細菌戦の系譜!!

2024-02-14 13:17:50 | Weblog
 
No more Hiroshima!! No more Nagasaki!! No more Hibakusya!!No more Fukushima!!
No more Heityouzan!! No more Nankin!! No more 731!!No more Jyukei!!・・・・
 
 
 
大元帥・現人神・昭和天皇と皇族の戦争責任を問う。
日本は戦争を起こしたことを全く謝罪しなくていいのだろか??
今年は平頂山事件から91年!!
 
 
 
 

平頂山事件

 
 

平頂山で何が起きたの?

未だ癒えぬ傷(平頂山事件 生存者の今)2005年

平頂山事件訴訟とは何だったのか

合唱朗読構成 「再生の大地」ー撫順戦犯管理所(短縮版)

 
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南京大虐殺

南京大虐殺

南京大虐殺(マギーフィルム)

パネー号撃

 

 

 
 
重慶爆撃
 
 
原爆投下や東京大空襲ばかり取り上げて、
日本のテレビや教科書が重慶爆撃を取り上げないのは問題だと思います。
(視聴者のコメント)
 

苦干(重慶無差別爆撃)

 
731部隊

731部隊展

 
原爆
 

ニュース257号

 
 

●東京帝国大学伝染病研究所
 
伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より

●東京帝国大学伝染病研究所『実験医学雑報』

・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?

・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?

・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??

・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??

・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??

・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?

・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?

・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器・研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。

・1936年5月と37年9月の両事件に、小島三郎が出張しているが、果たして何をやったのであるか??

・河本禎助も毒ガスの研究をしていた。

実験医学雑報20巻 第7号(1936年)

本所職制改正

この度本所では職制を次の如くに改正し7月より実施することとなった。

 

*特別研究室とは何だ??

 

 

実験医学雑報22巻 第6号(1938年)

伝染病研究所創立40周年記念日式辞

             宮川米次 

ビタミンC

本種は抗壊血病性に作用し、それがオレンジ、レモン、トマト等にたくさんあることも一般より認められている。Szent-Gyorgyi(1928)が牛の副腎等から還元性のあるC5H5O6なるものを分離しこれがAscorbin酸であり、同氏、Tillmann,King等によって、抗壊血病性に作用することが知られたのである。

 

●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)

吉田裕監修 

 2001年ピュリッツァー賞受賞

 ※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!

戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!  

 

第2部    仁愛の政治

1922(大正11)年―1930(昭和5)年

 




 

 

 

 

 

 

第6章 政治的君主の誕生

5月28日と7月8日の2度にわたり、彼は陸軍が中国山東省に部隊を派遣することに同意したのである。その名目は、北京に向けて北上する国民党軍兵士の攻撃から日本人居留民を保護するためだった。それから1年足らずの1928年4月19日、天皇は再度の出兵を裁可した。このときは、陸軍中将福田彦助に率いられた第6師団の5000の部隊が、日本の紡績業が集中し、かつては日本が占領していた山東省の青島に向かった。彼はこれを裁可するとき、まず侍従武官長の奈良に、干渉が1920年にロシア極東の町ニコラエフスクで起きたような、日本人の虐殺を引き起こさないだろうかと尋ねた。そうはならないだろうと奈良は答えた。

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細菌戦の系譜!!

2024-02-14 13:12:27 | Weblog

●日本国憲法9条

第9条【戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認】

 

①、日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、
国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、
国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

 

 

②.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、
これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

RENUNCIATION OF WAR Article 9.
 

 

 

 

Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order, the Japanese people forever renounce war as a sovereign right of the nation
and the threat or use of force as means of settling international disputes.

 

 

In order to accomplish the aim of 
the preceding paragraph, land, sea, and air forces, as well as other war potential, will never be maintained.
The right of belligerency of the state will not be recognized.

 

 

 

 

 

 

 

 

IMAGINE9

解説

9条をつかって、

戦争のない世界をつくる。

 

世界は、9条をえらび始めた。

すべての国が憲法9条を持つようになり、平和が最後の手段としてではなく、唯一の手段となる日が来ることを願っています。

―イギリス、20代・男性

 
 

【そもそも解説】防衛装備移転三原則の見直し 今なぜ武器輸出拡大?

