に求められている、②要求提出から交渉そして回答指定日と戦術配置・妥結等々単一体としての組織性の発揮が求められ、将来、JR各社との統一交渉を目指して工夫した取り組みをすすめることも大切である、などと課題を提起した。
 
続く
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国鉄労働組合史 263

2011-08-19 10:00:00 | 国鉄労働組合史
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第三節 賃金・労働条件・安全確保をめぐる取り組み
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1990年4月、国鉄清算事業団に〝収容?されていた労働者がふたたび解雇され、国労の「分割・民営化」反対闘争は新たな段階に入った。それは再度解雇された労働者の生活と解雇反対の闘いを支えると同時に、みずからの生活と労働条件改善の闘いに取り組み、さらに9○年代に入ってさらに増えつづけるJR事故の実態を告発しながら、公共交通としての安全確保の闘いにも大きな比重を置いて闘われた。安全確保への取り組みは、利用者への当然のサービスとしてだけでなく、交通運輸産業に働く労働者自身の生命と健康を守る闘いでもあった。

一 1990年代国民春闘再構築の方向

 90年代国民春闘の方向

 国労は、1990年8月2日からの第55回定期全国大会( 東京・品川総合区民会館) において90春闘の経過と総括をふまえて、91国民春闘を闘う方針を提起・確立したが、それはJR 各社がその発足から3年を経過し、株式の上場を視野に人れながらそれぞれに独自色を示しはじめたなかで、91春闘を「労働者と国民の期待に応えるものとしなければならない」という次のような方針であった。それはまた、国民春闘路線の強化を目指す国労の90年代春闘の方向でもあった。
 ①JR各社は株式上場・経営改善を目標にそれぞれの会社の独自性を表面化させつつある。そのもとで、各社間にアンバランスが生じてきているが、同じ労働をし、全胆不ットで列車が運行されている同慶業のなかで賃金格差の拡大に反対して闘うことが重要となっている。
 ②子会社化・関連事業の拡大、出向の増加等の情勢のもとで、産業別最低賃金制の確立は労働者の生活を守るために重要となっている‘のために、企業別の賃金、つまり企業主義を克服し、関連労働者を含む賃金闘争の構築が重要となっている。
 ③労働時間の事実上の延長が時短とは逆に全国的に広がっている。JRのなかでも休日労働や祝日の買い上げ、年休の失効など要員問題が深刻となっている。このような職場の実態から、年休等の権利の確保、タダ働きの禁止、労働時間の短縮の要求は一段と切実になっている。91春闘のなかでは、時短. 労働条件の改善の闘いと賃上げ闘争を結合して闘う。
 ④各社の基本給表に相違が告、同一等級同一号俸において集が拡大してきている。大幅賃上げの獲得とともに配分においても全国統一要求・統一闘争によって拡大を阻止しなければならない。賃金問題検討委員会の検討を早め一賃金制度に関する全国の統一要求をつくりあげるために努力する。
 ⑤91春闘懇との連携を強め、国民春闘路線の強化に全力をあげる。消費税廃止、減税、不公平税制の日足下、年金、健康保険保障制度の改善という国民的要求と全目律撞貝制の実現をめざす壮大な全国統一闘争を構築するとともに、春闘懇をつうじて春闘共闘の取り組みを強化していく。
  全国の統一ストライキを成功させることも大切である。また、国民的大衆行動をくり返し組織することも重要である。地域春闘の前進のためにも積極的に努力することも大切である。

続く
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国鉄労働組合史 262

2011-08-18 10:00:00 | 国鉄労働組合史
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第五章 分割・民営体制の矛盾の表面化と国労運動

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第二節 「分割・民営化」政策の矛盾
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五 「分割・民営化」の諸弊害

