国鉄があった時代blog版 鉄道ジャーナリスト加藤好啓

 国鉄当時を知る方に是非思い出話など教えていただければと思っています。
 国会審議議事録を掲載中です。

国鉄労働組合史 253

2011-08-07 10:00:00 | 国鉄労働組合史
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第四章 JR体制への移行と国労の闘い

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第八節 労働戦線再編と全労協の結成
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二 全労協の結成

 1989年、民間先行の形で始まった労働戦線再編統一の流れが大団円の場面を迎え、40年近くわが国労働運動の主流を歩んだ総評が解散し、民間・官公労働者を結集したわが国最大のナショナルセンター連合が発足する秋をむかえた。また、こうした全民労協↓民間「連合」↓連合という流れを右翼的再編と批判し、〈たたかううナショナルセンター〉を旗印として統一労組懇↓全労連へとすすんだ流れも、同じ秋をむかえた。こうした流れが否定し難くなっていた89年の9月2日からの第54回定期全国大会で国労は、これまでも明確に表明してきた「連合不参加」の方針を再確認するとともに、2年前の第52回定期全国大会で提起した「連合に行かない、行けないすべての労働組合の連絡会」の結成に踏み出した。
 すでに総評が連合への解散-合流を打ち出した1988年1月に、太田・岩井・市川氏ら総評三顧問などの労研センターが労働組合の全国的協議会の結成を呼びかけていたが、総評や地県評・地区労運動が築いてきた戦後労働運動の良き財産を引き継ぎ発展させようという運動がすすむなかで「地県評連絡会」が生まれ、やがて連合路線に反対し、闘う労働組合の連絡共闘組織としての「全労協」構想が提起された。そして、これをうけた「全労協結成をめざす準備懇談会」をへて89年9月9日、全労協(全国労働組合連絡協議会)の結成をめざす準備会が開かれ、国労の全労協への正式参加決定をふまえて発足することになった。
 第54回定期全国大会で国労は、これまでの総評解散←連合発足への経過を振り返ったうえで、「われわれのめざす真の全的統一は実現せず、労働戦線の分断と再編が進行するものと判断せざるを得ない」とし、また〈たたかうナショナルセンター〉については国労の今日までの経緯と現状から加入することは困難であるとし、次のように全労協への参加を決定した。
  「われわれは全面解決要求を掲げ、中労委における全面一括勝 利解決をめざす闘いに総力を結集しなければならず、幅と厚み をもった支援共闘態勢の確立のうえからも多くの共闘組織との 連携が極めて重要となる。このため、全労協に結集する労働組 合とはもとより、すべての労働組合、すべての共闘組織との共 闘を追求しなければならない。
  こうした立場から、われわれは全労協結成に参加しつつ、幅 広い共闘の実現と闘う労働組合の総結集による労戦統一をめざ す取り組みに全力をあげる。」
 1989年12月9日、全労協結成大会(東城会館)が開かれたが、その構成は連合に反対しながら全労連にも参加しない組合が中心となり、組織の性格は「まともな労働組合が共通の要求と課題で結集し、すべての労働組合の多面的・重層的な共闘を拡大するための連絡・共闘組織」と規定され、連合や全労連との二重加盟を認めた。参加組織は、国労をはじめ都労連、東水労、全国一般全労協準備会、京都総評、JMIUなど131組織、組織人員約50万人であった。
 決定した活動方針のなかで国鉄闘争に関しては、全労協の「当面する最大の闘争課題は、JRへの採用を拒否され国鉄清算事業団に押し込められている『国鉄労働者』の権利と雇用を確保すること」、そして「JR職場における非人間的な不当労働行為をすみやかにやめさせる闘い」だとした。
 
続く
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国鉄労働組合史 252

2011-08-06 10:00:00 | 国鉄労働組合史
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第四章 JR体制への移行と国労の闘い

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第八節 労働戦線再編と全労協の結成
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一 連合の発足と国労の対応

 交運労協の結成と国労の参加

 1980年代の労働戦線再編過程の中で全民労協が「連合」組織への改組をすすめていた時期、交通運輸産業の労働組合が既存のナショナルセンターの枠を越えて?大同団結?しようという動きが急浮上してきた。
 国労はかねてから、国内における陸海空の大産業別共闘組織の必要性を提唱していたが、具体的には陸海空交通運輸労働者の「ゆるやかな結集体」をめざす動きが、1983年にITF(国際運輸労連)加盟の組合を中心に懇談会という形ではじまり、数回の会合がもたれたが、その後中断していた。ところが、87年11月には全民労協が連合体(「連合」)に移行することが決まり、その後は「連合」の交通運輸部会が予測されることから陸海空すべての結集は困難となるので、「連合」発足前に交運労協(全日本交通運輸産業労働組合協議会)の結成が必要であるとして、私鉄総連、都市交、運輸労連、海員組合、交通労連の5組合が世話人となり、その準備がすすめられてきた。その過程で、交運労協結成問題は全交運(全日本交通運輸労働組合協議会)の将来に深くかかわるものとして、全交運は単産代表者会議と拡大幹事会で討議し、①統一対応、②選別排除、などの意思統一をしてきた。
 さて、87年5月26日に交運労協結成準備委員会が発足し、そこでITF加盟組合と全民労協加盟組合、そして全港湾に参加の呼びかけがあった。国労はITF加盟組合として呼びかけられたが、「発足の趣旨」によると国際自由労連と全民労協への志向が強く出されており、大産業別(全的統一)を目的とするにはふさわしくないものであったこと、また全交運加盟組合のすべてに呼びかけられたものではなかったという点から、国労は当初参加を見合わせた。国労は、全港湾、運輸一般、全運輸の三組合と連携して交運労協参加に障害となる問題について世話人組合や全交運と協議を重ねていたが、「発足の趣旨」(結成趣意書)や会則に不十分ながら一定の修正が行われ、とくに全民労協=「連合」とは一線を画し独立した大産別であることが再確認された。
 その年9月2日からの第51回定期全国大会で国労は、交運労協結成への経過を整理したうえで、「産別共闘のあり方と全交運の運動を継承・発展させる立場からの討議も不可欠」として職場討議に付することを決め、11月29日の第150回中央委員会で「まだ多くの問題点を残してはいるが『交運労協』は陸海空に働く交通運輸労働者の全的結集体となり得る可能性をもっている」として、これまでの取り組みの経過を含め職場討議を集約して交運労協に対する国労の方針を確認することにした。
 その間、交運労協の結成総会が10月8日に行われ発足したが、翌88年3月6日の第151回中央委員会で国労は、職場討議の経過を大要①さまざまな課題での中央・地方の共闘を強化し、とくに私鉄との共闘を重視する、②地域における共闘を強化・発展させていく立場から交運労協問題に対応する、③交運労協加入に際し、総評解体を許さず、総評運動の階級的な伝統と歴史を承継・発展させる運動の取り組みを行う、と集約し、中央委員会討論では修正案が出され、また発言者すべてがこの問題に触れるという論議となったが、「連合の産別版とならぬよう努力する」「この努力が生かされない場合は脱退する」などの書記長集約をうけて、交運労協への加盟を決定した。
 他方、交運労協の発足を見とどけた全交運は87年12月8日に解散大会を開き、1970年代前半に交通ストで主役を演じるなどした30年にわたる歴史に幕を閉じた。
 