日本のパトリオット輸出 露外務省報道官が敵対行為と警告

『鹿屋(かのや)航空基地  史料館』(鹿児島県鹿屋市)について

~ご理解していただきたいことを文章にしました~

2022年7月17日記鶴ヶ岡裕一(都内在住) 

鹿屋海上自衛隊内にある「鹿屋航空基地史料館」は、自衛隊とは全く別の、戦争のコマとされて亡くなった(命令によって特攻に行かされ、現場から上層部に無謀な作戦であると意見しても、全く無視された中で、更に多くの若き兵士たちが犠牲者となった)戦没者たちの史料館なので、別の場所に移動し、公的機関管理の『平和祈念資料館』(もしくは「平和祈念会館」~鎮魂と平和=憲法九条を明確にして平和を発信する「庶民のための」資料館)にすればいいとの考えに、ようやく、数十年かけて、たどり着き、まとまってきました。場所は、どこでもいいでしょうが、例えば、(平成の大合併で鹿屋市に吸収された)串良町平和公園内(海軍串良航空基地跡~特攻で363名戦死)でもいいでしょうし、その場合、既に鹿屋市内にて活動している「平和ガイド」の方々も力を合わせていけるのではないでしょうか。

【第2部 質疑応答】PTSDの日本兵と家族の思いと願い・大阪証言集会

 
 
 
 
『PTSDの日本兵と家族の思いと願い大阪証言集会・6月25日』の参加者感想文
2023.6.25
 

24、貴重なお話を聞くことができ、参加させていただきありがとうございました。忘れられないように、この輪がドンドン広がりますように祈っています。戦争は終わっていないと!!突き刺さりました。

黒井秋夫さんのメールより

「戦争のない世界」

「戦争のない世界」をめざす行動の道筋に戦争は必要ありません。暴力は不必要です。

「戦争のない世界」をめざす行動は初めから最後まで戦争や暴力と無縁でなければなりません。戦争や暴力を肯定したり、つまり、戦争をするどちらかに肩入れがあってはなりません。

「戦争のない世界」をめざす人たちが、白旗を掲げる人たちが世界の多数になる時、「戦争のない世界」が実現します。

いや、想像するに世界の10%の家々に白旗が掲げられたら世界は劇的に変わるでしょう。

それは遠い夢物語でしょうか。

ありえない事でしょうか。

戦争や暴力に優れた者たちの正義や道理がこの先100年も続いたら人類は核戦争を回避し生き残れるでしょうか。

 
 
祝 PTSDの日本兵家族会・寄り添う市民の会(元・PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会)
立ち上げ6周年
 
 
★2018年1月17日の立ち上げ宣言・全文
・父は戦争の事だけでなく他の事にも無口でした。
1948年生まれの私はそういう父を生来の父の姿と思ってきました。
しかしベトナム戦争で米兵の3割前後が悲惨な戦争体験で精神を崩し、元の社会に復帰できないという。
同じような日中戦争や太平洋戦争を体験した日本兵も、つまりは私の父たちも精神を侵されたとして不思議ではない。
本当は父は正常な精神に戻りたいと必死に戦後社会を生きていたのではないだろうか。
私は快活だったかも知れない出征前の父は知らない。復員した後の無口な父しか知らない。
私は「本当の父」を知らないままに父を亡くしたのではないだろうか。
2~3年前からそんな思いで父を振り返るようになりました。
だとしたら、父も私も不幸だった。本当の自分を見せることも心の内を語ることもできずに苦しんだかもしれない父。
そんな風には生前一度も思ったことの無い息子。
その無口の父に反発し続けた私。父を通じて私も又戦争の傷を心に負ったのかもしれない。
私たちの世代にも呼びかけたい。
父親たちを見直そう。父親たちの精神世界を想像してみよう。
語り合おうではないか。
若い人たち、我々の子供たち、孫たちにも戦争は兵士のみならずその家族をも。戦争が終わったその後も家族を通じて長い間影響を与え続けるのだと伝えたい。
この指にとまってほしい!
2018年1月17日  黒井秋夫。
 
 

 

 

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