NHKの「家事苦手主婦の変身」という番組を録画して、何度も見ています。
イギリスの番組なのですが、国は違えど同じ主婦。
毎日寄せては返す波のように続く片付けが面倒になり、部屋全体が日常に
追われて雑然とし、問題は感じているものの解決する元気がない主婦を
鍛えなおすというのがテーマ。
おろおろしたりイライラしたり落ち込んだりしながらも、次々と積年の汚れを
落とし、山積みになった不用品を処理。最後には、片付いたお部屋でスッキリ
した笑顔を浮かべる奥さんたち。
散らかったまま何処から手をつけていいかわからず途方に暮れ、そんな家を
恥じるあまり、お客さんを呼ぶのをためらうなんて私そのもの。
他人事とおもえず、「現状を直視するようビデオ撮影された自宅」のひどさや
家族のコメント、「掃除の神様の使い」なる先生のコメントと畳み掛けられて
涙ぐむ出演者をみて一緒に涙ぐまずにいられません。
そして、私自身が掃除するときにも、再生。掃除のとちゅうで画面が目に入ると
自分に打ち勝とうと健闘する女性たちに勇気付けられて、もう一度とりかかる
元気がわいてきます。
そんな基本的に家事逃避願望のある私にとって最大の誘惑であり、癒しなのが
編み物。以前、「指先をリズミカルかつ連続的に動かすのは、脳に心地よい刺激
を与え、ストレス解消になる。農閑期に縫い物やはた織りをしたのは長く続く
冬を乗り越える女性たちの知恵。」という紹介を見て以来、編みながら「うーん
ストレスがとれてく~」なんて想像しながらリラックス。
別に「ある、なし」によるメリット・デメリットを論じようというのでなく、
私に訪れた生活の変化を言えば「こどもがある生活」には、秩序より混沌が
生まれやすく、物事のすべてにおいて未完の状態が続きやすく、こどもに自我が
芽生えてくる1歳後半くらいから更に加速した感があります。
それまでの夫婦二人の生活なら主婦の裁量で進められたこといちいちが
変わってきます。最短の生活動線を歩けばよかったときのようにいかなく
なってくるといえば分かりやすいでしょうか。
「いいからこれきてなさい!」「いやなら食べなくてよろしい。」「いやなら
でていきなさい。」と親から雷を落とされ、泣きながら「こどもの自由は制限
されるもの」と学んだ育ちは過去のもの。
今や、子どもの人権を無視しないよう気をつけて、といわれる時代。
何でもやってみたいという「相手の裁量」をどこまで受け入れ、どこから断り、
「ママにとってラクで時短につながるやり方」をあきらめ、妥協するか。
強権的になってないかと気にしつつも疲れてるときや急いでるときは、気長に
なんてやっていられない。
こどもに「がまん、がまん。そんなー、なんでもかんでもはムリだよー。ね?」
「ママは魔法使いじゃないよ。」「ママは手が何本もあるわけじゃないから、
順番。」「ママ、後でこれやってくれる?といいなさい。今すぐはムリ!
ママが今なにしているか良く見なさい!」と言い方は変われどイライラは
募る。本当はママである自分が一番がまんのしかたを知りたい!