続く
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国鉄労働組合史 251

2011-08-05 10:00:00 | 国鉄労働組合史
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第四章 JR体制への移行と国労の闘い

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第八節 労働戦線再編と全労協の結成
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一 連合の発足と国労の対応

 80年代労線統一問題と国労の方針

続き

 ① 国労は労働戦線の再編といえる「連合」には加盟しない。
 ② 総評・県地評・地区労運動を継承発展させるため、闘う労働組合との連携・共同行動など積極的に活動する。
 ③ 総評の労戦統一対策委員会等では、全的統一実現のために積極的に発言などする。
 ④ 地県評大会などでの地方の対応は統一して行う。
 さて、「連合」発足後に開かれた88年2月の第78回臨時大会で総評は、「全的統一の目標を1989年とする」という方向を確認し、同時に総評解散の方向を打ちだした。そこで、88春闘後の6月4日に開いた第152回中央委員会で国労は、総評が昨年の総評大会集約とは異なる方向に進んでいることを指摘したうえで、「国労は、総評労働運動を継承・発展させるため、全ての労働者・労働組合が資本と闘うために結集し、団結する母体を具体的にめざしていく」とした。そして、その年7月20日から開いた第52回定期全国大会(九段会館)では、この中央委員会決定の方針を再確認するとともに、次のような今後の方向を決めた。
 ① 労働戦線の分裂再編といえる「連合」には、参加しない。
 ② 総評運動を継承し、全ての労働者の闘う統一を追求するため、総評の解散に反対する。
 ③ 地県評・地区労運動を継承・発展させ、これらを残す運動に全力をあげて取り組む。
 ④ 第152回中央委員会で確認した「闘う労働戦線の統一を実現する」立場からの課題と要求にもとづき、中央・地方で共同行動を積極的に展開する。
 ⑤ 地県評大会でのエリア本部・地方本部の対応は、国労として統一して行う。
 1989年9月21日から開かれた総評第81回定期大会は、議案「労働戦線の統一と総評の解散」を満場一致で決定したが、採決時に解散反対の国労や新聞労連など7単産が欠席・退場した結果であった。ついで、この年11月21日、総評は臨時(解散)大会を開いて39年に及ぶ歴史に幕を下ろし、つづいて同日、官民74単産・四友好組織(798万人)を結集した連合(日本労働組合総連合会)が結成された。また同日、統一労組懇系組合を中心に「たたかうナショナルセンター」を標榜する全労連(全国労働組合総連合、27単産4一地方組織、14万人)の結成大会も開かれた。こうした労働戦線再編の経過をうけて、国労は全労協(全国労働組合連絡協議会)の結成に参加していった(後述)。
 
続く
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国鉄労働組合史 250

2011-08-04 10:00:00 | 国鉄労働組合史
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第四章 JR体制への移行と国労の闘い

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第八節 労働戦線再編と全労協の結成
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一 連合の発足と国労の対応

 80年代労線統一問題と国労の方針

 1980年代に入って民間先行による労働戦線統一の流れが速まり、全民労協(全日本民間労働組合協議会)が結成されたのは82年12月、その全民労協が第4回総会で連合体移行に関する方針を決定したのは85年11月であった。そして、連合体移行の時期を2年後の87年11月とし、労働界全体の統一について「1989年までに労働界全体の統一が実現できるよう努める」としていた。つづく86年11月の第5回総会では、翌87年11月の第6回総会で全民労協を全日本民間労働組合連合会(略称「連合」)に改組発展させることを決めるとともに、「連合」の憲章・綱領ともいうべき《進路と役割》を決定した。そして、87年11月2〇日に結成大会を開いた「連合」は、「自由にして民主的な労働運動を強化・拡大」し、「労働界全体の統一、すなわち一国一ナショナルセンターの実現につとめる」ことを基本目標とする《進路と役割》を採択し、新規約によって国際自由労連への一括加盟を決定した。
 一方、民間先行ですすむ労働戦線統一の流れに対して提起していた総評「5項目補強見解」について"整理"を行い(84年9月)、またすでに傘下民間単産一6組合が全民労協に加盟していた総評は、86年7月の第75回定期大会において「全的統一の目標とプロセス」を提示して総評系官公労を含めた「労働戦線の全的統一による統一ナショナルセンター結成の時期を1990年前後とする」ことを明らかにした。ついで「連合」の結成をその秋にひかえた87年7月の第77回定期大会では、労働戦線統一を「総評に託された大仕事」と位置づけ、"労働戦線の全的統一による統一ナショナルセンターの結成の目標を1990年とする、"官民を包含した統一ナショナルセンターに向けて、官公労部会の設定のために公務員共闘・公労協の統一の準備に入る、"中央と並行して地方における統一をすすめる、"他の団体と協議し「全的統一準備会」(仮称)を設定する、などの方針を決定した。この総評大会で国労は、この方針案に対し全港湾とともに、①総評解体と見切り発車は許さない、②国際自由労連の一括加盟反対、などを骨子とする修正案を出し国労の立場を訴えた(集約見解に趣旨が取り入れられ取り下げ)。
 国労はすでに、分割・民営化後はじめて開いた87年6月16日の第149回中央委員会で「全民労協路線を継承する全民労連には反対し、総評の解体を許さず、総評路線の継承・発展を期す」との態度を明らかにしていたが、同年9月2日から開いた第51回定期全国大会(九段会館)において、労働戦線問題については次のような方針を決め、また「本当の意味での労働戦線の統一を展望する立場」から「連合に行かない、行けないすべての労働組合の連絡会」の結成を提案した。
 
続く
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国鉄労働組合史 249

2011-08-03 10:00:00 | 国鉄労働組合史
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第四章 JR体制への移行と国労の闘い

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第七節 清算事業団闘争と支援運動( 1)
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二 国鉄闘争をめぐる共闘