 国鉄の「分割. 民営化」は・国内交通市場における国鉄の輸送独占が崩壊したもとで1970年代以降顕著になった国鉄のパフォーマンスの悪化すなわち経営非効率の発生、財政危機の深刻化、輸送サービスの低下( 頻繁な運賃値上げやサービス改善の立ち遅れなど) などを解消し、国の経営する鉄道事業を交通市場の現状に適合化することを目指したものであった。その際、その政策選択の基礎には、「分割. 民営化」を推進した臨時行政調査会や再建監理委員会関係者らの言説が示しているように、市場機能への絶対的ともいえる信頼があった。市場機能は、経済的技術的進歩、資源の効率的配分、サービス水準の向上や公正などをもたらすとみるのである。そこで、分割・民営化という手法が採用され、国鉄を市場対応的な経営組織に改変し、あわせてその経営組織、すなわちJR各社の事業経営への徹底した採算原理の導入がはかられたのである。
 採算原理に立脚し、収益極大化を重視するJR各社は、確かに経営効率の確保や大量の需要が存在する都市間や大都市圏輸送の領域では供給サービスの改善という点で、国鉄時代と比べて一定の成果をあげた。しかし他方で、JR各社による分立・民営体制は大きな弊害を生んでいる。
 第一は、競争的交通市場の下では、鉄道事業の採算性は輸送の大量性、換言すれば需要の規模に依存する。このため、採算分岐点以下の需要しかないローカル圏の鉄道輸送からJRが撤退をみせはじめており、住民の生活の足の確保ができなくなるという点で深刻な問題を発生させている。また、「分割. 民営化」の過程で、国鉄の多数の赤字ローカル線( 地方交通線) が分離され、そのうちの多くはいわゆる「第三セクタi 鉄道」として再出発した。これらの第三セクター鉄道は、いずれも厳しい経営状態のもとにあり、当初5年間の政府助成の期限が終了した現在、その存続も困難なものになりつつある。
 第二に、JRの収益性重視の経営は、単にローカル圏においてだけでなく需要が大量に存在する大都市圏においても弊害を生んでいる。日本の大都市圏輸送の最大の課題は通勤通学輸送の混雑解消であるが、JR各社は収益性・採算性の観点から混雑解消のためのインフラ投資に消極的である。社会的には必要とされる投資が、事業の収益性がネックになって、いいかえれば市場原理の過度の強調によって、進展しないという事態が生まれているのである。
 第三は、国鉄の分割によって、JR各社の営業はそれぞれのエリア内に限定されることになった。全国一社の国鉄時代には、政治的決定が優先されすぎ、多くの政治路線が建設されるという弊害があったにせよ、公共的な観点から全国レベルの鉄道整備が行われていたのに対し、「分割・民営化」後の分立体制の下では、JR各社は当然のことながら自社エリア内のことしか目を向けなくなった。しかも、採算性に疑問のある鉄道投資には二の足を踏むようになった。「分割・民営化」によって、わが国では全国的な、また国土開発、地域格差是正などの観点から鉄道の建設・整備をすすめる主体が存在しなくなってしまったのである。
 第四は、貨物部門の合理化ならびに分割による弊害である。日本の国内貨物輸送量のシェア( 1993年度) は、トンキロ・ベースでトラック51.5%、内航海運43.6% 、鉄道4.8%、トン・ベースでトラック90.5%、内航海運8.2%、鉄道1.2%となっており、現在、わが国ではトラック中心の輸送体制が確立している。しかし、トラック輸送の増大は、一方で排気ガスによる環境汚染、交通事故の多発、道路混雑による都市機能のマヒなど大きな弊害を発生させている。そこで、とくに環境問題に対応するために、幹線貨物輸送をトラックから大量輸送機関( 鉄道・海運) へ転換し、トラックとの協同一貫輸送をすすめるモーダルシフトの推進が運輸省などによって提唱されている。ところが、「分割・民営化」直前の国鉄の貨物輸送部門の大合理化によって日本の鉄道貨物輸送能力は大きく減退し、また「分割・民営化」で生まれたJR貨物も固有の線路施設を所有しておらず、独自のダイヤ設定ができないなど、鉄道は現状ではモーダルシフト推進のにない手にはなりえていない。今日、環境問題への対応は喫緊の極めて重要な地球的課題であるが、国鉄の「分割・民営化」は環境政策上も、大きなマイナスの結果をもたらしたといえる。

続く
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国鉄労働組合史 261

2011-08-17 10:00:00 | 国鉄労働組合史
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第五章 分割・民営体制の矛盾の表面化と国労運動

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第二節 「分割・民営化」政策の矛盾
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四 JRの株式上場と完全民営化の現段階

 政府の分割. 民営化政策の最終日標は、周知のようにJR7社の全株式を民間に売却し、私鉄のような純民間所有の鉄道会社をつくりだすこと、いわゆるJRの「完全民営化」にあった。JRの完全民営化は、市場競争適合的な鉄道会社をつくりだすと同時に、前項でみたように株式売却益を国鉄清算事業団の債務償還資金に充当するという二重の意義を与えられた施策であった。それでは、完全民営化計画はどのような進捗をみせているのであろうか。
 まず、JR発足後の経過のなかで三島会社については株式売却=上場が不可能であることが明白となった。すなわち、営業基盤が脆弱で、営業損失を出し続けており、しかも経営安定基金の運用収益という市況によって可変的な収入に依存している三島会社は上場できる経営体質にないことが明らかとなった。三島会社は現行の分割. 民営体制の枠組みに変更が加えられないとすれば、今後、半永久的に清算事業団に多数株を所有された特殊会社として存続していくことになろう。次に、JR貨物についても、現在の経営成績のままでは上場の条件を満たしておらず、その上場の時期もめどさえたっていない。したがって、同社についても引き続いて特殊会社として存続していく可能性が極めて高いといえる。
 こうして、JRの完全民営化計画は、政府の当初のもくろみが崩れて、7社全部ではなく、高収益をあげ、財務内{谷の点で上場の条件を充たしている本州三社だけを先行させる形となり、政府は1991年度から92年度にかけて本州三社を株式上場すべき準備作業に人った。そして、とりあえず91年度にJR東日本、つづいて92年度にJR東海とJR西日本を上場という方針をかためた。しかし、1991年度に入ってバブル経済の崩壊が進行し・そのため株式市場が大混乱に陥り、JR の株式売却は実行不可能となり、JR東日本の株式売却は93年度まで延期されることになった。JR東日本の株式上場株式売却は1993年度に実行された。国鉄清算事業団は保有していたJR東日本の400万株のうち250万株を売却し、1兆7億円の売却益を手にした。つづいて1995年春を目標にJR西呆が株式上場の準備に入ったが、95年1月に発生した阪神. 淡路大震災の影響によってJR西日本の決算内容が悪化したため、同社の株式上場は96年秋まで延期されることになった。なお、JR東海の株式上場はJR西日本のそれが終わってからのこととされている。
 1980年代の民営化政策によって、電電( NTTに移行) 、専売( JTに移行) 、国鉄の三公社が株式会社かされ・NTT・JTについてはその発行株式の3分の2、JRについては全株式が売却されることになってしたしかし、民営化企業の株式売却計画は、バブル経済の崩壊で暗礁に乗り上げている。これまでのところ、NTT株とJT株の3割強、JR東日本の6割強が売却えただけで、売却計画は中断状態にある。バブルを前提にしたJRの完全民営化計画は・その崩壊と三島会社ならびにJR貨物の経営不振でとん挫したと言わねばばならない。

