「南京事件」(笠原著:岩波新書)より
12月13日・・・日本軍、「残敵掃蕩」を開始大殺戮の開始「あらゆる手段をつくして敵を殲滅すべし」
12月12日深夜に南京城を陥落させた中シナ方面軍は、翌13日朝から南京城内外の「残敵掃蕩」を開始した。各師団、各部隊に担当地域が割り当てられ、作戦は徹底、周到なものになった。第10軍(丁集団と称した)司令官柳川平助中将は、こう下令した。 丁集団命令(丁集作命甲号外)
12月13日午前8時30分1、〔丁〕集団は南京城内の敵を殲滅せんとす。1、各兵団は城内に対し砲撃はもとより、あらゆる手段をつくして敵を殲滅すべし、これがため要すれば城内を焼却し、とくに敗敵の欺瞞行為に乗せられざるを要す(『南京戦史資料集』)・・・・・ 上海派遣軍第九師団の歩兵第六旅団長秋山・・少将は、「南京城内掃蕩要領」及び「掃蕩実施に関する注意」で次のことを指示した。 1、遁走せる敵は、大部分便衣(べんい)に化せるものと判断せらるるをもって、その疑いある者はことごとくこれを検挙し適宜の位置に監禁す 1、青壮年はすべて敗残兵または便衣兵と見なし、すべてこれを逮捕監禁すべし(『南京戦史資料集』) 「便衣」とは中国語で平服の意味で、「便衣兵」は軍服ではなく民間人の服を着ている「私服兵」「ゲリラ兵」をさした。「便衣兵」と認定するには武器携帯を確認する必要があったが、右のような指示は、一般の青壮年男子を敗残兵とみて「掃蕩」の対象にすることを意味した。しかも「逮捕監禁」といっても、日本軍は「捕虜はつくらぬ方針」で臨んだのである。
13日の「残敵掃蕩」の模様を、・・・・南京に踏みとどまっていたダーティン記者はこう報じた。
月曜日(13日)いっぱい、市内の東部および北西地区で戦闘を続ける中国部隊があった。しかし、袋のねずみとなった中国兵の大多数は、戦う気力を失っていた。(中略)無力な中国軍部隊は、ほとんどが武装を解除し、投降するばかりになっていたにもかかわらず、計画的に逮捕され、処刑された。(中略) 塹壕で難を逃れていた小さな集団が引きずり出され、縁で射殺されるか、刺殺された。それから死体は塹壕に押し込まれて、埋められてしまった。ときには縛り上げた兵隊の集団に、戦車の砲口が向けられることも会った。最も一般的な処刑方法は、小銃での射殺であった。年齢・性別にかかわりなく、日本軍は民間人をも射殺した。消防士や警察官はしばしば日本軍の犠牲となった。日本兵が近づいてくるのを見て、興奮したり恐怖に駆られて走り出す者は誰でも、射殺される危険があった。(『ニューヨーク・タイムス』38年1月9日、『アメリカ関係資料編』)
このような敗残兵にたいする集団殺戮は、長江沿いの下関地区一帯でもっとも大規模におこなわれた。・・・・・・・ハーグ陸戦条約にもとづけば、すでに軍隊の体をなさず、戦意を失っているそれらの敗残兵の大軍にたいしては、投降を勧告し、捕虜として処遇してやる必要があった。しかし、日本軍がおこなったのは殲滅=皆殺しだった。同地域の「残敵掃討作戦」を担当した第16師団の佐々木到一支隊長は、その日の「戦果」をこう記している。 この日、我が支隊の作戦地域内に遺棄された敵屍は1万数千に上りその外、装甲車が江上に撃滅したものならびに各部隊の俘虜を合算すれば、我が支隊のみにて2万以上の敵は解決されている筈である。(中略)午後2時ごろ、概して掃蕩を終わって背後を安全にし、部隊をまとめつつ前進、和平門にいたる。その後、俘虜続々投降し来たり数千に達す、激昂せる兵は上官の制止を肯がばこそ、片はしより殺戮する。多数戦友の流血と10日間の辛惨を顧みれば、兵隊ならずとも「皆やってしまえ」と言いたくなる。白米はもはや一粒もなし、城内には有るだろうが、俘虜に食わせるものの持ち合わせなんか我が軍には無い筈だった。(「佐々木到一少将私記」)
日本軍だって食糧補給がなく現地徴発=略奪で食をつないでいるくらいだから、捕虜にしても食わせるものがない、だから始末=殺害してしまえ、ということである。・・・・・
投降兵、敗残兵を捕虜として収容しないで、殺害せよというのは、第16師団の方針でもあった。師団長中島今朝吾中将は日記(12月13日)に「捕虜掃蕩」という項目で次のように記している。