 国鉄闘争支援中央共闘会議

 1982年以来の"国労つぶし"攻撃に耐え、日本労働運動の中でなお"闘う労働組合"として存在しつづけることができた要因の一つは、国労がつねに共闘組織を大事にし、団結を企業内にとどめるのでなく、すべての労働者と連帯し信頼関係を結ぶという作風を作り上げてきたことであったろう。また、戦後労働運動の中核として機能してきた総評がこの秋に解散し、総評運動を具体化してきた地県評も解散の方向にある中で、1989年9月2日から開いた国労第54回定期全国大会(九段会館)は、「私達の闘いは、今は小さくとも日本労働運動の本流になるという決意で『清算事業団闘争及びJRの不当労働行為を許さない』闘いを軸に共闘運動を進めなければならない」との課題を提起し、次のような共闘運動の具体化方針を決定した。
 ① 一職場一共闘組織を作る。
 ② 地区労運動に積極的に参加し、地域労働運動を発展させるとともに各地方における実状を踏まえた国鉄闘争支援の共闘づくりをめざす。
 ③ 中央段階で国鉄闘争支援共闘会議(仮称)を設置する。
 ④ すべての闘う仲間と団結して争議団・争議組合支援の共闘に積極的に取り組む。
 ⑤ JRの利用者や市民を含め国民の安全を守るための共闘組織をつくる。
 この年(89年)10月12日、国労会館で国鉄闘争支援中央共闘会議の準備会が発足した。この準備会結成集会には、40組合・団体から260人余りの代表者が集まり、呼び掛け人を代表して岩井章氏は「自らの闘争として地域や労働者に支援を広げて欲しい」と挨拶した。集会では共闘会議の役員体制や事務局員の配置を次のように決めた。
 ○代表委員 岩井章(国労顧問)、小島成一(弁護士)、清水義汎(明治大学教授)、三好宏一(北海道教育大学名誉教授)、宮部民夫(都労連委員長)、中里忠仁(JMIU)、稲田芳郎(国労委員長)
 ○議  長 中里忠仁(JMIU)
 ○副議 長 植上孝志(新聞労連副委員長)、水上賢治(全港湾書記長)、牛久保秀樹(国民会議事務局長)、山下俊幸(連帯する会事務局長)、小池信太郎(東京地評副議長)
 ○事務局長 折田直昭(出版労連委員長)
 ○事務局次長 磯崎弘幸(民放労連書記長)、市毛良昌(連帯する会)、小島忠夫(国労中央闘争委員)
 11月7日、「国鉄闘争支援中央共闘会議」(略称=中央共闘)の結成集会が開かれた。結成集会の会場となった日比谷野外音楽堂には5000人が参加し、準備会を代表して挨拶した中里議長は「この国家的不当労働行為は全労働者の問題であり、負けてはならない」と強調し、折田事務局長から"1000万署名活動、"全国キャラバン11・22中央集会成功、"中労委闘争の強化、などの方針が提案され、満場の拍手で承認した。結成集会では、要旨次のような「アピール」が採択された。
 「国鉄闘争の帰趨は、日本の民主主義と労働運動の行く末を問うと言っても過言ではありません。わたしたちは、極めて重要 な意義を持つ国鉄闘争に対して静観するのではなく、この闘いを積極的に担うべきであると考えています。
 JR各社は地方労働委員会の命令に従わず、中央労働委員会に再審査請求の申し立てを行うなど、あくまでも争うという姿勢を崩していません。運輸省は、『国鉄改革法』が1990年4月1日をもって失効することを盾に、清算事業団の雇用対策を3月末日で打ち切る方針を明らかにしました。残されたわずかな期間だけに清算事業団の仲間達の雇用不安は深刻であり、雇用問題は切実な問題となっています。
 政府は、国会で確約した約束を守り、直ちに実行させる責任と義務があります。私たちは人間として、労働者として、国労の仲間に対する政府・JR・事業団の身勝手な態度は絶対に許す事はできません。私たちは、国労の要求している『全面解決要求』を支持し、その実現のために共に闘う目的で国鉄闘争支援中央共闘会議結成を準備してきました。
 国鉄労働者と、その家族に明るい笑顔が1日も早く戻るように支援の輪を広げ、闘いの炎を全国の各地から燃やすために、ここに国鉄闘争支援中央共闘会議を結成し、共に闘うことを決意しました。日本全国の働く仲間が、1人でも多く『国鉄闘争支援中央共闘会議』に結集し、国鉄闘争の全面勝利に向けて闘うことを呼びかけます。」
 なお、中央共闘には12月1日現在で41団体(130万人)が結集していたが、その参加組織は次のとおりであった。
新聞労連、民放労連、出版労連、全印総連、広告労協、映演共闘、JMIU、全港湾、運輸一般、自交総連、総評全日建運輸、建設一般全日自労、建設関連、全国一般、化学一般、石油三単産、全損保、全信労、日本医労連、日赤労組、住都労、生協労連、全中労連、産別会議、育英労、全農協労連、福祉保育労、オリジン労組、国公労連、全国税、郵産労、日高教、千葉高教組、宮城県教組、宮崎教組、都労連、東京労組共闘、国民会議、労研センター、社青同、連帯する会中央共闘は、国労の清算事業団闘争が大きな節目をむかえ、第2次全国キャラバンの東京集結をはじめ東京総行動が展開されている(前述)さなかに結成され、それらの闘いに積極的に合流していった。そして、翌1990年4月1日、清算事業団職員1047人が"2度目の解雇"を受けてから国鉄闘争は新たな段階に入り、国鉄闘争をより広範な組織と行動で支える中央共闘も、新たな守備範囲と行動力を展開し始めた(第5章第5節)。
 
続く
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国鉄労働組合史 248

2011-08-01 10:00:00 | 国鉄労働組合史
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第四章 JR体制への移行と国労の闘い

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第七節 清算事業団闘争と支援運動( 1)
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二 国鉄闘争をめぐる共闘

 国鉄清算事業団闘争に連帯する会

 国労の清算事業団闘争本部が本格的活動を開始していた1988年10月7日、「国鉄清算事業団闘争に連帯する会」(略称=連帯する会)の呼びかけ人会議が開かれ、ついで11月11日、その発足総会が開かれた。
 この「連帯する会」は、清算事業団闘争をより広範な闘いとするために構想されたもので、国労はその趣旨を次のように提起して職場討議を呼びかけていた。
  「『連帯する会』は、国労が抱えている最大の課題である清算事業団4500人の仲間の完全雇用を確立する闘いを支持し、これに連帯するために闘争に必要な財政をつくる組織であり、集められた財政は清算事業団闘争のみに使用されるものです。
 同時に、会員の拡大運動を通じて、清算事業団における労働者虐待と不当な差別・選別を社会的に暴露し、職場・地域から社会問題化する目的をもちます。
  会員の組織化は、地域における清算事業団闘争を運動・組織 化する条件をつくり、新たな事業団闘争と反首切り闘争を結び つけ、地域における反失業闘争として運動が広がる基盤をつく ることになります。さらに、会員拡大運動と討論を通じ、国労 組合員1人ひとりが清算事業団問題を自分自身の問題として、 JRにおける労働強化と不当は差別・選別の闘いと結びつけて 国労組織4万人が闘いの決意を固めることにあります。」
 国労会館で開かれた「連帯する会」発足総会には約350人参加し、「1人の首切りも許さぬ共同事業を」「労働委員会の救済命令を武器にいっそう社会問題化・政治問題化していこう」「事実を明らかにし、条理を説けば闘いは広がる」などの発言がつづき、稲田国労委員長が「4500人の首切り反対、雇用の完全確保へ闘いの先頭に立つ」と決意を述べた。
 「連帯する会」は、①国鉄清算事業団闘争へ財政的な支援をする、②国鉄清算事業団闘争を全国で広める、~『国鉄新聞』(清算事業団特集号)を会員あてに送付し、毎月闘争の現状を報告する、などの活動を行い、その会費は~一般会費(個人)半年分3000円、1年分6000円、~特別会委員(団体)年1口1万円、と決まった。発足総会の模様を伝え、各地の清算事業団の実情と闘いの姿を報じた『国鉄新聞』~連帯する会特集版~第1号は88年12月15日付で発行されたが、それには「連帯する会」の呼びかけ人54氏と賛同人696氏(12月10日現在)の名前があげられていた(90年3月、賛同人は1600氏をこえた)。また「連帯する会」発足早々から国労各支部分会は、まず一組合員一会員獲得をめざし、89年6月の第53回臨時全国大会以降は一組合員3名獲得で10万会員をめざし、地域の労働組合や民主団体をまわって会員拡大に取り組み、さらには親戚、友人、退職者、JR他労組組合員宅などを訪ね支援を訴えた。
 「連帯する会」は、清算事業団闘争を一部財政面から支えるだけでなく、各種の大衆闘争にも取り組み、また毎月発行される『国鉄新聞』~連帯する会特集版~は国労組織の外に国労闘争の現状と闘いの姿を伝える広報の役割も担っていた。そして、90年4月1日以降はまた、清算事業団闘争が新たな段階に入り、その活動と役割は新たな課題に取り組んでいった。
 