続く
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国鉄労働組合史 260

2011-08-16 17:11:06 | 国鉄労働組合史
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第五章 分割・民営体制の矛盾の表面化と国労運動

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第二節 「分割・民営化」政策の矛盾
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三 国鉄清算事業団の財政破綻

 莫大な赤字を出していた国鉄が「分割. 民営化」によって黒字を計上するJR各社に変身した秘密は一先にみたとおり、「分割. 民営化」の際に講ぜられた政策的な諸措置にあった。一方、そうした政策的措置にともなって発生したツケを一手に引き受けさせられたのが国鉄清算事業団であった。すなわち、事業団はJR各社の経営を軌道に乗せるために、国鉄の長期債務等の大半( 全体の約7割にあたる25兆5000億円) と合理化によって国鉄から放梛された約2万1000人の労働者の処理を引き継がされたのである。この点で、事業団は分割・民営化政策の諸矛盾を集中的に表現する存在であるといってよい。
 事業団が抱え込んだ「分割・民営化」の二つの「負の遺産」のうち、ここでは債務処理の問題にしぼってその問題点を明らかにしておく。
 国鉄の「分割・民営化」にともなって発生した処理を必要とする長期債務等は、総額37兆1000億円であった。政府の当初の計画では、このうち、JR東日本、JR東海、JR西日本、JR貨物、通信会社、情報システム会社の6社で5兆9000億円を、また新幹線保有機構が5兆7000億円を、そして残りの25兆5000億円を清算事業団が引き継ぎ、おのおの処理をすすめる。
そして清算事業団は25兆5000億円の債務を、①国鉄から引き継いだ所有用地の売却で7兆7000億円、②新幹線保有機構の負担で2兆9000億円、③JR各社株などの保有株式等の売却で1兆2000億円、④そして残りの13兆8○○○億円を国民負担で処理するとされていた。しかし、これはあくまで処理計画のおおよその骨格にすぎないものであった。1988年1月の閣議決定で「本格的処理のために必要な『新たな財源. 措置』については、雇用対策、上地の処分等の見通しのおよそつくと考えられる段階で歳入. 歳出の全般的見直しとあわせて検討・決定する」とされているとおり、国民負担の形態や規模等その具体的処理方法は先送りされていた。
 清算事業団による債務償還は1987年度からスタートした。
しかし、償還が実際にはじまってみると、早くも当初計画の杜撰さがあらわになった。すなわち、事業団は大規模用地の売却がバブル期の政府の土地高騰対策として凍結措置を受けたことなどもあって大幅な収入不足に陥り、深刻な財政危機にみまわれることになった。そして、債務返済もすすまず、要処理債務額が承継時点よりも増大し、1990年度音には27兆1000億円にも膨張するという深刻な事態に立ちいたってしまった。そのため、政府は帝都高速度交通営団に対する事業団の出資持ち分の政府への一括譲渡と引き換えに、一般会計の負担で約1兆円の債務の圧縮をはかるなどの措置を講じた。さらに事業団も用地売却をすすめる一方で、1993年度には所有していたJR 東日本の株式を売却し、その売却益1兆759億円を事業団財政につぎ込むなどの措置をとった。しかし、1994年度首で発足時よりも5000億円も多い26兆円の債務を抱え込むなど、依然として深刻な事態を打開できずにいる。この26兆円強の債務償還のめどはまったくたっておらず、このままでは22兆8000億円とされた国民負択分も20兆円を超えてしまうおそれが強くなってきている。
 事業団は、すでに1993年度末までに所有用地の55% にあたる4426ヘクタールの用地売却を終えたが、それによる収入は3兆7628億円にすぎず、当初計画の7兆7000億円を大幅に下回っている。また、運輸省サイドが一時期待した事業団が保有するJR 各社株( JR7仕分の919万株) の高値売却による償還資金の調達も、バブルの崩壊で期待通りにはすすまないことが明らかになってきた。用地は売却しても、利子に食われるばかりで債務は減らず、清算事業団は晩年の国鉄のように莫大な債務負担にあえぎ、利子が利子を生む〝サラ金地獄〃に苦しめられているのである。
 分割・民営化政策の評価を行う場合、JR各社の経営収支だけを単独にみるのではなく、国鉄債務等の大半を引き継いだ清算事業団のそれと一体的にみることが必要である。事業団の債務処理が進展せず、その財政が改善されなければ分割・民営化政策に肯定的な評価を与えることはできない。1980年代後半の〝民活・バブル.という社会風潮のなかで、上地、株式の高値売却可能という幻想の上に組み立てられた清算事業団の債務処理計画は、バブルの崩壊とともに完全に行き詰まってしまっているのである。

続く
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国鉄労働組合史 259

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第五章 分割・民営体制の矛盾の表面化と国労運動

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第二節 「分割・民営化」政策の矛盾
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二 JR各社の経営・営業政策