カーッとなって「もう悪いママでもいいもーん」となってしまい、ガミガミ
ガミガミとやって反省。「ごめんね。ママ、大きい声出して。」と謝って、
「いいよ、ママ、怒った顔も可愛いんだから。」と「泣いた顔も可愛い。
○○ちゃんが大好きよ。」という私を真似て言ってくれると仲直り。
そして、手編みしながら「だいすきよ」という気持ちをこめたりします。
幸い、そんな風に手間ひまかけて形を成していくものが自分に贈られるものだと
思うと嬉しいらしく「これ、いいね。」「これ、大切にするね。」
「ママ、作ってくれてありがとう。」などとムギューしにきてくれたりすると
頭にピンク色のお花がいっぱい咲いたような癒しが訪れます。(笑)
写真は、ブダペストにいた頃買ったトルコ製の毛糸で編んだ帽子。
チョット地味で大きく作りすぎたトップが間延びしてみえたので、フェルトで
こどものすきなクマの顔を縫いつけたら、とても気に入ってくれました。
イギリスの番組なのですが、国は違えど同じ主婦。
毎日寄せては返す波のように続く片付けが面倒になり、部屋全体が日常に
追われて雑然とし、問題は感じているものの解決する元気がない主婦を
鍛えなおすというのがテーマ。
おろおろしたりイライラしたり落ち込んだりしながらも、次々と積年の汚れを
落とし、山積みになった不用品を処理。最後には、片付いたお部屋でスッキリ
した笑顔を浮かべる奥さんたち。
散らかったまま何処から手をつけていいかわからず途方に暮れ、そんな家を
恥じるあまり、お客さんを呼ぶのをためらうなんて私そのもの。
他人事とおもえず、「現状を直視するようビデオ撮影された自宅」のひどさや
家族のコメント、「掃除の神様の使い」なる先生のコメントと畳み掛けられて
涙ぐむ出演者をみて一緒に涙ぐまずにいられません。
そして、私自身が掃除するときにも、再生。掃除のとちゅうで画面が目に入ると
自分に打ち勝とうと健闘する女性たちに勇気付けられて、もう一度とりかかる
元気がわいてきます。
そんな基本的に家事逃避願望のある私にとって最大の誘惑であり、癒しなのが
編み物。以前、「指先をリズミカルかつ連続的に動かすのは、脳に心地よい刺激
を与え、ストレス解消になる。農閑期に縫い物やはた織りをしたのは長く続く
冬を乗り越える女性たちの知恵。」という紹介を見て以来、編みながら「うーん
ストレスがとれてく~」なんて想像しながらリラックス。
別に「ある、なし」によるメリット・デメリットを論じようというのでなく、
私に訪れた生活の変化を言えば「こどもがある生活」には、秩序より混沌が
生まれやすく、物事のすべてにおいて未完の状態が続きやすく、こどもに自我が
芽生えてくる1歳後半くらいから更に加速した感があります。
それまでの夫婦二人の生活なら主婦の裁量で進められたこといちいちが
変わってきます。最短の生活動線を歩けばよかったときのようにいかなく
なってくるといえば分かりやすいでしょうか。
「いいからこれきてなさい!」「いやなら食べなくてよろしい。」「いやなら
でていきなさい。」と親から雷を落とされ、泣きながら「こどもの自由は制限
されるもの」と学んだ育ちは過去のもの。
今や、子どもの人権を無視しないよう気をつけて、といわれる時代。
何でもやってみたいという「相手の裁量」をどこまで受け入れ、どこから断り、
「ママにとってラクで時短につながるやり方」をあきらめ、妥協するか。
強権的になってないかと気にしつつも疲れてるときや急いでるときは、気長に
なんてやっていられない。
こどもに「がまん、がまん。そんなー、なんでもかんでもはムリだよー。ね?」
「ママは魔法使いじゃないよ。」「ママは手が何本もあるわけじゃないから、
順番。」「ママ、後でこれやってくれる?といいなさい。今すぐはムリ!
ママが今なにしているか良く見なさい!」と言い方は変われどイライラは
募る。本当はママである自分が一番がまんのしかたを知りたい!
カーッとなって「もう悪いママでもいいもーん」となってしまい、ガミガミ
ガミガミとやって反省。「ごめんね。ママ、大きい声出して。」と謝って、
「いいよ、ママ、怒った顔も可愛いんだから。」と「泣いた顔も可愛い。
○○ちゃんが大好きよ。」という私を真似て言ってくれると仲直り。
そして、手編みしながら「だいすきよ」という気持ちをこめたりします。
幸い、そんな風に手間ひまかけて形を成していくものが自分に贈られるものだと
思うと嬉しいらしく「これ、いいね。」「これ、大切にするね。」
「ママ、作ってくれてありがとう。」などとムギューしにきてくれたりすると
頭にピンク色のお花がいっぱい咲いたような癒しが訪れます。(笑)
写真は、ブダペストにいた頃買ったトルコ製の毛糸で編んだ帽子。
チョット地味で大きく作りすぎたトップが間延びしてみえたので、フェルトで
こどものすきなクマの顔を縫いつけたら、とても気に入ってくれました。
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