続く
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国鉄労働組合史 247

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第四章 JR体制への移行と国労の闘い

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第七節 清算事業団闘争と支援運動( 1)
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 国労第五三回臨時全国大会--全面解決要求決定

 清算事業団闘争が全国的に前進するなかで、採用差別事件をはじめとする国労の主張を全面的に認めた労働委員会命令があいついで出され、その数は89年5月末までに29件におよんでいた。
しかし、JR各社は中央労働委員会へ再審を求めたり、裁判所に行政訴訟を提起したりして問題の解決を長期化させていた。そうしたなか、清算事業団職員の雇用問題を解決し、JR各社に労働委員会命令を守らせ、諸要求の全面解決をはかるために、そして来年4月以降(再就職促進法失効)の事態を想定した態勢の確立にむけて、1989年6月17日、国労第53回臨時全国大会(日本教育会館)が開かれた。
 この大会で国労が決定した「全面解決要求」の骨子は、次のとおりであった。
 一、JR労使関係の正常化
  ① 一連の不当労働行為について陳謝するとともに、労働委員会命令を履行すること。
  ② 労働基本権を尊重した正常な労使関係を確立すること。
 二、清算事業団職員の雇用問題
  ① 希望者全員を希望するJR各社に採用すること。
  ② 希望者全員を希望する清算事業団の本来業務職員として雇用を継続すること。
  ③ 転職希望者(公的・民間等)の希望を十分に尊重し、全員の雇用を確保すること。
 三、現状回復
  ① 組合間差別による配属、出向、配転等の不当な人事について、直ちに現状回復をすること。
  ② 採用差別をはじめとした一連の不当労働行為によって生じた賃金、一時金、昇職、昇格等の不利益取扱いについて、早急に是正すること。
  ③ 今後の出向、配転、昇給、一時金査定、昇職、昇格等について、労使交渉により公正な基準を設けること。
 四、解決金
   この間の不当労働行為による一切の損害及び諸費用等について、解決金として支払うこと。
 五、安全輸送の確立
   安全輸送に必要な要員配分を行うなど、安全に関する諸対策を講じること。
 六、清算事業団との紛争解決
   202億損害賠償請求訴訟を取り下げること。また、係争  中の事件の解決をはかること。
 この臨時大会では、こうした「全面解決要求」を決定するとともに、7月から年末にむけた闘いのスケジュールをたて、組織拡大運動の目標達成、安全シンポジウムの開催(8月25日)、政府・国会に向けた「労働委員会命令遵守・JRの不当労働行為根絶を求める1000万請願署名」の取り組み、地方議会に向けた自治体決議への要請、第2次キャラバン行動(10月21日に釧路と鹿児島出発)、ヤマ場に向けて全国・全職場で反復してストライキがうてる態勢の確立、清算事業団・JR各社との団体交渉の強化、など具体的な闘いの方針を確立した。
 1989年9月2日~4日の第54回定期全国大会(九段会館)を終えた直後の9月6日~8日、北海道採用差別事件の中労委結審にあわせて東京における総行動に取り組み、北海道と九州の清算事業団から450人が上京し、決起集会、JR本社・国会周辺での宣伝行動、中労委前1000人集会、などが展開された。10月には第2次全国キャラバンが北海道と九州を出発、2週間にわたり全国各地で連鎖宣伝行動をつづけ、10月14日から1000万署名活動が始まった(翌90年3月集約)。さらに11月5日~8日、九州採用差別事件の中労委審問にあわせて中央行動が取り組まれ、清算事業団闘争勝利団結まつり(5日、上野公園、3万人)、東京総行動(7日)、国鉄闘争支援中央共闘会議結成集会(7日、日比谷野外音楽堂)、そして全国キャラバンなどの大衆行動を総括する都内総行動と中央集会(21日、明治公園、3万2000人)などが展開された。
 11月21日、政府は国鉄清算事業団職員雇用対策本部の会議を開き、清算事業団の再就職未内定者2218人(11月1日現在)の「雇用対策」を決定したが、その内容は北海道と九州をのぞくJR各社による広域追加採用をはじめ関係への要請と努力をうたったもので、同日の国労「声明」が述べたように「この内容では、採用差別をはじめとした一連のJRの不当労働行為問題なかんずく労使紛争の根本的解決は不可能」であった。
 ついで同月23日に開いた国労第155回中央委員会は、労働委員会命令の即時完全実施と「全面解決要求」の実現をめざして意思統一を図るとともに当面の闘争方針を討議・決定したが、同時に年末手当支払い時の「闘争費の臨時徴収」(8000円~1万円)も決定した。
 明けて1990年の闘いは、1月18日の国労スト(乗務員24時間、地上勤務者2時間、2万49〇〇人参加)が皮切りとなった。そして3月末に向けて東京だけでなく北海道でも九州でも、全国でさまざまな大衆行動をともなった総行動が展開された。「国鉄清算事業団労働者2000名の解雇を許さない緊急集会」(2月21日、国労会館、500人)は、著名文化人の呼びかけた集会であった。そして国労拡大中央委員会開催中の3月9日、清算事業団当局が解雇通告を含む退職強要の提案(後述、第5章第5節)をしてきてからは大衆行動は火に油を注いだように盛り上がり、連日1000人規模の行動がくり広げられた。国労の2波のストライキ(3月19日~21日、27日~31日)を軸に、東京だけでも都内宣伝パレード(9日~21日)、東京集中総行動(12日~16日)、上京オルグによる行動隊(22日~29日)、歩行者天国や主要駅頭での宣伝行動、運輸省・労働省要請行動、清算事業団本社前集会、さらに全労協国鉄闘争支援中央行動(16日、日比谷野外音楽堂)、「1500人解雇撤回!国労緊急中央総決起集会」(27日、日比谷野外音楽堂)、清算事業団・JR東日本本社前集会(29日、3〇日)、「90春闘勝利、清算事業団労働者1500名の解雇撤回、3・30総決起集会」(30日、日比谷野外音楽堂)などが取り組まれ、文字どおり連日の大衆行動になった。
 そして1990年4月1日、清算事業団が1047人を解雇した時点から、清算事業団闘争は新たな段階に入っていく(第5章第5節参照)。
 
続く
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国鉄労働組合史 246

2011-07-30 10:00:00 | 国鉄労働組合史
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第四章 JR体制への移行と国労の闘い

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第七節 清算事業団闘争と支援運動( 1)
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清算事業団からの「広域採用」とその結果

