西洋人の動物観
西洋文明の基礎には二つの主要な思想、ヘブライ思想とギリシア思想があります。この二つの思想をもとに形成されてきました。
人間支配の動物観~神は人に動物を支配させた
西洋文明の基礎の一つであるヘブライ思想は、人間が動物を支配することをはっきりと認めています。
旧約聖書の『創世記』には、神は魚や鳥、地上の全ての動物を創った後、神の形に似せて人間を創り、「海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物全てを支配せよ」と言われたことや、大洪水の後に、神は、ノアとその子どもたちを祝福して、「全ての生きて動くものは、あなたたちの食料にするが良い」と言われ、人間に動物を食べることを許したことが書かれています。
遊牧時代のユダヤ民族の主な食物は、羊でしたが、神の創られた羊を食べるのも神の許しが必要でしたが、神が許されたので、動物の肉を食べることが正当化されたのです。この旧約聖書の動物観はキリスト教に受け継がれており、しばしば肉食文化の理由とされることがあります。
人間優位の動物観~人は理性的な存在で動物より有利である
ギリシア哲学者アリストテレスは「動物は理性がないから人間に利用されるために存在する。自然は動物を人間のためにつくった」と言いました。(人間優位の動物観)
アリストテレスは理性を最高原理として、階層構造を作りました。人は理性を持っているので自然の序列の頂点とし、動物は理性がないので人の下とし、運動能力や知覚もない植物は動物のさらに下に置きました。そしてアリストテレスは「理性に優れた者が劣っているものを支配するのが自然で都合がよい。理性的に劣ったものは優れたもののために存在する。植物は動物のために、動物は人の労役と食物を提供するために存在する」と言いました。
このようなアリストテレスの人間優位の動物観と、旧約聖書の動物観が西洋の動物の基礎になってますが、さらにこの二つを融合して西洋文明の中に深く定着させた人が、トマス・アクィナスという神学者です。アクィナスはアリストテレスの哲学とキリスト教思想を調和させようとした神学者で知られています。『神学大全』という書物の中で、「不完全なものは完全なもののために存在するのが自然の秩序である。神の意思により、自然の秩序の中で動物は人間が利用するために存在する。それゆえ、人間が食べるために動物を殺しても、また、どのように利用しても神の法に反しない。・・・」と言っています。
この主張がローマ・カトリック教会の正式見解となり、20世紀に至るまでキリスト教世界ではゆるぎない権威を保っていました。
動物機械論~動物は自動機械にすぎない
アリストテレスに次いで、人間が動物を利用することを正当化し、さらに動物の地位を徹底的に貶めたのは、近代哲学の祖と言われるデカルトです。
彼は「動物は自動機械である」と言いました。動物は理性、つまり思考する能力がないので、自動機械であると言いました。
どうして動物を理性がないといえるのか、それは言語を持ってないからであり、理性がないということは、心がない、心がないから意識がない、意識がないから感覚もない。感覚もないから痛みを感じない。焼けたコテを当てられたり、刃物で切り付けられれば、動物は身をよじったり悲鳴を上げるが、それは蝶番が音を立てるのと同じでそれ以上のものではない。これがデカルトの動物機械論です。
この考えは方は、当時の科学、生理学にとってはとても都合のいい考え方でした。その頃、生きた動物を使う化学実験が盛んに行われていました。まだ麻酔薬などもありません。動物の痛みや苦しみは、どんなに大きかったことでしょう。動物は、痛みを感じないという主張は動物実験をする人の良心の呵責を和らげるのに大いに役立ちました。
勿論、そのように考える人ばかりではありませんでしたが、動物の生体解剖は一部の人の間で行われ、一般の人の目には触れませんし、多くの人は動物の事を意識的に考えることもありませんでしたので、動物実験に反対する人も居ましたが、社会の主流の思想として確立することはありませんでした。
功利主義的動物感~動物も痛みを感じる存在である
18世紀末、イギリスにこれまでと違った動物観を唱える人が出てきました。ジェレミー・ベンサムという哲学者です。
