「南京事件」(笠原著:岩波書店)
12月14日・・・この日、昭和天皇より南京占領を喜ぶ「御言葉」が下賜(かし)された。 陸海軍幕僚長に賜りたる大元帥陛下御言葉中シナ方面の陸海軍諸部隊が上海付近の作戦に引き続き勇猛果敢なる追撃をおこない、首都南京を陥れたることは深く満足に思う。この旨将兵に申伝えよ。(『南京戦史資料集Ⅱ』)
この夜、南京陥落を待ちかねていた東京では、市民40万人が繰り出して南京陥落祝賀の大提灯行列をおこない、広い皇居の周囲は提灯をもつ大群衆で埋まった。 南京の長江上流にも、大きい江心洲があり、そこから2、3百メートルの川幅しかなかったので、小舟や筏で簡単に渡る事ができた。12月14日、同洲に敗残兵多数がいるという情報を得て、「残敵掃蕩」に行った国崎支隊の歩兵41連隊(福山)の中隊は最初に投降した捕虜を利用して、残りの中国兵を降伏させることに成功した。その経緯を歩兵41連隊第12中隊「江心州敗残兵掃蕩に関する戦闘詳報」はこう記している。
中隊長の計画は図にあたり、午後7時30分より続々兵器を持参し白旗を掲げて我が第一線に投 降 す。中隊長は兵器と捕虜を区別しこれが整理をおこなえり。 これよりさき支隊長に捕虜の処分、兵器の指示を受けしに、武装解除後兵器は中隊とともに、捕 虜は後刻処置するをもってそれまで同島において自活せしめよとの命令あり。(中略) 捕虜2350人(『南京戦史資料集』)
2350人の捕虜をどのように「後刻処置」したのか、公刊された資料には記されていない。しかし、第10軍司令官柳川平助から「国崎支隊は主力を持って浦口付近を占領し、残敵を捕捉撃滅すべし」という丁集団命令が出されていた(『南京戦史資料』)。
入城式のための「残敵掃蕩」巧妙心にはやる松井石根司令官と中シナ方面軍司令部が17日に入城式を強行することにしたため、日本軍は14日から17日にかけて、南京城の内外で全力をあげての徹底した「残敵掃蕩・殲滅」作戦を遂行することになった。 大報道陣によって日本国民に報道される「未曾有の盛事、敵の首都への皇軍の入城」の一大セレモニーの日に、式場はもちろん、銃内、城外においても、敗残兵や便衣兵によるゲリラ活動のたぐいがあっては皇軍の威信が損ねられることになる。そのうえ、上海派遣軍司令官・朝香宮(あさかのみや)鳩彦王中将は皇族で、「宮殿下」「宮様」である。天皇の軍隊の象徴である皇族の司令官の身に、もしもの不祥事が発生することになれば、天下の一大事で当然関係者の引責問題につながった。南京城内の首都飯店に司令部をおいた朝香宮にたいして、各部隊から立哨を派遣して厳重な警戒体制をとったし、「中山門のすぐ手前の所にて宮殿下が入城するため一時通行禁止となり」(牧原日記」)という特別警備体制がとられることもあった。 こうして、17日に入城式を挙行するために、南京城区だけでなく近郊農村にまでおよんで過酷な「残敵大掃蕩作戦」が展開され、残虐される軍民の犠牲をいっそう大きなものにした。・・・・・・・・・・・・・・
(12月14日)昨日に続き、今日も市内の残敵掃蕩にあたり、若い男子のほとんどの、大勢の人員が狩り出されて来る。靴づれのある者、面タコのある者、きわめて姿勢のよい者、目つきの鋭い者、などよく検討して残した。昨日の21名とともに射殺する。(南京戦史資料集)
ダーティン記者は、民間人の多くを殺害した、城内の「残的掃蕩」の様子をこう記す。 南京の男性は子供以外のだれもが、日本軍に兵隊の嫌疑をかけられた。背中に背嚢や銃の痕が あるかを調べられ、無実の男性の中から、兵隊を選び出すのである。しかし、多くの場合、もちろん 軍とは関わりのない男性が処刑集団に入れられた。また、元兵隊であったものが見逃され、命拾い する場合もあった。 南京掃討を始めてから3日間で、1万5千人の兵隊を逮捕したと日本軍自ら発表している。 そのとき、さらに2万5千人がまだ市内に潜んでいると強調した。(中略) 日本軍が市内の支配を固めつつある時期に、外国人が市内をまわると、民間人の死骸を毎日のよ うに目にした。老人の死体は路上にうつ伏せになっている事が多く、兵隊の気まぐれで、背後から 撃たれたことは明らかであった。(「ニューヨークタイムス」38年1月9日、『アメリカ関係資料編』)
「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
