「南京の真実」(ラーべ著 講談社)より11月30日韓に家族をつれて越してくるようにいった。一家は今学校で暮らしている。台所や風呂場は韓が作らせた。韓の友人で・・・レンガ工場の経営者、車を贈ってくれた孫さんも越してきた。新しい防空壕はまだ出来上がらない。全力をあげているのだが。ゆるく積み上げたレンガ壁(セメントがないので両側を厚板で補強してある)が一つあるほかは鉄板を使った。だれが調達してきたのかはわからない。とにかくそこにあったのだ。ほかにもいろいろそういう物がある。おかげでわが家の庭はすさまじいことになっている。水道が止まりはしないかと心配だ。トラックで大型の貯水タンクを運んでこなくては。灯油も買った。ロウソクも。石炭は約一か月分ある。・・・・・・ スマイスから電話。南京市には6万袋、下関には3万4千袋の米があるとのこと。おそらくこれで足りるだろう。今不足しているのは仮の宿泊所、つまりわら小屋に使うむしろだ。この寒空に、何とかして泊まれる場所を確保しなければならない。 以下は国際委員会が抱えている課題である。1、資金の調達2、警察 安全区入口の検問 境界の警備 警察官の総数の確認とその宿泊施設の整備3、兵士と軍人たち 撤退の指令と視察 既に始まっている脱走兵の対策 負傷兵の看護4、食糧の配給 食糧の管理 食糧の貯蔵と分配5、輸送と輸送手段6、避難民の収容施設 見張り 建物の使用と管理 ( a)公共の建物(政府の) (b)学校や伝道団の建物 (c)空き家、わら小屋7、公共設備 水道・電気・電話8、衛生設備と健康管理 仮設便所・ゴミと糞尿の運搬・病院と医療設備 12月1日9時半に、クレーガー、シュペアリング両人と平倉巷で開かれる委員会へいく。いろいろな役目を割り振って、名簿を作る。馬市長が部下を連れて現れ、米3万袋と小麦粉一万袋を提供すると約束。残念ながらそれを難民地域まで運ぶトラックがない。米と小麦粉を売ればいい。出来るだけ高値で。難民用の給食所をつくる予定だ。 3つ目の防空壕が完成した。屋根を鉄板でおおい、入口は土で囲ってある。午後、駐屯軍司令部から2万ドル受け取った。これは、蒋介石からの約束の10万ドルの第一回目だ。残りはいつもらえるかと聞いたが、相手は肩をすくめるだけだった。・・・・・・・・・・・18時、会議。南京に残っている住民たちに安全区に移るようにすすめたあとで日本から拒絶されるようなことになったら、我々の責任は重大だ。それについては大多数の委員が、こちらから先に行動を起こそうという意見だった。安全区に移るよう勧める文書は、非常に慎重でなければならない。いちど、残っている住民の数を南京の中国の新聞代理店に片端から問い合わせてみることにしよう。つまり、中国人がどんな様子か聞いてみるのだ。・・・・・・・・・・・・ ローゼンがアメリカ人を通じて知らせを受け取った。ラーマン地方支部長が、ヒトラーとクリーベルにあてた私の電報を打ってくれたそうだ。ありがたい!これでどうにかなる。間違いない。総統が私を見殺しになさるはずがない!・・・・・・・・・・・・ ローゼンが、ドイツ人に集まってもらいたいといってきた。いつ船に乗るか決めようというのだ。クレーガー、シュペアリング、ヒルシュベルグ先生の子息、オーストリア人技術者ハッツ。この人たちはここに残って私を助けてくれると言う。・・・・・・・・ 12月2日フランス人神父ジャキノを通じ、我々は日本から次のような電報を受け取った。ジャキノは上海に安全区をつくった人だ。 電報 1937年12月1日 南京大使館(南京のアメリカ大使館)より 11月30日の貴殿の電報の件 以下は、南京安全区委員会にあてられたものです。 ジャキノ 「日本政府は、安全区設置の申請を受けましたが、遺憾ながら同意できません。中国の軍隊が国民、あるいはさらにその財産に対して過ちを犯そうと、当局としてはいささかの責を負う意思はありません。ただ、軍事上必要な措置に反しない限りにおいては、当該地区を尊重するよう、努力する所存です」 ラジオによれば、イギリスはこれをはっきりとした拒絶とみなしている。だが我々の意見は違う。・・・・・結びの一文「当該地区を尊重するよう、努力する所存・・・・云々」は、非常に満足のいくものだ。 アメリカ大使館を介して、我々は次のような返信を打った。南京の安全区国際委員会の報告をジャキノ神父に転送してくださるようお願いします。「ご尽力、心より感謝いたします。軍事上必要な措置に反しない限り安全区を尊重する旨日本政府が確約してくれたとのこと、一同感謝を持って受け止めております。中国から全面的に承認され、当初の要求は受け入れられております。我々は安全区を組織的に管理しており、既に難民の流入が始まったことをご報告いたします。しかるべき折、相応の調査を終えた暁には、安全区の設置を中国と日本の両国に公式に通知いたします。 日本当局と再三友好的に連絡をとってくださるようお願い申し上げます。また、当局が安全を保証する旨を直接当委員会に通知してくだされば、難民の不安を和らげるであろうこと、さらにまた速やかにその件について公示していただけるよう心から願っていることも、日本側にお知らせいただくようお願いいたします。 ジョン・ラーベ 代表」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 米と小麦粉を運ぼうとするにも車が手に入らない。