「正しい行為とはこの世の中にできるだけ多くの幸福をもたらす行為である。」と言いました。では幸福とは何か。「幸福とは精神的、肉体的な痛みや苦しみのない状態である。動物も痛みや苦しみを感じることができるのだから、私たちは正しくあろうとするのなら、動物が痛みや苦しみを受けないようにしなければならない。それが私たちの道徳的義務である。そして動物が痛みや苦しみを受けないように法律で守らなければならない。」と説きました。
ベンサムは、次のようにも言っています。
「皮膚の色が黒いからと言って人間を理由もなく苦しめて、何の償いもしないでよいという事にはならない。足の数や皮膚の毛深さがどうか、尾があるかないか、ということで感覚のある生き物を苦しめてよいということにはならない、ということが認識される日がいつか来るだろう。その他に何か(人間と動物の間に)越えられない一戦を引く事ができるものがあるだろうか。それは人間には理性があるということだろうか。それとも話ができるということだろうか。しかし、成長した馬や犬は生まれて一週間の赤子よりも比較にならないほど理性もあり、会話もできる動物なのだ。そうでないとしても、そんなことは問題にならない。問題は理性を働かせることができるかとか、話をする事ができるか、ということではなく、苦しむことができるか、ということである。何故法律は感覚のある生き物を保護しないのであろうか。生きとし、生けるものすべてが慈愛を持って扱われる時が必ず来るだろう。」
これはそれまでの西洋の考え方とは全く異なった新しい動物観です。この考え方が現代の西洋における動物に対する考え方となっています。それでも、以前の伝統的な人間優位の動物観が、特に西洋人の心のどこかに残されており、無意識の言動となって現れることもあるかもしれません。
生命への畏敬~生きとし生けるものへの倫理の拡大
フランスの神学者、哲学者、医師でもあるアルベルト・シュヴァイツァーは、「・・・(省略)どの生命もそれがどれほど貴い関心に値するか、また感受能力があるかどうかを問わない。生命そのものが神聖なのだ。倫理とはすべての生きとし生けるものへの無限に拡大された責任である。・・・(省略)実に多くの生物に虐待が加えられている。屠場では実にひどい野蛮が行われている。このような全てに我々は皆責任がある。」と言いました。
生きとし生けるものへの倫理の拡大、生命への畏敬の理念は、西洋的思想の枠を超えて慈悲の心に近づいてきました。
参考文献:愛玩動物飼養管理士2-1
西洋文明の基礎には二つの主要な思想、ヘブライ思想とギリシア思想があります。この二つの思想をもとに形成されてきました。
人間支配の動物観~神は人に動物を支配させた
西洋文明の基礎の一つであるヘブライ思想は、人間が動物を支配することをはっきりと認めています。
旧約聖書の『創世記』には、神は魚や鳥、地上の全ての動物を創った後、神の形に似せて人間を創り、「海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物全てを支配せよ」と言われたことや、大洪水の後に、神は、ノアとその子どもたちを祝福して、「全ての生きて動くものは、あなたたちの食料にするが良い」と言われ、人間に動物を食べることを許したことが書かれています。
遊牧時代のユダヤ民族の主な食物は、羊でしたが、神の創られた羊を食べるのも神の許しが必要でしたが、神が許されたので、動物の肉を食べることが正当化されたのです。この旧約聖書の動物観はキリスト教に受け継がれており、しばしば肉食文化の理由とされることがあります。
人間優位の動物観~人は理性的な存在で動物より有利である
ギリシア哲学者アリストテレスは「動物は理性がないから人間に利用されるために存在する。自然は動物を人間のためにつくった」と言いました。(人間優位の動物観)
アリストテレスは理性を最高原理として、階層構造を作りました。人は理性を持っているので自然の序列の頂点とし、動物は理性がないので人の下とし、運動能力や知覚もない植物は動物のさらに下に置きました。そしてアリストテレスは「理性に優れた者が劣っているものを支配するのが自然で都合がよい。理性的に劣ったものは優れたもののために存在する。植物は動物のために、動物は人の労役と食物を提供するために存在する」と言いました。
このようなアリストテレスの人間優位の動物観と、旧約聖書の動物観が西洋の動物の基礎になってますが、さらにこの二つを融合して西洋文明の中に深く定着させた人が、トマス・アクィナスという神学者です。アクィナスはアリストテレスの哲学とキリスト教思想を調和させようとした神学者で知られています。『神学大全』という書物の中で、「不完全なものは完全なもののために存在するのが自然の秩序である。神の意思により、自然の秩序の中で動物は人間が利用するために存在する。それゆえ、人間が食べるために動物を殺しても、また、どのように利用しても神の法に反しない。・・・」と言っています。