12月14日 (この日の記述はない。いろいろな事件への対応に追われて忙しかったのか、編集者がカットしたのか分かりません。)
「南京事件の日々」(ヴートリン著:大月書店)より 12月14日 火曜日 午前7時30分。昨夜、戸外は平穏だったが、人々の心の中には未知の危険に対する恐怖があった。夜明け前に再び城壁に激しい攻撃が浴びせられているようだった。おそらく、きょう主力部隊が進入する際に、邪魔になる城門のバリケードを壊しているのだろう。時折銃声も聞こえた。・・・・・ 下関の方角でも砲声が聞こえたが、想像するに、それは、長江を渡って北の方へ逃走しようとしている中国兵がぎっしり乗り込んだ小さなサンパンを狙ったものであろう。かわいそうに、あの無情な砲撃では、逃げおおせる見込みはほとんどなかったどろう。・・・・・・・・・・・・・
昨夜、日本兵によって無理やり家から追い出された人の話や、さらには、今朝日本兵が働いた掠奪の話も耳に入ってくる。・・・・・・・ひどい目にあわせられた少女たちの話が耳に入ってきているが、確かめる機会がまだない。 4時に安全区本部へ出向いた。委員長のラーベ氏とルイス・スマイスが日本軍の司令官と連絡をとろうと終日努力していたが、司令官はあすまで不在だ、と言われた。・・・・・・彼らは中国兵に対しては情け容赦なく、アメリカ人にはあまり関心がない。 ・・・・・・・・
貧しい人々の家に、そして、一部の裕福な家にも日本国旗がたくさん翻っていた。彼らは、日本国旗を作ってそれを掲げていれば、少しはましな扱いをしてもらえるだろうと考えてそうしたのだ。 金陵女子文理学院に戻ってみると、学院の前の空き地は日本兵であふれ、校門のすぐ前にも兵士が8人ぐらいいた。彼らが立ち去るまで私は校門のところに立っていたが、そのおかげで、陳師傳を彼らから奪い返す事ができた。私がそこへ行かなかったら、彼らは彼を案内役として連れ去ったであろう。学院の使い走りの魏は今朝使いに出されたまま、まだ戻ってこない。連行されたのではないかと思う。・・・・・・・・ 今夜はみなとても怖がっているが、昨夜ほどのことはないだろうと思う。日本兵は目下、安全区の東にある地区へ移動しているようだ。・・・・・・・・
※血に染まる長江(「南京事件:笠原著)より 佐々木到一の私記は、「軽装甲車中隊午前10時ごろ、まず下関に突進し、公岸に蝟集(いしゅう)しあるいは江上を逃れる敗敵を掃射して、無慮1万5千発の弾丸を撃ち尽した」と記している。同じ第16師団の歩兵第33連隊の「南京付近戦闘詳報」は、こう記している。 午後2時30分、前衛の先頭下関に達し、前面の敵情を捜索せし結果、揚子江上には無数の敗残兵、舟筏その他あらゆる浮物を利用し、江を覆いて流下しつつあるを発見す。すなわち連隊は前衛及び速射砲を江岸に展開し、江上の敵を猛射すること2時間、殲滅せし敵2千を下らざるものと判断す。(「南京戦史資料集」)・・・・・・・・・
「Imagine 9」【合同出版】より
基地をなくして
緑と海を取りもどしてい世界
戦争は最大の環境破壊です。油田が燃やされ、爆破された工場は有毒物質を垂れ流し、ときには「劣化ウラン弾」(放射性物質の兵器)が使用され、周辺の環境を何世代にもわたり破壊します。しかし、環境に深刻な影響をもたらすのは、実際の戦争だけではありません。 世界中に、戦争に備えるための軍事基地がつくられています。アメリカは、40カ国700ヵ所以上に軍事基地をもち、世界規模で戦争の準備をしています。日本にもたくさんの基地があります。 基地の周りでは、兵士による犯罪が大きな問題になっています。基地周辺の女性が暴力にあう事件が頻繁に起きています。ひどい騒音もあります。 基地による環境汚染は深刻です。ジェット機の燃料が垂れ流されたり、危険な毒物、金属、化学物質が土地を汚染しています。こうした問題を、国はいつも隠そうとします。国は汚染した土地の後始末にさえまじめに取り組もうとはしません。それでいて、「基地は平和と安全を守る」と繰り返しています。基地の周りの人々の暮らしは「平和や安全」とはとても言えたものではありません。 軍事基地はつねに、植民地に設置されるなど、立場の弱い人たちに押し付ける形でつくられてきました。先住民族は押さえつけられ、その権利や文化は奪われ、人々の精神や心理さえもむしばまれてきました。