せっかくもらったのに、一部、安全区からうんと離れたところで野ざらしになっている。どうやら軍部にかなり米を持って行かれたらしい。3万袋のうち、わずかその半分しか残っていないという。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【2日・・・蒋介石、駐華ドイツ大使トラウトマンに日本側の和平条件を認める意向を表明(日本政府、斡旋断る)】 12月3日ローゼンが訪ねてきた。トラウトマン大使がよろしくいっていたとのことだった。昨晩大使は税関のはしけでこちらに来たのだが、そのまま漢口へとんぼ返りしたという。思った通り大使は和平案を伝えに蒋介石の所に行ったのだ。私がそういうと、何度かためらった後、ローゼンも認めた。・・・・・・・・・ ローゼンは私に電報を見せてくれた。これは本当は大使宛なのだが、次のような内容だった。 ドイツ大使館南京分室 漢口発 37年12月2日 南京着 12月3日日本政府は、都市はじめ、国民政府、生命、財産、外国人及び無抵抗の中国人民を出来るだけ寛大に扱う考えを持っております。また、国民政府がその権力を行使することによって、首都を戦争の惨禍から救うよう期しております。軍事上の理由により、南京の城塞地域の特別保護区を、認めるわけにはいきません。日本政府はこの件に関して、公的な声明を出す予定です。 ザウケン ローゼンは、他の国の大使館はこれに似た内容の電報を受け取っていないことをつきとめた。差出人の名を明かさないまま、この扱いは委員会に一任された。ローゼンは、蒋介石婦人に接触してはどうか、と勧めてくれた。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 12月4日どうにかして安全区から中国軍を立ち退かせようとするのだがうまくいかない。唐将軍が約束したにもかかわらず、兵士たちは引き上げるどころか、新たな塹壕を掘り、軍関係の電話をひいている有様だ。今日、米を運んでくることになっていた8台のトラックのうち、半分しかつかなかった。またまた空襲だ。何時間も続いた。用事で飛行場にいたクレーガーは、あやうく命を落とすところだった。100メートルぐらいしか離れていないところにいくつも爆弾が落ちたのだ。 難民は徐々に安全区に移りはじめた。ある地方紙は「外国人」による難民区などへ行かないようにと、繰り返し書き立てている。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「南京事件の日々・・・ミニーヴォートリンの日記」(大月書店)より12月1日(水)今日は警報が一回あったものの、空襲はなかった。通産103回目の警報だ。もう気にかけない。呉博士とエルシー牧師は午前9時ごろ、ついに(金陵女子文理)学院をあとにした。昨夜二人が波止場に到着した時には、船が出たばかりだったので、やむなく引き返してきて学院で一夜を明かした。呉博士が無事に乗船できてとてもうれしい。というのは、何よりもまず、彼女は4ヶ月もの長期間、気を張り詰め通しですっかり疲労困憊していた、さらには今後彼女は来学期の、そして多分、来年の計画のことに頭を切り換えなければならないと思うからだ。南京にいたのでは到底できない相談だ。それに、日本の軍艦がいつ(長江を)遡上してくるか誰にも予測がつかないし、城内が激しく爆撃された時にはもはや脱出できなくなる。 午前10時、アメリカ大使館に呼ばれ、他の伝道団の指導者たちと一緒に会合を持った。(大使館書記官の)バクストン氏が私たちを三つのグループに分けた。今日にも商船で南京を脱出できる即刻脱出グループ、しばらくは残留しなければならないが、土壇場になったらアメリカ砲艦パナイ号で脱出するー必要とあれば、ロープを使って城壁を乗り越えてでもーグループ、ずっと残留したいと思っているグループである。大使館を出てから、どのグループにするのか、サール・ベイツに尋ねたところ、2番目と3番目の中間あたりだと答えたので、それでは城内の途中で宙ぶらりんになっているようなものだと、二人で笑ってみたものの、それは危険な状態だった。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 陳さんとそれに私も一緒にキャンパス中を歩き回り、アメリカ大使館の公告文を掲示する場所を決めた。明日になれば、中庭に掲揚されている30フィート四方の国旗に加えて・・・のアメリカ国旗が翻ることになるだろう。・・・・・・・ 11時30分、緊急委員会が招集され、その会議で李さんに、6人の男子職員を組織して自警団をつくり、彼らを訓練し、あわせて彼らの腕章を用意することをお願いした。また、隣保学校の教師をしている・・先生に、キャンパスにいる彼女の生徒や比較的に高年齢の子どもたちを組織して避難民のための奉仕団をつくり、彼らを訓練し、彼らのための徽章を作製することも依頼した。・・さんの報告によると最悪の危険に遭遇した時には、近隣の婦女子およそ200人がキャンパスに避難したいと思っているようだ。 今晩の記者会見で安全区の存在が公表され、食料、住宅、財政および公衆衛生を扱う4つの委員会が設置された。市(南京市政府)から米と2万ドルが供与された。 3日ほど後に来ることになっている日本船を待っている人もいる。