 国鉄清算事業団発足の時点(1987年4月1日)で、希望しながら現地旅客鉄道会社などに採用されず、清算事業団に「収容」された旧国鉄の再就職先未定者は7630人(そのうち北海道4242人、九州2335人)あったし、新しい各事業体の採用予定定員はいずれも充たされないまま発足し、1万4300人以上の欠員があった。そこで北海道と九州で最初の追加募集が行われ6月1日付で北海道が281人、九州が411人を採用した。これにより、九州旅客会社の予定定員は充たされることになった。
 その間、5月10日の動労中央委員会で松崎委員長が、JR各会社の追加募集に反対を表明したことは、労働組合幹部にあるまじき発言として世間の顰蹙をかった。
 ところで、この6月段階でまだ就職先未定者は6936人あり、政府は6月5日の閣議で「国鉄清算事業団職員の再就職促進基本計画」を決め、JR各社の追加採用でできる限り多くの清算事業団職員が再就職できるようにするための措置を定めた。この閣議決定に先立ち5月15日、北海道と九州の清算事業団に在籍する就職先未定者5800人(北海道3919人、9州1881人)を対象として、本州と4国、貨物のJR各社が追加採用を行うことになったが、これがいわゆる「広域採用」であった。
 募集期間は5月18日から6月15日までであったが1週間延長され、6月23日現在での応募者数は1230人(北海道1023人、9州207人)、対象者の5人に1人であった。そして、採用通知がなされたのは1195人、しかし8月1日付けで入社した人は935人で260人もの人が辞退していた。こうした数字は、長年住みついた土地、またその土地を離れられない家庭事情、そして見知らぬ土地で働くことへの不安など、1人ひとりの労働者に「広域採用」がいかに重荷であったかが物語られている。
それからほぼ1年半経った1988年12月19日から翌89年1月23日までの募集期間で、3回目の「広域採用」がはじまった。広域募集にあたって杉浦清算事業団理事長は、「JR北海道の募集はあり得ない」「今回が最後のチャンス」「法律(再就職促進法)の延長はあり得ない」などと語っていた。北海道と九州の募集対象者は総数で4300人余りあり、最終的な応募者数は北海道から714人、九州から178人、計892人(約20%)となった。
応募先ではJR東日本がもっとも多く706人、ついでJR西日本が131人、あとJR貨物28人、JR東海24人、JR四国3人となっていた。これらのうち、2月の試験などを経て採用通知を受けたもの841人、このうちから辞退者が200人、最終的には641人が採用となった。この結果、清算事業団に残った雇用対策職員は本州なども含め全体で5050人となった。そのうち国労組合員は2850人で、就職先未定者2150人、内定者610人、退職前提休職者85人、いずれにしてもこの時点で2000人以上の国労組合員が就職先未定のまま残された。
この第3次「広域採用」と前後して、国労清算事業団闘争本部は、闘争の全国化をはかるため、北海道と九州から本州各地に6次(88年11月~89年6月)にわたって約200人のオルグ団を組織し、各オルグ団はそれぞれ職場や地域に入って清算事業団の実態を訴え、東京では運輸省をはじめ各省庁への要請行動、JR本社前諸行動、あるいは採用差別事件をめぐる労働委員会要請行動などを展開した。さらに闘争本部は、企画部政治共闘と連携して、清算事業団闘争勝利5000人集会(88年11月1九日、日比谷野外音楽堂)、清算事業団闘争2周年総決起集会(89年2月16日、日比谷野外音楽堂)、清算事業団闘争勝利総決起集会(同年4月6日、日比谷野外音楽堂)に取り組んで成功させるとともに、89年の2月26日、4月6日、6月20日は東京争議団に合流して東京総行動を展開した。
 また婦人部・家族会とも共同行動を組み、89年3月30日から4月1日にかけて北海道・九州の清算事業団家族(子供36人、婦人10人)が上京し、首相官邸・社会党・共産党などへ要請した。
さらに、北海道・九州の清算事業団の仲間を激励するキャラバンを組織した。東京地評、東京争議団の協力も得てオルグ団を編成し、第1陣(89年4月16日~22日)が北海道へ、第2陣が(5月30日~6月7日)九州へ、第三陣(6月22日~29日)が北海道へ赴き、清算事業団の実情を見聞するとともに現地の仲間を激励してまわった。
 
続く
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国鉄労働組合史 245

2011-07-29 10:00:00 | 国鉄労働組合史
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第四章 JR体制への移行と国労の闘い

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第七節 清算事業団闘争と支援運動( 1)
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 清算事業団職員の雇用を確保する闘い

1987年4月15日、国労「清算事業団協議会」の結成総会が、関係15地本の代表と中央執行委員が出席して開かれた。この協議会は、既存の職能別協議会とは異なり、国労組織の補助機関的な役割を担い、①国労組織の団結強化、②全国の交流、③調査、要求の把握、などを任務としていた(翌16日に結成された貨物協議会も同じ)。結成総会では、当面の目標として①閣議決定要員枠の完全確保、②新会社職員再募集の早期実現、③欠員補充は清算事業団から優先採用、④希望する賃金・労働条件が保障される再就職先の確保、⑤政府の責任による新事業の早急な開発にもとづく雇用確保、等をかかげ、その実現のための次のような具体的な取り組み方針を決定した。
 ① 攻撃に負けず、闘いの「生き証人」として、どんなに苦しくても絶対辞めない決意を固め、長期に粘り強く闘いつづけるよう団結を強化する。
 ② 採用の差別・選別を社会的に暴露し、その責任を追及する。
 ③ 反失業・反首切り・雇用確保で闘う仲間との交流、共闘組織化、地県評への要請、オルグなどを強化する。
 ④ 地方交通線の存続、清算事業団の延長など国会・関係地方自治体等への要請行動を展開する。
 ⑤ 清算事業団における諸要求の実現、教育・訓練及び職場環境の改善をはかる。
 ⑥ 北海道・九州における組合員間の交流、本州と北海道・九州との交流、雇用対策支所間の交流。
 ⑦ 新会社配属組合員と定期的に交流し、オルガナイザーとしての役割を担う。
 ⑧ 不当労働行為等の点検・摘発行動の徹底・強化。(以下略)国労はこうした方針にもとづき国労は、新会社等発足と前後して設置した「北海道・九州雇用特別闘争本部」を中心に政府対策、社会党などを通じた国会対策、地方自治体対策、清算事業団及びJR各社との交渉、総評・地県評などとの連携をすすめていったが、雇用確保のための重点要求(第51回定期全国大会決定の1987年度運動方針)を次のようにかかげ、あらためて政府・自治体・清算事業団・JR各社との交渉に全力をあげた。
 ① 21万5000人の枠を守らせ、1人も路頭に迷わせず雇用を確保するまで「法」と付帯決議、法案審議過程を履行させる取り組み及び追加募集に区切りをつけることなく、また終わらせることのない取り組みを行う。
 ② 雇用確保の基本は現地雇用とする。
 ③ 全体的な状況及び本人の希望により広域雇用を確立する。
  その場合、条件整備に全力をあげる。
 ④ 清算事業団における教育は、個人の希望を尊重し、再就職に必要な技術・技能の向上と各種資格等取得のための専門的な教育を充実させる。
 ⑤ 賃金格差(期末手当を含む)に反対し、平等な取り扱いとさせる。
 さて、第51回定期全国大会(東京・九段会館)開催直後の1987年11月初めから、清算事業団に「収容」されている職員の雇用を確保する闘いとして、3次にわたる全国統一闘争を展開した。まず11月5日~7日第一次行動では、北海道・九州を中心とした50人余りの上京団も加わって「雇用確保、差別・不当労働行為排除、労働協約改訂、組織強化拡大」をかかげた中央集会(5日夜、日比谷野外音楽堂)を開き、国会要請、関係省庁交渉、駅頭宣伝、東京地本各支部や千葉地本との交流、他労組オルグなどを展開した。明けて1988年2月5日~10日の第2次行動では、北海道(反失業・雇用確保・地域を守る道民の集い)と九州(公共交通を確立し、雇用と人権を守る九州シンポジウム)と東京(反失業・雇用政策を考えるシンポジウム)でシンポジウムが開催された。
 第3次行動としては、2月16日に鹿児島を、同月20日に釧路をそれぞれ出発した反失業全国キャラバンが3月4日に東京に到着し、全日通会館で集結集会を開いてその成功を確認しあった後、運輸省・労働省交渉、全国会議員及び社会党・共産党・総評への要請など中央行動を展開し、夜は日比谷公会堂で4000人規模の中央総決起集会を行った。なお、第3次行動のなかで取り組んだ全国各地における反失業・事業団職員雇用確保要求署名は158万5000人以上を集約した。
 国労はすでに、国鉄分割・民営化反対闘争の過程で?国労つぶし?
をねらった「選別・差別・採用拒否」という国家的不当労働行為について、北海道・九州を中心に17地労委に対し18件の採用差別=不当労働行為救済命令を求めてきたが、その調査・審問で当局・職制などによる理不尽な実態が次々と暴露されていた(別項参照)。1988年7月20日から開いた第52回定期全国大会(東京・九段会館)においても、さらに政府およびJR等の責任を追及し、雇用の完全確保にむけて闘いつづける方針を確立した。
大会後、委員長を本部長とする「国鉄清算事業団闘争本部」を9月から発足させたが、これは先の「北海道・九州雇用対策特別闘争本部」を発展的に改組したもので、清算事業団闘争の具体化をその任務とした。すなわち、①支援・共闘づくり、②物販活動の調整、③オルグ計画、④各種集会などの計画・準備、⑤署名運動の点検集約、⑥清算事業団闘争に連帯する会の結成、などを行うこととし、10月から活動を開始した。なお、第52回定期全国大会では、この闘いを全組合員の闘いとするために、清算事業団闘争費として毎月1人100~300円を目途に自主的なカンパに取り組むことを決めた。
 10月になると清算事業団闘争本部の活動が始まった。まず、北海道・九州の事業団職員を中心に、闘いの全国化を目的として本州の各地に200人のオルグ団を派遣し、それは11月7日~12日の第一次から翌89年6月20日~29日の第6次までつづいた。その間、88年11月19日の「国鉄清算事業団の首切りを許さず、JRに労働委員会命令をまもらせる全国集会」(日比谷野外音楽堂)、JR等に採用を拒否されて事業団行きが決まって2周年目の89年2月16日の国労総決起(14地本130職場でストライキ)と2・16東京総行動が取り組まれた。そうした中、「国鉄清算事業団闘争に連帯する会」が結成された(次項2参照)。
 