国鉄からJRへの移行にともなって大きく変化したのは経営・営業政策であった。その第一の柱は、収益拡大である。すなわち、増収を最優先の目標にかかげた、輸送需要の確保・増大をはかるための積極的な経営・営業政策の展開である。大都市圏ならびに都市間輸送、およびコンテナ輸送を中心とした輸送力の増強や新型車両の投入、各種企画商品の発売による新規需要の開拓などがそのあらわれであった。また、旅行センターの拡充、旅行エージェントとの協調など営業活動の積極的展開、増収をねらった関連事業の著しい拡大も、JR移行後の大きな特徴である。国鉄時代には法的規制によって、関連事業の展開が制約されていたが、「分割・民営化」とともに実施された鉄道事業に対する政府規制の緩和にともない、事業範囲に対する法的制約が解除されたことから、JR各社はいっせいに関連事業の拡大、経営の多角化に乗り出しているのである。
 一方、収益拡大・増収政策とならんで推進されているのが、業務運営の効率化と経費の節減による経営効率化の推進である。なかでもとくに重点的に推進されているのが要員の合理化である。旅客6社について見てみると、各社発足時の1987年度首の18万7196人から95年度首には17万9210人へと実に8年間で約8○○○人もの削減が行われた。
 こうした収益拡大と効率化の追求というJRの経営・営業政策が端的にあらわれているのが、旅客輸送サービスの分野である。すなわち、莫大な交通需要があり、複数の交通企業が乱立する大都市圏や競争的交通機関が存在する都市間においては、乗客獲得が収益拡大につながるため、この間、乗客獲得のための車両の改良や駅の改良・美化、ダイヤの増発、そして極めて日本的であるが接客態度の改善といったサービス改善をJR各社はすすめてきた。莫大な赤字と債務の重圧の前に旧国鉄経営陣の多くは経営意欲を喪失し、このため晩年の国鉄は駅や車両の改良、フロント・サービスといった乗客サービスの改善を放置していただけに、JRになってからのこうした変化はいっそう際立ち、テレビなどメディアを媒体にした各社の大々的な宣伝とあいまって、とくに都市圏の利用者に対して〝JRになってサービスが良くなった?という印象を与えている。
 他方、大都市圏とは対照的に、利用者の数が少なく、JR各社にとって利益が見込めないローカル圏では、不採算路線の合理化でサービス水準は切り下げられるとともに、ローカル鉄道の放棄がすすんでいる珂えば、廃止路線について。言えば、「分割. 民営化」を前後して廃止された路線は実に83路線3157キロにも達している。路線が廃止された地域のなかで、かつて鉄道に対する依存度が高かったところでは、地域経済. 社会の衰退. 荒廃といった問題も生まれている。
 ところで、増収と経営効率化を柱とするJRの経営政策は、とくに本州3社については予想以上の「経営成果」を生み出した。
すなわち、この3社は「分割. 民営化」時に政府が策定した「経営見通し」を大きく上回る増益を実現しているのである。しかし、JR各社による徹底した増収と効率化の追求は、労働者の労働条件を大きく損なっており、労働者の健康破壊も広がっている。また、スピードアップやダイヤ最優先の運行、安全確保のための投資不足や短期間で極端な合理化がすすんだことなどが原因と推定される、国鉄時代には見られなかったような異常な事故も続発しており、安全な鉄道輸送の確保という点で大きな問題を生み出している。

続く
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国鉄労働組合史 258

2011-08-13 10:00:00 | 国鉄労働組合史
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第五章 分割・民営体制の矛盾の表面化と国労運動

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第二節 「分割・民営化」政策の矛盾
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一方、これら三社とは対照的なのがJR北海道、JR四国、JR九州のいわゆる三島会社であった。三島会社は、公表された決算書をみると表面的には黒字決算となってはいるものの、実際には発足いらい赤字経営を続けている。すなわち、この三社は毎年、営業損益のレベルで巨額の損失を出し続けており、赤字額は1994年度でみるとJR北海道が421億円、JR四国が133億円、そしてJR九州が260億円にも達している。
 そもそも旅客需要の少ないエリアを担当する三島会社の経営が「分割・民営化」で不安定化するであろうことは、「分割・民営化」前から広く指摘されていた。このため、政府は「分割・民営化」に際して、三島会社対策として特別に次の二つの措置を講じた。第一は、利子負担を避けるための国鉄債務の承継免除である。しかし、この措置だけでは三島会社の黒字化は困難であった。そのため、第二の措置として採用されたのが「経営安定基金制度であった。すなわち、総額1兆3000億円の基金を設け、その運用収益によって三島会社の赤字補填を行おうとしたのである。実際には赤字会社である三島会社が、決算上はどうにか黒字経営を維持できてこれたのは、この経営安定基金によるものであった。つまり、それによってもたらされた運用収益( 例えば1994年度の場合、JR北海道408億円、JR四国122億円、JR九州237億円)が営業損失を補填し、ようやく経営利益や当期利益のレベルで黒字が計上されてきたのである。
 しかし、最近になって、こうした政策的黒字化の仕組みもほころびをみせ始め、その破綻が明瞭になりつつある。すなわち、1994年度にはJR北海道の経常利益は1億6000万円にまで減少し、JR四国およびJR九州は発足以来はじめて両社とも5億円の経常損失を計上するにいたった。
 JR貨物の場合も事情は三島会社と同様である。同社も発足から1992年度まで一応は黒字を計上してきたが、それは同社に帰属した資産. 債務の圧縮記帳による金融費用や減価償却費の軽減、旅客会社に支払う線路使用料の政策的設定などの諸措置によるためであった。しかし、JR貨物も1993年度決算では38億円1994年度のそれでは82億円の経常損失を生じさせ、経営的困難にたちいたっている。
 このように、国鉄を大きく七つに解体. 再編成した「分割・民営化」は、発足した七つの事業体間に著しい格差構造を発生させた。換言すれば、一方で高収益をあげる三つの旅客鉄道会社を本州エリア内につくりだし一他方で経営基盤の脆弱な三島の三つの旅客会社とJR貨物をつくりだしたのが「分割・民営化」であったのである。
 北海道、四国、九州の三島は今、高速道路の猛烈な建設ラッシュのなかにあり、高速道路の延伸にともなって次々と長距離バス・サービスが開業されており、またマイカーの長距離利用も増大している。こうした状況にもかかわらず、国鉄時代に満足な投資が行われなかったために三島会社の鉄道施設は全般的に老朽化しており三島会社は高速道路時代に対応した列車のスピードアップ等のサービス改善を容易にははかれない現状にある。しかも運賃も高く、自動車との競争力の点で大きな難点を抱えている。このため、三島では住民の鉄道離れが今後一段とすすむことが予想される。JR各社が切り札としている関連事業についても、三島会社の場合は一当該エリアはもともと人口が少なくマーケットが小さいために起死回生の手段にはなりえないであろう。分割によって人為的につくりだされた三島の鉄道経営の見通しは、現行の枠組みのままでは暗いと言わざるをえず・本州三社と三島会社の経営格差はますます拡大していくものとおもわれる。

