ボーダーコリー武蔵一家(親犬2匹、子犬6匹)のブログです
今日のお話(7月5日 日)
「ドラマソロジー」
今日は告知していました「ドラマソロジー」を観劇に伊丹へ
電車から琵琶湖がみえます。
福井駅から伊丹まで2時間15分で到着です。
ちょうど2時
開演一時間前
会場のアイホールは伊丹駅の真ん前です。
館内のロビー
アイホールの期待通りに幅広い年齢層の観客が入っています。
エルダー世代(70歳を超える)と若いアーティストのコラボですから
さあ開演です。
場内は撮影禁止なので演出家の言葉を読んで想像してください
聞くためでなく聞き、視るためでなく視る。すべては「語りだす」ために。
記憶装置としての身体。ふと、そのような言葉が浮かぶ。
今回の出演者たちは、70才以上の年齢を重ねた「エルダー世代」と呼ばれる人たちだ。
その人たちとの共同作業は自分自身について話してもらうことだった。
しかしながら、いろんなものを聞き、見てきたその固有の体験は、言葉によって語られた途端、どこかで聞いた誰かの話として普遍的な物語に回収され、固有性を奪い去ろうとする力が否応なく働く。
「語る」ことによって個人史は表象不可能性へと導かれざるを得ないとしたら、個人史的事実とはどこに依拠するものなのだろうか。
それは記憶装置としての身体が、いままさに誰かに「語り出そうとする」その現在形の身体にあるのではないか。
その「語り出そうとする」ことしか出来ない身体の隙間から、何者かが語り出す瞬間に出演者、観客ともに立ち会うことができればと考えている。
相模友士郎
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上演時間一時間三十分
出演者7人のドキュメンタリーでありその演者の現在形。
お一人お一人がご自分自身を短いセンテンスで語りあげる
まさに記憶装置。
それが、とても感動するのです。共感するのです。涙がでました。
演出家の思惑通りに出演者と観客のみが同時に共有した体験は
この時私たちの記憶装置にきざまれる。
せりふはエルダー世代の方々でも記憶装置として話されるので
よく聞き取りやすい。それと相反して動きが(時の流れの表現なのか)ゆっくり
これは相当稽古を積まないと出せない表現力のように思う
視覚的にゆったりとしたテンポを
唯一女優さん「増田美佳さん」の鋭角、多角的、(わたくしでは表現不能)
で流れの美しいダンスが作品に華を添え、そのダンスに出演者が加わり
プロの演技と一体化していた。
終盤は、記憶装置の言葉が小さくなりそれでも語り、語りながら止まる。
この後流れるワルツの音楽がとってもいい!
わたくしの人生の終演にはこの曲を流して終わりたいと感じた。
わたくしは結婚して子供が自立したころから「わたしって何者?」と常に自分自身に問いかけていました。
これといった職にもつかず何の役にもたたずそれでいて
先生といわれる人に何でも教わる事は好きで好きなことばかりふえて・・・
だから・・・「語りたい」のです・・・・こっそり・・・
ねえ聞いて!聞いて!・・・・
演出家の感性に魅了された一時間三十分
「驚異的に良かった!、すばらしかった!」と批評された作品を観劇できた
幸せに酔いしれてかえってきました。
もちろん
夫も三男も一緒に行きましたよ。
理性的な夫ですが、「感動したな~」っていってました。
福井の駅に到着
駅のおそば「今庄そば」これを頂いてほっとしました。
帰ったらわんこたち大喜びだな~
「DRAMATEOLOGY/ドラマソロジー」詳しくはココをクリック
上演後の演出家のトーク時間に司会者の言葉(キーワードが思い出せない)に
わたくしの脳が一瞬ワープした!
この場面一度体験した!人の脳って不思議です。ぽっちんしていただくとキーワード思い出すかも・・・お願いします。
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ポイントが入りますように・・・