続く
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国鉄労働組合史 244

2011-07-28 11:26:38 | 国鉄労働組合史
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第四章 JR体制への移行と国労の闘い

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第七節 清算事業団闘争と支援運動( 1)
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 国鉄改革=分割・民営化による1987年4月1日発足の旅客鉄道会社などJR各社、新幹線保有機構など特殊法人とは別に、旧国鉄の膨大な債務と資産を引き継ぎ債務償還等を行うとともに、新会社などに採用されなかった国鉄職員(雇用対策指定職員)の再就職促進をすすめるために、新たな特殊法人=国鉄清算事業団が設立された。1987(昭和62)年4月1日事業団発足の時点で、旧国鉄から移行した職員のうち再就職先未定職員は7630人、そのうち国労組合員4290人であったが、これらの職員は、清算事業団雇用対策支所(全国で131カ所13派出)に配属された。
 清算事業団発足後の6月5日、政府は「国鉄清算事業団職員の再就職促進基本計画」を閣議決定した。それは、旅客鉄道会社など承継法人への優先採用と協力、国・地方公共団体への採用、職業訓練・紹介など国が講じる措置、清算事業団が講じる措置などを定めていた。

一 国鉄清算事業団職員の雇用を守る闘い

 清算事業団職員(雇用対策指定)の「職場」と日常 再就職先未定者として旧国鉄から移行した国鉄清算事業団職員の労働条件は、一応は国鉄時代のものが承継された。しかし、「雇用対策支所勤務」の発令を受けた場合の適用基本給表、職群及び号俸は発令前のものがそのまま適用となったが、定期昇給と昇格は実施されないことになった(毎年度の人事院勧告による賃上げ相当分のベ・アは実施)。また夏季手当などは、他の職員と格差をつけられた。しかも、「雇用対策支所勤務」は法律上も3年が限度となっており(再就職促進法は3年の時限立法)、その後の雇用保障については特段の措置は講じられていなかった。
 さらに「勤務」すべき「職場」=雇用対策支所とは、その多くはすでに使い古された建物や部屋などで、狭くて劣悪な居住環境の場所があてられた。職員はそこに定刻に出勤・退勤するだけでなく、「自学自習」を命じられる日々を送り、「ワイシャツ、ネクタイの着用」を強要された。『国鉄新聞』(1987年4月10日号)の「声」欄に次のような投書がよせられた。
  「私たちの職場は、新会社採用にあたって、分裂組織の『工事労』が北海道会社に100人採用されたのに国労はゼロという、全国でも最悪の差別・選別が行われたところです。
  私たち清算事業団組は、3月16日から札幌第一分室に配属されました。日勤の?刑務所?というのが第一印象です。114人が3室に入れられています。私たちの部屋は34人ですが、一人当たり一平方メートルのスペースしかありません。あるのは長テーブルとイスだけ。狭い中で、お互いの肩を気にして自由に歩くこともできません。一日中、作業指示はなし、部屋から出るには許可が必要、まるで刑務所そのものです。
  当局に、最低の保障として冷蔵庫、食器棚などを要求しましたが、拒否され、やむを得ず私物の冷蔵庫を持ち込んだところ、公安官24人、労働課など局課員40人、警察官10人という厳戒体制のもとで、たった1台の冷蔵庫撤去にあたるという暴挙です。
  ?お前らは、はじかれた人間、手をわずらわせずに早く出ていけ?といわんばかりです。このような、労働者を労働者と見 ない、人間として働き続ける権利を奪う行為を私たちは断じて許しません。これは国民に対する挑戦でもあります。」
 さらに、清算事業団発足後1年たった1988( 昭和63) 年5月、国労西日本本部を中心とした共闘組織や弁護国による「九州清算事業団の仲間との友情・連帯・交流実行委員会」が現地調査と交流を行ったが、その報告集『ばってん、やったる』には次のような報告が記録されている。
  「( 西八幡雇用対策支所) 元操車場の詰所2階建建物を使用しているが、駅や道路からも離れた一般の人の口につきにくい場所にある。昨年( 昭和) 62年2月16日発足時には約30名の職員が配置されたが、現在は22名。11管理者は、各種学校に通うようにしきりにすすめるし、予算化もされている。職員の元職種は多様である。
  勤務実態としては、8・30~5・05。稀にビデオを使った講義とか、1週間に1回の体育の時間がある。しかしその他は自学自習ばかりである。自学自習の資料としては、『衛生管理者参考資料』『一般常識講座』のようなもので、他にも『文章上達法』とか、『統計について』のような講座ニュースもある。
 備付書棚の本は、九州一円が一律に同じものである。次のようなものが目についた。
 『宅地建物取引の常識』『国家試験、資格試験全書』『現代用話の基礎知識』『ボールペン用ペン字の書き方』『常用漢字とその筆順』『マンション経営のすべて』『ラーメン店経営のすべて』etc以上〆て5万円とか。・11・」「( 竹下雇用対策支所第一分室) 支所は竹卜駅の構内にあり、木造で便所もくみ取りという、設備も悪く考えていたよりも大変な所だなと感じた。竹下支所には約140名が収容され、……現在、国労101名、九度労1名という組織の現状である。また、国労組合員のほとんどが鳥栖の出身で、毎日電車で1時間近く揺られて通勤。鳥栖にも清算事業団の支所があるが、そこには配属させないなど、不当差別、嫌がらせが現れている。…竹下支所の実態報告の中で、①勤務表の中にワープロ実習とあるが、ワープロは4台しかなく、ましてや教える人がいない、②求人広告を助役がもってくるが、週刊誌や新聞の切り抜きなど、手取り十万円弱の所で真剣に考えていない。また求人募集に対しては、国鉄時代の『職員管理調書』を助役が会社に持って行くなどいまだに差別が現存している。ボーナスの5% カットがやられている。……」
 