続く
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国鉄労働組合史 257

2011-08-12 10:00:00 | 国鉄労働組合史
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第五章 分割・民営体制の矛盾の表面化と国労運動

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第二節 「分割・民営化」政策の矛盾
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 1987( 昭和62) 年4月の国鉄の「分割・民営化」から10年日を迎えた。多くの問題点を残したまま強行された国鉄の「分割・民営化」は、今H にいたってもなお多くの未解決の課題をかかえており、「分割. 民営化」政策それ自体も多くの問題点を露呈しつつある。本節では、こうした「分割. 民営化」政策の諸矛盾. 諸問題を総括的に概観することにする。

一 JR各社の経営状況

 1987年の「分割・民営化」によって国鉄が解体され、新たに11の承継法人と清算業務を行う国鉄清算事業団( 以下、清算事業団または単に事業団という) が設立された。このうち、国鉄事業の主要部分を引き継いだのはJR北海道、JR東日本、JR東海、JR西日本、JR四国、JR九州、JR貨物のJR7社で、これらはいずれも清算箏業団がその全株式を所有する株式会社として発足した。
 JR7社のうちJR東日本、JR東海、JR西日本の本州三社は発足後、毎年多額の営業利益ならびに経常利益をあげ、大幅な黒字決算をつづけている。ちなみにこれら三社の1994年度の営業利益の総額は83212億円、また経常利益の総額は1579億円と巨額である。「国鉄改革でJR は黒字になった」あるいは「国鉄改革は成功であったL との一般に流布している評価も、これら三社の莫大な利益計上という事実にもとづくものである。
 それでは、この三社は一体なにゆえに黒字経営に転換することができたのであろうか。それは、すでに国鉄時代の「経営改善計画」( 1981- 85年度) のもとで「分割. 民営化」前から赤字ローカル線の分離や貨物部門の合理化(「59. 2ダイヤ改正」など) 、要員の削減などが実施され経営の効率化がすすんでいたこともあるが、最大の要因は発足後の各社の黒字経営を保証するために、「分割. 民営化」の際に以下のような政策的措置が施されたためである。
 第一は、簿価による国鉄からJR への資産の引き継ぎと、債務承継におけるJR各社の負担軽減である。実際、債務承継にあたって、この三社が承継した債務額は国鉄の長期債務等( 総額37兆2000億円) の約12% 相当の4兆2000億円にすぎなかった。この措置によって、国鉄赤字の主因であった莫大な債務にともなう利子負担をこの三社は大幅に免れることになった。第二は、新幹線保有機構( 後に鉄道整備基金に改組) を媒介にした、本州三社の新幹線鉄道の経営にかかわる収益調整である。新幹線保有機構のリース料の操作、すなわち東海道新幹線等に傾斜負担をかけることによって( 新幹線保有機構の廃止時には新幹線買い取り価格を操作することによって) 、JR東日本、JR東海、JR西日本の3者間の収益調整をはかったのである。第三は、職員削減の大合理化の実施である。1986年度首の国鉄職員27万7000人のうち、JR各社に採用された者は20万人余に過ぎない。わずか1年間で7万人を超える合理化が実施されたことになる
( ただしこの合理化数はJR各社全体の数値) 。これによって、大幅な人件費の節減がはかられたのである。

続く
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国鉄労働組合史 256

2011-08-11 10:00:00 | 国鉄労働組合史
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第五章 分割・民営体制の矛盾の表面化と国労運動

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第一節 「バブル経済」の崩壊と連立政権の時代
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三 ポスト「冷戦」と世界新秩序