だいたい捕虜はせぬ方針なれば、片端よりこれを片づくることとなしたる(れ)ども、千、5千、一万の群集となればこれが武装を解除することすらできず、ただ彼らがまったく戦意を失い、ぞろぞろ付いてくるから安全なるものの、これがいったん掻擾(騒擾)せば、始末に困るので、部隊をトラックにて増派して監視と誘導に任じ、13日夕はトラックの大活動を要したり。(中略)・・・・・・・・・・この7、8千人、これを片づくるには相当大なる壕を要し、なかなか見当たらず、一案としては百、2百に分割したる後、適当の箇所に誘きて処理する予定なり。(『南京戦史資料集』) この13日に第16師団だけで、処理(処刑)して殺害しようとした投降兵、敗残兵は2万3千人を超える膨大なものとなった。
「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
12月13日 日本軍は昨夜、いくつかの城門を占領しただけで、まだ内部には踏み込んでいない。 本部に着くとすぐ、我々はたちどころに国際赤十字協会をつくりあげ、私が役員として加わった。ここしばらくはこの件を担当していた盟友マギーが会長だ。 委員会のメンバー3人で野戦病院に行く。それぞれ外交部・軍政部・鉄道部のなかにつくられていた。行ってみてその悲惨な状態がよく分かった。砲撃が激しくなった時に医者も看護人も患者を放り出して逃げてしまったのだ。我々はその人たちを大ぜい呼び戻した。急ごしらえの大きな赤十字の旗が外交部内の病院の上にはためくのを見て、みな再び勇気を取りもどした。 外交部にいく道ばたには、死体やけが人がいっしょくたになって横たわっている。庭園はまるで中山路なみだ。一面、投げ捨てられた軍服や武器で覆われている。入口には手押し車があり、原形をとどめていない塊が乗っていた。見たところ遺体にみえたが、ふいに足が動いた。まだ生きているのだ。 ・・・・・・・・・ふと前方を見ると、ちょうど日本軍が向こうからやってくるところだった。なかにドイツ語を話す軍医がいて、我々に、日本人司令官は2日後に来ると言った。日本軍は北へ向かうので、我々はあわてて回れ右をして追い越して、中国軍の3部隊を見つけて武装解除し、助けることができた。全部で6百人。武器を投げ捨てよとの命令にすぐには従おうとしない兵士もいたが、日本軍が進入してくるのをみて決心した。我々は、これらの人々を外交部と最高法院へ収容した。 ・・・・・・・鉄道部のあたりでもう一部隊、4百人の中国軍部隊に出くわした。同じく武器を捨てるように指示した。・・・・・・・・・安全区の境で、市街戦が始まりでもしたら、逃げている中国軍が、安全区に戻ってくるのは火を見るより明らかだ。そうなったら安全区は非武装地帯ではなくなり、壊滅とまではいかなくても徹底的に攻撃されてしまうことになる。 我々はまだ希望を持っていた。完全に武装解除していれば、捕虜にはなるかもしれないが、それ以上の危険はないだろう、と。・・・・・ 本部に戻ると、入口にすごい人だかりがしていた。留守の間に中国兵が大ぜいおしかけていたのだ。揚子江を渡って逃げようとして、逃げ遅れたのに違いない。我々に武器を渡したあと、彼らは安全区のどこかに姿を消した。・・・・・ 町をみまわってはじめて被害の大きさがよく分かった。百から2百メートルおきに死体が転がっている。調べてみると、市民の死体は背中を撃たれていた。多分逃げようとして後ろから撃たれたのだろう。 日本軍は10人から20人のグループで行進し、略奪を続けた。それは実際にこの目で見なかったら、とうてい信じられないような光景だった。彼らは窓と店のドアをぶち割り、手当たり次第盗んだ。食料が不足していたからだろう。ドイツ人のパン屋、キースリングのカフェも襲われた。・・・・中山路と太平路の店のほとんど全部。・・・・・・・・・・・・・・・・・
近所の家も皆こじ開けられ、略奪されていた。フォスターは、日本兵が数人で自分の自転車を盗もうとしているのを見つけた。我々を見ると日本兵は逃げ去った。日本のパトロール隊を呼び止め、この土地はアメリカのものだからと、略奪兵を追い払うように頼んだが、相手は笑うだけで取り合おうとしなかった。
2百人ほどの中国人労働者の一団に出会った。安全区で集められ、しばられ、連行されたのだ。我々が何を言ってもしょせんむだなのだ。
元兵士を千人ほど収容しておいた最高法院の建物から、4百ないし5百人がしばられて連行された。機関銃の射撃音が幾度も聞こえたところをみると、銃殺されたに違いない。あんまりだ。恐ろしさに身がすくむ。・・・・・・ 日本軍につかまらないうちにと、難民を125人、大急ぎで空き家にかくまった。韓は近所の家から、14歳から15歳の娘が3人さらわれたといってきた。・・・・・・・・・・・・・・・・・
被害を報告するため、今朝6時からずっと出歩いていた。韓は家から出ようとしない。日本人将校はみな多かれ少なかれ、ていねいで礼儀正しいが、兵隊の中には乱暴なものも大ぜいいる。