この主張がローマ・カトリック教会の正式見解となり、20世紀に至るまでキリスト教世界ではゆるぎない権威を保っていました。
動物機械論~動物は自動機械にすぎない
アリストテレスに次いで、人間が動物を利用することを正当化し、さらに動物の地位を徹底的に貶めたのは、近代哲学の祖と言われるデカルトです。
彼は「動物は自動機械である」と言いました。動物は理性、つまり思考する能力がないので、自動機械であると言いました。
どうして動物を理性がないといえるのか、それは言語を持ってないからであり、理性がないということは、心がない、心がないから意識がない、意識がないから感覚もない。感覚もないから痛みを感じない。焼けたコテを当てられたり、刃物で切り付けられれば、動物は身をよじったり悲鳴を上げるが、それは蝶番が音を立てるのと同じでそれ以上のものではない。これがデカルトの動物機械論です。
この考えは方は、当時の科学、生理学にとってはとても都合のいい考え方でした。その頃、生きた動物を使う化学実験が盛んに行われていました。まだ麻酔薬などもありません。動物の痛みや苦しみは、どんなに大きかったことでしょう。動物は、痛みを感じないという主張は動物実験をする人の良心の呵責を和らげるのに大いに役立ちました。
勿論、そのように考える人ばかりではありませんでしたが、動物の生体解剖は一部の人の間で行われ、一般の人の目には触れませんし、多くの人は動物の事を意識的に考えることもありませんでしたので、動物実験に反対する人も居ましたが、社会の主流の思想として確立することはありませんでした。
功利主義的動物感~動物も痛みを感じる存在である
18世紀末、イギリスにこれまでと違った動物観を唱える人が出てきました。ジェレミー・ベンサムという哲学者です。
「正しい行為とはこの世の中にできるだけ多くの幸福をもたらす行為である。」と言いました。では幸福とは何か。「幸福とは精神的、肉体的な痛みや苦しみのない状態である。動物も痛みや苦しみを感じることができるのだから、私たちは正しくあろうとするのなら、動物が痛みや苦しみを受けないようにしなければならない。それが私たちの道徳的義務である。そして動物が痛みや苦しみを受けないように法律で守らなければならない。」と説きました。
ベンサムは、次のようにも言っています。
「皮膚の色が黒いからと言って人間を理由もなく苦しめて、何の償いもしないでよいという事にはならない。足の数や皮膚の毛深さがどうか、尾があるかないか、ということで感覚のある生き物を苦しめてよいということにはならない、ということが認識される日がいつか来るだろう。その他に何か(人間と動物の間に)越えられない一戦を引く事ができるものがあるだろうか。それは人間には理性があるということだろうか。それとも話ができるということだろうか。しかし、成長した馬や犬は生まれて一週間の赤子よりも比較にならないほど理性もあり、会話もできる動物なのだ。そうでないとしても、そんなことは問題にならない。問題は理性を働かせることができるかとか、話をする事ができるか、ということではなく、苦しむことができるか、ということである。何故法律は感覚のある生き物を保護しないのであろうか。生きとし、生けるものすべてが慈愛を持って扱われる時が必ず来るだろう。」
これはそれまでの西洋の考え方とは全く異なった新しい動物観です。この考え方が現代の西洋における動物に対する考え方となっています。それでも、以前の伝統的な人間優位の動物観が、特に西洋人の心のどこかに残されており、無意識の言動となって現れることもあるかもしれません。
生命への畏敬~生きとし生けるものへの倫理の拡大
フランスの神学者、哲学者、医師でもあるアルベルト・シュヴァイツァーは、「・・・(省略)どの生命もそれがどれほど貴い関心に値するか、また感受能力があるかどうかを問わない。生命そのものが神聖なのだ。倫理とはすべての生きとし生けるものへの無限に拡大された責任である。・・・(省略)実に多くの生物に虐待が加えられている。屠場では実にひどい野蛮が行われている。このような全てに我々は皆責任がある。」と言いました。
生きとし生けるものへの倫理の拡大、生命への畏敬の理念は、西洋的思想の枠を超えて慈悲の心に近づいてきました。
参考文献:愛玩動物飼養管理士2-1