 1989年11月の「ベルリンの壁」崩壊は、激動する東欧諸国の帰趨を象徴していた。つづいて12月、ルーマニアにおける武器をとった市民のチャウシェスク政権との戦いとその勝利は、テレビを通じて日本国民にも強い印象を与えた。翌90年3月、東ドイツで初めての自由選挙が行われ、10月2日、西ドイツが東側を吸収する形で統一ドイツが生まれた。
 一方、ペレストロイカ( 改革) とグラスノスチ( 情報公開) をすすめるゴルバチョフのソ連は、共産党の権威が薄まりゆくなかで、90年3月、連邦人民代議員大会が大統領制導入と憲法改正( 党の指導的役割を規定した第6条廃止) を採択し、ゴルバチョフを大統領に選出した。この時期、ソ連では連邦を構成する共和国の独立宣言や主権宣言がつづき、91年6月にロシア共和国は初の大統領選挙でエリツィン大統領を選出していたが、8月19日のソ連保守派( 共産党) によるクーデタはエリツィンのロシア政府軍の抵抗と反撃にあって失敗した。同月24日、ゴルバチョフがソ連共産党書記長を辞任して党中央委員会を解散した。さらに9月、連邦人民代議員大会が10共和国大統領とゴルバチョフからなる国家評議会に全権を委任し、みずからは事実上解散することを決議した。そして12月に入るとロシア、ウクライナ、ベラルーシの三国首脳が独立国家共同体( CIS ) 創設文書に調印するとともに、ソ連邦の消滅を宣言し( 8日) 、ついでこれら三国も加わった11共和国首脳会議で独立国家共同体協定の調印が行われた( 21日) 。25日、ゴルバチョフ・ソ連大統領は辞任を発表し、ここにいたってソヴィエト連邦は名実ともに解体した。ソ連解体後は、CIS最大のロシア連邦が国連安保理の常任理事国となり、旧ソ連の継承国として国際的にも認知された。
 ソ連が解体し、米ソの2大国を機軸とした東西対立の「冷戦」は過去のものとなり、世界は平和の時代がくるかに思えた。しかし、冷戦下に潜在化していた民族間紛争が各地で噴出してきた。旧ユーゴースラヴィアでは、92年3月に行われたボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国の独立を問う国民投票で賛成票が99% を超えていたものの、この国ではセルビア系住民、クロアチア系住民、ムスリム( イスラム教徒) 系住民の間で激しい戦闘がつづき、現在にいたっている。東アフリカのソマリアでは、91年1月バーレ独裁政権が倒れたあと部族間対立による内戦で無政府状態が生まれ、大干魅もあって2年間で30万人もの死者が出た。長年にわたったカンボジア内戦は、91年6月に本格的停戦の合意がなされたものの国内の緊張はつづいていた。また、湾岸戦争の終結( 92年2月) を機にアラブ諸国とイスラエルとの中東和平会議がはじまり、パレスチナ、ゴラン高原などイスラエル占領地域をめぐる交渉は明るさを見せはじめたが、旧ソ連のCIS 諸国間、またロシア連邦をはじめCIS諸国内でも民族対立が激化し、各地で少数民族の独立要求をめぐってしばしば武力衝突が起きている。
 こうした各地の紛争に、国連がこれまでになく積極的に介入したことが特徴的であった。湾岸戦争での多国籍革派遣、旧ユーゴスラヴィアヘの国連防護軍の派遣、国連カンボジア暫定統治機構の設置、ソマリアヘの多国籍軍の派遣など、この時期( 89年- 92年) に国連が行った平和維持活動( PKO ) は12地域におよび、またその規模も従来にくらべて大規模であった。このような国連の新たな積極的活動のなかで、日本の「国際貢献」、さらには日本の自衛隊海外派遣問題がクローズアップされた。
 他方、1989年以降の世界経済は景気後退の局面に入っており、1991年は前年を下回るマイナス成長となった。バブル経済崩壊後の日本をはじめドイツの景気も大きく落ち込み、先進諸国では同時不況の様相を呈していた。そうしたなかで、東アジア諸国( フィリピンを除き) の経済は総じて着実な成長をとげ、いわゆるアジアNIES新興工業経済地域) 諸国の実質成長率は5%前後であった。市場経済の導入など大胆な改革. 開放政策をすすめている中国の92年の成長率は、2桁に達した。
 1989年にオーストラリアの提唱で始まっていたアジア太平洋経済協力会議( APEC ) は、93年からはアメリカの提案によりこれまでの閣僚レベルの会議が非公式の首脳会議となり( サミット化) 、常設の貿易投資委員会を設置して域内の経済協力を強化することが確認された。さらに94年には、アメリカ、カナダ、メキシコ三国が関税の撤廃など相互市場開放を行うという北アメリカ自由貿易協定( NAFTA ) が結ばれ、世界最大の自由貿易圏が発足した。また、EC加盟12ヵ国によるヨー日ッパ政治経済の統合を目指すマーストリヒト条約( 欧州連合条約) の批准は難航していたが、93年11月にこの条約も発効し、EU ( 欧州連合)が発足した。この世界日取大の単一市場は、近い将来、共通中央銀行と単一通貨をもつことが決まっている。
 こうして冷戦後の新しい世界秩序は、一方に貧困と宗教対立と民族対立に彩られた武力紛争が絶えないなか、アジア諸国の経済成長、北アメリカ自由貿易経済圏、ヨーロッパ単一市場という三極の地域経済圏を形成する傾向をみせている。しかし、多国間交渉によるさらなる世界貿易の拡大を目的とした86年9月以来の関税貿易一般協定( GATT ) 改定交渉( ウルグアイ・ラウンド交渉)がようやく妥結にいたり、94年4月、世界貿易機関( WTO ) 設立協定などが調印された。この間、アメリカ・EC 間の農業問題、日本のコメ市場開放問題など各国間の利害対立は大きかったが、1995年1月からGATTを引き継いでWTO が発足した。それに対応してわが国では、94年12月にコメ輸入部分自由化をもたらす食管法にかわる新食糧法など、WTO設立協定関連法が制定された。
 
続く
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国鉄労働組合史 256

2011-08-10 10:00:00 | 国鉄労働組合史
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第五章 分割・民営体制の矛盾の表面化と国労運動

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第一節 「バブル経済」の崩壊と連立政権の時代
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二 「バブル経済」の崩壊と長期不況