続く
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国鉄労働組合史 243

2011-07-27 10:00:00 | 国鉄労働組合史
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第四章 JR体制への移行と国労の闘い

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第六節労働委員会闘争をはじめとする権利闘争
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一二 労働委員会闘争の成果と現状

国鉄の分割・民営化は、国労組織の解体・弱体化をはかるという不当労働行為攻撃と一体となってすすめられた。
 全国各地で闘われた労働委員会闘争は、このような国労っぶしの不当労働行為を告発し、組合員の団結と国労組織を守る重要な闘いとして取り組まれた。数多くの勝利命令を獲得した不当労働行為との闘いは、国労っぶしのねらいを挫折させ、以下のような成果をあげたものと評価できる。
 第一に、差別に屈しない、差別に負けない、組織の団結を維持しつづけてきたことであり、激しい組織攻撃から国労の団結を守り抜くうえで、不当労働行為の救済を求める労働委員会闘争は大きな意義を有するものであった。そして、実際にも、国労の団結を維持する大きな成果をあげた。
 第二に、JR の不当労働行為責任を明らかにした数々の救済命令は正義と道理が国労側にあることを明らかにし、組合員の闘いに自信を与えるとともに、JRの不当労働行為に対し、広く世論の批判をつくりあげる重要な役割を果たした。「採用差別」事件におけるJR側の主張JRは国鉄改革法の規定により不当労働行為責任を負わないとの主張が、地労委、中労委で、完全に否定されたことは採用差別問題の解決を迫っていくうえで大きな意義を有するものであり、労働委員会闘争によって得た重要な成果であった。
 第三に、地労委闘争への取り組み、獲得した救済命令の数々は、国労の主張の正しさを裏づけ、国労に対する支援共闘の輪を全国的にひろげる大きな役割をになった。
 国労が分割. 民営化後取り組んできた労働委員会闘争については以上のような成果を確認できるが、最終的総括は、全面解決の後になされるべきものであり、以上は中間的な総括としてのとりあえずの指摘である。
 今日もなお( 1996年4月現在) 、数多くの不当労働行為事件が地労委、中労委において係争中であり、JR東日本の昇進差別事件などこれから闘いが本格的に取り組まれる事件もある。
分割. 民営化直後のような露骨な不当労働行為はみられなくなってはいるが、JRの国労を弱体化しようとする基本的労務政策は変わっておらず、国労組合員に対する差別を根絶させる闘い、そのような闘いの一環として取り組まれる労働委員会闘争の意義と役割はいまもなお大きいものがある。

続く
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国鉄労働組合史 242

2011-07-26 10:00:00 | 国鉄労働組合史
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第四章 JR体制への移行と国労の闘い

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第六節労働委員会闘争をはじめとする権利闘争
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十一 点検・摘発闘争(労基署への申告闘争)

 JR西日本での排気ガス中毒事故( 1993年9月4日) が示すように、列車事故だけでなく、職場において、労働者は常に危険にさらされている。国労は、これまで安全闘争を強くおし進めてきたし、とりわけ分割・民営化後の鉄道の安全確保には全組織をあげて、取り組んできた。職場アンケートの結果が示すように、要員不足と労働強化のために、労働者の健康状態は悪化しており、それだけ、職場における点検・摘発闘争は重要となった。
 1990(平成2)年9月11日、JRの勤務制度にかかわる労働基準法違反について、静岡地本浜松支部と浜松駅分会はの労基署へ申告した。その内容は、凧まつりの臨時勤務(浜松駅)、変則的な「日勤二種」の是正(浜松事業管理所)、変形勤務における調整時間の繰り越し是正(浜松事業管理所)などで、是正指導した。
 また、静岡地本沼津支部の申告に対し、沼津労基署は、91年11月18日、JR東海に対して「指導票」を出した。その内容は、駅や旅行センター社員が行う団体添乗員の勤務において、実際には労働時間の管理が可能であるにもかかわらず、労基法第38条の2「事業場外のみなし労働時間」を悪用し、実質15時間にも及ぶ勤務を、所定の7時間38分で処理していたことは労基法に反して違法であるとした。
 また、1カ月単位の変形労働時間制の下での「特定後の変更」問題についても指導が出された。同様の事例として、JR東日本の横浜土木技術センター分会でも、勤務変更と「1カ月変形制」につき、横浜北労働基準監督署へ申告していたが、95年3月20日に、JR東日本と東京地域本社に対して、「変形期間の開始後には、特定された労働時間の任意の変更はできない」旨の是正勧告がなされた。

 貨物会社に指導票

 国労は、JR貨物会社とのこれまでの時短交渉の結果、「毎月25日公表される勤務指定表は翌月1カ月間の勤務、つまり各日、各週の労働時間の及び休日を具体的に特定したものである」(『労働時間短縮』に関する協定・交渉記録抜粋、93・4・1)と確認してきた。だが、職場では、25日に特定したはずの変形労働時間の各日、各週の所定勤務時間を変更して、実際に勤務した労働時間が所定労働時間を上回っても、会社は、「1カ月間をトータルして労働時間を管理すればたりる」として、超過勤務手当が支払われない実態があった。
 また、94年12月3日のダイヤ改正によって、動力車乗務員の勤務時間における「待ち合わせ時間」を労働時間からカットした。
 国労本部は、団体交渉を通じて、問題点を追及し、解決を図ると同時に、全国の貨物職場での地道な点検・摘発活動を展開し、労働基準監督署への申告行動を実施した。
 95(平成7)年4月17日、東京労働基準局において、JR貨物会社の「変形労働時間制の取り扱いについて」等の改善指導-107-
を行った経緯とないようについての説明があった。東京労働基準局は、全国16カ所の労働基準監督署で受けた組合からの申告内容の主旨が類していることから、同年3月29日に、改善指導を行った。
 第一に、文書指導で、「JR貨物会社から変形期間開始後の勤務の変更の実態について現場の資料を含め聴取した結果、当該変形期間開始後に勤務を変更した場合は、各日、各週の労働時間を特定する原則により、所定の労働時間を超えかつ法定労働時間を超えた場合は、超過勤務となること、変形労働時間制の前提である労働時間の特定性を確保するよう改善を行うこと、また、これについては動乗勤務者以外の勤務者においても同様に取り扱うこと」としている。
 第二に、動力車乗務員の勤務について、口頭指導で、「現状からは、全てが労働時間と断定するのはむずかしいが、従来会社がみなし換算により労働時間としていたものをやめ、休憩時間とするなら、自由利用とすべき通達の休憩時間の目的をそこなわないものとすること」という内容である。