そのくせ飛行機から宣伝ビラをまいているのだ。日本軍は中国人をひどい目にあわせはしないなどと書いて。 絶望し、疲れきって我々は寧海路五号の本部に戻った。あちこちで人々が苦しんでいる。我々はめいめいの車で裁判所へ米袋を運んだ。ここでは数百人が飢えている。外交部の病院にいる医者や患者の食糧はいったいどうなっているのだろうか。本部の中庭には、何時間も前から重傷者が7人横たえられている。いずれ救急車で鼓楼病院に運ぶことができるだろう。なかに、脚を打たれた10歳くらいの少年がいた。この子は気丈にも一度も痛みを訴えなかった。
「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
12月13日(月曜日)
激しい砲撃が夜通し城門に加えられていた。・・・・・城内でもさかんに銃撃が行われた。実際、私はぐっすり眠りに付くこともなく、日本軍が中国軍を南京城外に追い出し、退却して行く中国軍を銃撃しているのであろう、と夢うつつに考えていた。何か事が起こるのではないかと、誰もが服を着たままだった。5時を少し回ったころに起き上がって、正門のところへ行ってみた。・・・・門衛が言うには、退却する兵士たちがいくつもの大集団をなして通過して行き、中には民間人の平服をせがむ兵士もいたそうだ。今朝、キャンパス内にたくさんの軍服が落ちているのが見つかった。近所の人たちがキャンパスに入りたがっているが、しかし、私たちとしては、キャンパスの中でなくても安全区にいれば安全なのだということ、また、安全区内であればどこでも同じくらい安全なのだということを彼らに分からせようと努力してきた。 粥場、つまり炊き出し所で今朝初めて粥が出された。寄宿舎の人たちには、キャンパスにやってきた順番に粥を食べさせた。10時半には粥はすっかりなくなっていた。・・・・・
午後4時、キャンパス西方の丘に何人かの日本兵がいるとの報告があった。確かめるために南山公寓に行ってみると、案の定、西山に数人の日本兵がいた。まもなく別の使用人が私を呼びに来て、家禽実験所に入ってきた兵士が鶏や鵞鳥(がちょう)を欲しがっている、と告げた。すぐに降りて行き、ここの鶏は売り物ではないことを身振り手振りで懸命に伝えると、兵士はすぐに立ち去った。たまたま礼儀をわきまえた兵士だった。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
午後7時30分、粥場を運営している人たちから、米を貯蔵してある、校門の向かいの家屋に日本兵が入り込んでいるとの報告があった。フランシス・陳と二人でその兵士たちの責任者と交渉しようとしたが、どうにも埒があかなかった。門の衛兵は、こちらが顔を合わせるのも気後れするような荒くれだった。後にこのことで安全区の責任者のところに行き、あすその問題の解決に努力してもらうことにしたが、その取り扱いには慎重を期すべきだとする点では、みなの意見が一致した。 今夜、南京では、電気・水道・電話・電信・市の公報・無線通信すべてが止まっている。私たちは、透過不可能な地帯に隔てられて全く孤立している。あすアメリカ砲艦パナイ号から呉博士と、それにニューヨークにも無線電報を打つ事にしよう。金陵女子文理学院に関しては、これまでのところ職員も建物もどうにか無事だが、これから先のことについては自信がない。みんなひどく疲れている。私たちはほとんどいつも、全身染み込んだ疲労に耐え切れずに、太くて低いうめき声を発している。8今夜は武装を解いた兵士が安全区に大ぜいいる。城内で捕らえられた兵士がいるかどうかは聞いていない。)
「Imagine 9」解説【合同出版】より
武器を使わせない世界
生物・化学兵器は、国際条約ですでに全面禁止されています。もちろん禁止しても、隠れて開発する国や人々が出てくる可能性はあります。その時には国際機関が査察を行い、科学技術を用いて調査し、法に従って解決すべきです。 ノルウェーは2006年、地雷や核兵器といった非人道兵器を製造している企業に対しては、国の石油基金からの投資を止めることを決めました。日本は、「核兵器をつくらない」「もたない」「もちこませない」という「非核三原則」をもっています。 原爆を投下された日本は、「やり返す(報復)」のではなく「この苦しみを誰にも繰り返させたくない。だから核兵器を廃絶しよう」という道を選びました。私たちは、この考え方をさらに強化して、世界に先駆けた行動をとることができるはずです。