 1987( 昭和62) 年2月以来、公定歩合が史上日取低水準( 2・5% ) に維持されたまま日本経済は地価高騰と株古同値のバブル景気として膨れ上がり、普通のサラリーマンをはじめ庶民の土地購入が絶望的に困難となっただけでなく、国鉄債務償還のための旧国鉄用地売却が不可能となるほどに地価が高騰し、また企業の工場用地拡張や都市再開発に支障をきたすようになってきて、政府はやっと89( 平成1) 年5月から公定歩合引き上げにふみきった。しかし、バブル鎮静化には効なく、以降1年回ヵ月の問に5回もつづけて引き上げられ、90年8月には6%になった。
この年3月に大蔵省は、銀行の不動産向け融資を制限する「総量規制」を通達した。この間、89年12月29日の平均株価3万8915円をピークに、翌90年1月から株価が暴落しはじめた・さらに半年遅れて、東京や大阪など大都市の地価も下がりはじめた。
 90年に入って下がりはじめた株価は、途中に短期間の回復もあったが91年、92年と異常な下落をつづけた。株価の「底」とみられた92年8月12日には、平均株価は1万4309円まで下がった。これは最高値の12分の1に近かった。また、下がりはじめた地価は、最盛期の半値以下になるところもあった。しかし・土地もマンションも売れなくなり、バブル時代に着工したビルは竣工したものの借り手はなく、マンションの叩き売りがみられるようになった。90年3月の「総量規制」から外されていたノンバンク( 住宅金融専門会社など) は、銀行から借り入れた原資を不動産会社や投機筋に巨額の融資をしていたが、大量の不良債権をかかえて経営にいきづまった。ノンバンクに資金を提供していた銀行なども巨額の不良債権をかかえこみ、経営破綻におちいる銀行や信用組合が現れた。JR東日木の株上場は、そうしたなかの93年10月のことであった。
 1991( 平成王) 年4月以降、日本経済はいわば「平成不況」に入り、この年の7月から公定歩合は幾度も引き下げられ、史上最低の1・75%( 93年9月) まで下げられても、また政府の事業規模15兆2500億円の総合経済対策、そのなかの消費刺激を口約とした6兆円規模の減税策( 94年2月) 、さらには公共料金の凍結策( 94年5月) などによる景気浮揚策も景気の回復にはつながらず、平成不況は1990年代半ばにいたるもなお不況のまま推移し( 長期不況) 、公定歩合はさらに0・5% にまで下げられた( 95年9月) 。91年以降、失業者は増えつづけ、有効求人倍率も92年10月に1倍を割ってからはさらに下がり、また完全失業率も93年末に2・9% を記録したまま回復せず、94年3月には失業者はついに208万人に達し、同年7月には失業率も3%を超え、95年年末には失業者211万人、失業率3・4%にいたった。93年春の新規採用者内定取り消しが社会問題化し、産業界に「雇用調整」とか「リストラ」という言葉がはやったが、労働者にとってそれらは配転・出向・解雇の代名詞にほかならなかった。
 政府のたびたびの景気浮揚策にもかかわらず景気回復への足どりは聞こえず、その問、93年からまたも急速な円高がすすみ、この年の初め1ドル125円台だった円相場は94年6月に100円を突破し、95年4月には1時的ながら8○円さえ割り込んだ。その背景には、1980年代末から90年にかけていくらか減少傾向にあったアメリカの経常赤字と日本の黒字がアメリカの景気回復にともないふたたび急増し、またメキシコ・ペソの暴落( 94年末) を契機とする国際通貨不安があった。このような急速な円高は、企業の生産拠点の海外移転や部品の海外からの購入を増大させ、日本産業の空洞化があらためて問題となってきた。
 
続く
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国鉄労働組合史 255

2011-08-09 10:00:00 | 国鉄労働組合史
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第五章 分割・民営体制の矛盾の表面化と国労運動

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第一節 「バブル経済」の崩壊と連立政権の時代
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 1993年8月5日、国会は細川日本新党代表を首相に指名し、衆議院議長には土井元社会党委員長を選出した。非自民連立内閣の提出した小選挙区制導入法案は、結局施行期日を削除して成立したあと改正するなど難航したが、この間、社会党では先の総選挙の責任をとって辞任した出花委員長にかわって村山委員長が就任していた( 9月25日) 。また、細川首相は、翌94年2月2日未明に突然記者会見を行って現行消費税( 3%) に代わる国民福祉税( 7%) 導入を表明し、社会党と新党さきがけに反対されて2日後には撤回したり、さらにみずからの佐川魚便疑惑、政治資金運用不正などを追及されて辞意を表明するにいたった( 4月8日) 。
 細川首相辞意表明以後、自民党渡辺美智雄元副総理が新生党と急接近し、新党さきがけが連立を離脱して閣外協力を決定し、また日本新党や自民党から一部代議士が離党して新党を結成するなど政局が混乱するなかで、連立与党内で基本政策の合、意がなり、4月25日、国会は羽田新生堂党首を首相に指名した。ところがその直後・新生堂、日本新党、民社党などによる新会派「改新」が結成され、そのことをまったく知らされていなかった社会党は連立から離脱した。その結果、4月28日に発足した羽田孜内閣は衆参両院で小数与党となり・94年度予算は社会党と新党さきがけの閣外協力によってようやく成立させたものの、自民党から内閣不信任案が提出され、また社会党との政権協議も決裂して2ヵ月余りで総辞職に追い込まれた( 6月25日) 。さて、すでに一年近く政権から離れていた自民党は、この時点で政権復帰を最優先し、社会党と新党さきがけが合意した政権構想に賛成し、自社党首会談をへて村山社会党委員長を首班に推すことを表明した。6月29日の首相指名の国会で、旧連立与党は直前に自民党を離党した海部元首相を擁立し、また社会党内に?造反議員?もあって決戦投票となったが、けっきょく村山社会党委員長が首相に指名された。
 1994年6月20日、自民党・社会党・新党さきがけ王党連立の村山富市内閣が発足した。社会党首班内閣は1947年6月の片山哲内閣以来47年ぶりであった。村山首相は7月7日からのナポリ・サミットに出席したあと、同月18日から始まった臨時国会で野党の代表質問に答える形で「自衛隊は憲法の認めるものと認識する」と答弁し、また日米安保体制を「堅持」すること、日の丸と君が代が「国旗、国歌」であるとの認識を尊重することを表明した。これは社会党の伝統的基本政策を大きく転換させる内容であったが、28日の社会党中央執行委員会は、これらの政策転換を盛り込んだ「当面する政局に臨むわが党の基本姿勢」案を決め、9月3日に開催された社会党臨時大会で激論のすえ決定した。
 村山内閣は、国会における安定多数を背景に、細川・羽田両政権が残してきた重要法案を〝一掃〃した。小選挙区制区割り法案、年金改正法案( 年金支給開始年齢65歳へ繰り延べ) 、税制改革関連法案( 消費税率5%へ) 、自衛隊法改正案( 邦人救出緊急時の自衛隊機派遣) 、新食糧法などWTO設立関連法案( コメ輸入部分開放など) 、そして長年懸案となっていた被爆者援護法案などが成立した( 以上94年12月まで) 。また、村山連立政権誕生の過程で新たな政界再編の動きがはじまり、94年12月10日には野党の新生堂・公明党・日本新党・民社党など9党派が合流して衆参両院214議員参加の「新進党」( 党首は海部元首相) が結成された。
 他方、長引く平成不況のなかで、破綻した銀行や信用組合への公的資金導入による救済措置、そして住宅全融専門会社の巨額不良債権処理への政府による6850億にのぼる予算処置問題は、96年度予算案をめぐって政治問題化し、政界は緊迫した。1996年新年早々、村山首相が辞意を表明し、連立与党内では次期総理を自民党から出すことが合意され、96年1月11日、橋本能太郎内閣が発足した。
 