続く
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国鉄労働組合史 241

2011-07-25 10:00:00 | 国鉄労働組合史
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第四章 JR体制への移行と国労の闘い

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第六節労働委員会闘争をはじめとする権利闘争
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一〇 協約締結問題

 国鉄時代には、国労本部と国鉄本社間団体交渉を行い、合意に基づいて基本的な労働協約を締結し、それに基づいて、労働条件が決定され、労働者の権利にかかわる問題や労使関係に関する事項が決定されていた。また、各地本ごとにそれぞれの実情に合わせた労働協約も締結され、現場協議制度が典型であるが、支部、分会が団体交渉の主体となって、協定が締結されていた。
 しかし、国鉄改革の過程で、国労にとっては、このような団交、労働協約締結のスタイルが様変わりし、とりわけ、組合員の減少から少数組合として、団体交渉において、非常な苦労を余儀なくされることになった。権利、労働条件に関する労働協約の内容に関しても、決して国労の意図するところに落ち着かないことも多くなった。その典型が、「無協約問題」であった(この問題については、本章第5節を3章されたい)。
 民営化後、JRにおいては、再編された複数組合併存の下で、労使関係の新たな展開となった。国労にとっては、まず、組織の強化と防衛が必要であったことから、いかなる労使関係の構築を図るかが課題となった。端的には、「労使関係にあかかわる労働協約」の締結をめっぐて、大きな労使の対立が生じた。 1987年4月1日から6カ月の有効期間をもつ労使関係協約に関する団体交渉では、会社側が「一字一句の修正にも応じられない」と強硬な態度で臨み、国労の要求と真っ向から対立した。国労にとって多きな問題となったのは、専従の確保と組合事務所の確保であった。これらは、いずれも不当労働行為にさらされながら、団結を固める国労にとって、いわば生命線である。一時的には「無協約」状態が続いたのも当然であった。

 団交の単位問題

 秋田地本は、新会社発足に伴い実施が予定された出向問題にかかわって、JR東日本の秋田支店に団体交渉を申し入れた。「出向に対する緊急の解明と要求」(1987年5月14日)、「出向に対する細部にわたる解明要求」(同年6月30日)である。しかし、秋田支店が団体交渉に応じなかったので、国労秋田地本は、秋田地労委に不当労働行為救済申し立てを行い、秋田地労委平成元年9月26日命令は、会社が、「『解明を求める事項』について、組合と出向者個人には十分説明済みであるとか、交渉事項と説明事項戸を形式的に2分し、説明は別途行うから『解明を求める事項』については団体交渉を殊更開催する実益はないとかいうことは、団体交渉を拒否する正当な理由にはならない。」として、労組法第7条2号に該当する不当労働行為にあたるとした。

続く
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国鉄労働組合史 240

2011-07-24 10:00:00 | 国鉄労働組合史
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第四章 JR体制への移行と国労の闘い

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第六節労働委員会闘争をはじめとする権利闘争
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九 組合活動への攻撃

 正常な労使関係の確立のためには、労働組合の団結権保障に基づく組合活動の権利が当然に認められる。その結果、労使自治の下で、さまざまな組合活動が展開され、組合員の意識が高められ、連帯の輪が広がって行く。国労の土台ともいえる分会活動の重要性と必要性は、明らかであり、だからこそ、分会活動の否認は深刻な組織問題を生み出し、重大な権利侵害であった。

 組合掲示板問題

 秋田掲示板事件においては、秋田保線区分会が、シンボルカラーあるいはアピールカラーとして赤色の掲示板を設置したところ、会社が「赤色の掲示板が一般人の共通の認識として刺激的であり、職場の雰囲気を落ち着かないものとし、目障りとなり、職場規律を乱すものである」と主張して、掲示板の地色の修正を要求し、修正されないことを理由に撤去したのであった。
 秋田地労委昭和63年5月24日命令は、会社は、「国労の行動に対し注意・警戒していたところに、国労が赤色掲示板を設置したため、職場規律等に名をかりて掲示板の地色の修正要求、撤去をしたもの」であり、会社の「修正要求、撤去が組合活動に支障を与えたことは容易に推察できる。」会社の一連の行為は、国労と分会の組合活動を嫌悪し、その弱体化を狙ってなされた支配介入行為であり、労組法第7条3号に該当する不当労働行為であるとした。

 組合事務所問題

 組合事務所は、使用者の便宜供与の典型例であり、組合活動を支える基本的な位置を占める。とりわけ、複数組合が併存する下で、便宜供与においても、団結平等原則、使用者の中立保持義務は当然守られるべきである。
 会社が南近畿地本の田辺地域分会及び新宮地域分会に対して、組合事務所の貸与を拒否した事例で、会社は、組合事務所の貸与原則として、「地方本部に一か所、県単位の組織に一か所」とし、さらに下位の組織には「修正基準」が適用され、その大きな要素として、組合員「概ね100名程度」としていると主張した。
 大阪地労委1994年7月11日命令は、「会社が、少人数であれば組合活動に支障がないなどとして、田辺地域分会への組合事務所貸与を拒否していることには、異なった取扱いを正当化する合理的理由があるとは認めがたい。よって、かかる会社の行為は、中立保持義務及び団結権の平等承認に反する不公平な取扱いであって、組合弱体化を企図したものと推認され」、労組法第7条3号に該当する不当労働行為であるとした。
 なお、新宮地域分会への組合事務所の貸与については、すでに組合事務所が存在し、改めて組合事務所を会社が貸与しなかったとしても不当労働行為にはあたらないとした。

続く
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国鉄労働組合史 239

2011-07-23 10:00:00 | 国鉄労働組合史
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第四章 JR体制への移行と国労の闘い

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第六節労働委員会闘争をはじめとする権利闘争
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八 昇進差別事件

 国鉄の分割・民営化後、JRにおける昇進については試験制度が導入された。しかし、昇進試験の合否判定には、、試験成績だけでなく、日常の人事考課も要素になるとされており、その合否の基準は全く明らかにされていない。そして、昇進試験の内容も、筆記試験や面接試験の問題は公開されておらず、採点基準等も全く不明である。試験結果も非公開で、本人に合否の結果が通知されるだけで、成績・点数は本人にすら知らされない。
 JRの昇進制度は各社によって違いがあり、JR東日本をのぞく各社は一定の範囲で自動昇進的なものを認めているが、JR東日本の場合は、昇進試験に合格しなければ昇進できないしくみになっており、公正な試験が行われているかどうかが問題である。
JR東日本における1991年度の昇進試験(現場長試験を除く)の合格者数は、合計5654人であったが、JR東労組の組合員が5322人(94・1パーセント)を占めている。ちなみに、JR東労組の組織率は、この時点で65パーセントであるから、その高い合格率の異常さが明らかである。これに対して、たとえば、国労横浜支部の調査では、1991年度までの国労組合員の受験者数は、延べ459人で、その中、合格者数は6人で、合格率1・3パーセントである。 さらに、JR各社は、国労バッジの着用者には、その取り外しの強要し、着用者に対しては一時金の減額査定、懲戒処分などを強行しているが、前年度に訓告以上の処分を受けている者は昇進試験の受験資格がないことを理由に、多くの国労組合員は、受験の機会すら奪われる状況下にある。
 この問題について、現在、JR東日本、JR東海所属の国労組合員らが、岩手、秋田、宮城、福島、東京、神奈川、大阪などの各地労委に、不当労働行為救済を申し立てている。

続く
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