書籍を詰めた箱を地下室に移し、予想される避難民に備えて各部屋を空ける作業をしていたとき、陳さんが葬式の準備でもしているような気分だ、と言った。まったく、この世の終焉がすぐそこまで来ているような感じだ。 12月2日(木)今日は3回空襲があったが、いずれも城外だった。中国軍機が発進し、日本軍機が撃墜されたが、その数についての報告はまちまちだ。・・・・・・・すっかり空襲になれてしまったので、今では空襲の最中でもずっと仕事をしている。 これまでは漢口や香港を経由してニューヨークや上海あての航空郵便が送られていたが、今夜耳にしたところでは、今後は郵便用飛行機は飛ばないそうだ。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 午後、大変な失敗をした。昼寝をしたところ、ひどく疲れていたため、夕方近くまで目が覚めなかったのだ。 午後6時、再び記者会見に出かけた。安全区計画が進捗している。米が搬入されることになっているが、問題はトラックの入手だ。日本側から知らせが届いているが、それは好意的に解釈すれば、準備完了までに残された時間はあまりない、と言う趣旨である。その情報は、日本軍は三方向から接近中、というものだ。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 12月3日(金)いまや情報入手は非常に難しい。昨日も今日も上海や香港の放送の時間帯に空襲があり、そのため停電し、したがって、ニュースが聞けない。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 昨日中央棟から備品をあらかた撤去した。今日は避難民の受け入れに備えて男性たちが二つの寄宿舎の片づけをしている。避難民がやってくるまでほんの2,3日だと考えている者もいれば、まだ10日ほど間があると考える者もいて、本当のところはだれにもわからない。 今夜の記者会見はとても興味深かった。南京市長と防衛司令長官代理が二人とも出席した。安全区の計画が進捗している。事務所は、寧海路五号にある外交部長張群宅に設置された。目下、城内に、そして安全区に十分な量の米をどのようにして搬入するか検討しているとこだ。・・・・・・・・トラックを何台かを確保するため、明日は市長が全力を尽くしてくれる。米は金陵大学の礼拝堂に貯蔵されることになっている。ひきもきらず人々がやってきて、安全区の場所はどこか、いつからそこに入れるのか、などと尋ねる。 今日大使館から最終の問い合わせがあった。三つの選択肢の中から一つを選んで署名しなければならなかった。私は(3)に署名した。【(3)・・・どんな事態になっても脱出しない。】・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 12月4日(土)今夜、門衛から報告があった。昼間、何百人もの中国人が校門にやってきて、金陵女子文化学院が難民収容所になっているのは本当か、と尋ねたそうだ。門衛は、一人残らず寧海路五号の国際委員会本部へ行かせた。トラックが足りないため、城内への米の搬入は困難である。現在は塩も食用油も買えない。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 私たちは避難民への収容スペースをつくるため、引き続き寄宿舎の備品を屋根裏に運んでいる。また、後日問題になりそうなパンフレット類はすべて破棄している。・・・・・・・・・・・・・・・・ 今夜に記者会見での重要な点は、安全区では塹壕堀のような軍事的予備行動を一切停止すること、軍関係の事務所はすべて安全区外に移すことを(中国)軍が約束したという情報であった。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 今朝南門付近が激しい空襲に見舞われた。イタリアが日本を支援し、ロシアが中国を支援しているそうだ。スペイン同様にここが第二の思想戦場となるのだろうか。うわさにすぎなければよいが。 AP特派員のマグダニエル氏によれば、市の東方では数多くの美しい樹木が、砲撃の邪魔になると言う理由で切り倒されてしまったそうだ。東門から湯山に至る間はどこも無人村になっている。村人全員が立ち退きを強制されいたるところで軍が防備を固めているのだ。 一年前のあの活気溢れる、明るくて希望に満ちた前向きの南京を思うと、気持ちが沈んでくる。分別ある人間がどうして戦争を阻止できないのだろうか。その気になれば阻止できるだろうに。 (IMAGINE 9)【合同出版】より 想像してごらん、 ひとりひとりの安全を 大事にする世界を。 Imagine, A world that values the safety of each and every human. 政府と政府とのあいだにではなく、人と人とのあいだに平和をつくる事が大切だと思います。人と人とのあいだには、文化があり文明があります。政府が変わっても、人間の文化や文明は変わりません。私はイラク人として、日本の人たちとイラクの人たちの間に平和をつくりたい。それが私の理想です。 (イラク/男性)
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