続く
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国鉄労働組合史 254

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第五章 分割・民営体制の矛盾の表面化と国労運動

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第一節 「バブル経済」の崩壊と連立政権の時代
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 1991年春以降、日本経済はバブル経済の崩壊により記録的な長期不況( 平成不況、複合不況) におちいった。実質GNP成長率でみると、91年回・3%、92年1・3%、93年マイナス○・2%、94年○・4%と落ち込み、民間設備投資も92年以降は毎年前年を下回った。その問、企業の「雇用調整」がすすんで失業率は年々上昇し、95年の完全失業者は211万人、失業率は3・4% になった。春闘における賃上げは1991年以降、額・率ともに前年を下回り、労働時間短縮の要求も実際にはあまり前進しなかった。同時に、ほんとうの「費かさ」があらためて固われつづけた。
 1995年1月17日未明の阪神・淡路大震災は、日本の?安全神話〃を吹き飛ばした。神戸市とその周辺都市は瓦礫と焦土の街と化し、JRや私鉄の在米鉄道だけでなく新幹線の鉄路も高速道路も崩れ落ち、港湾も使用不能となった。安全といわれた地下鉄も破壊された。死者は5500人を超え、1年後の96年春になっても震災避難民はなお数万人を数えた。つづいて95年3月20日の白昼に起きた東京ど真中の地下鉄サリン事件と、その後明らかになってきた坂本弁護士家族拉致事件、松本サリン事件などオウム真理教への摘発とその裁判は、その内実の異様な不気味さと日本社会の不安定さを国民に思い知らせた。

一 政界再編と連立政権の時代

 1991( 平成王) 年11月5日に発足した宮沢喜一内閣は、国連平和維持活動( PKO ) 協力法を成立させてカンボジアに自衛隊を派遣し、92年7月26日の参議院選挙で前回の失地回復に成功したものの、この参院選直後に金丸自民党副総裁の佐川魚便事件関ケが明らかになり、同年11月には{呂沢支持に回っていた自民党最大派閥の竹下派が分裂した。自衛隊海外派兵問題、政治政華( 小選挙区制導入) 問題、証券・金融不詳事件、東京佐川魚便事件、金丸不正蓄財事件、宮城県等ゼネコン朽職事件等々、長引く不況のさなかにあって政界は紛糾を重ね、にわかに流動化し、93年6月18日、野党提出の内閣不信任案が可決された。宮沢首相は国会を解散した。
 他方、92年5月22日、細川前熊本県知事が「責任ある変革」をかかげて結成した保守系新党「日本新党」は現職国会議員は一人もなく、結党直後の7月参議院選挙で4人を当選させた。翌93年6月の都議会議員選挙でも日本新党は2議席から20議席に大躍進し、つづく7月の総選挙では新党ブームにのって一挙に35議席を獲得した。
 この総選挙のきっかけとなった宮沢内閣不信任案可決を機に、6月21日、武村正義議員ら10人が自民党を離党して「新党さきがけ」を結成し、さらに先に竹下派から分裂していた羽田・小沢グループは宮沢内閣不信任案に賛成し、6月23日、自民党を離党した両院議員44人で「新生堂」を結成した。そして7月の総選挙では、新党さきがけが10人から22人に、新生党が36人から55人にそれぞれ議席を増やしたが、自民党は1312人しか当選させることができず、過半数にはとどかなかった。また、この1月に党首が田辺誠委員長から出花貞夫委員長に代わっていた社会党は、前回当選者136人のほぼ半分の70議席しか獲得できず惨敗した。とくに首都東京で当選したのは出花委員長1人だけであった。
 この時点で政局のキャスティングボートを握っていた日本新党細川代表と新党さきがけ武村代表が、小選挙区比例代表並立制導入など基本政策をかかげて非自民政権への参加を決めたところから、7月29日、社会党. 新生党. 公明党. 民社党. 社民連. 日本新党. 新党さきがけ・民主改革連合( 参議院) の各党首が会談し、細川日本新党代表を統一首相候補に決めた。また、この党首会談では、年内の政治改革実現などの基本政策を盛り込んだ連立政権樹立合意{事項や入党派覚書などに調印した。こうして1955( 昭和30) 年以来38年間つづいた自民党政権は幕を下ろすことになった。 
 
続く
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