今まさにコロナ禍の真っ只中!!
ネットで、このご文章のことが話題になっているみたいです。
まー私ごときが説明をするなどもってのほかです。
がしかしこれだけは申したい!!
念仏者、南無阿弥陀仏にお出会いある方は「死の不安から逃避する」のでなく、「生死をこえて行く道」が与えられているから疫痛(コロナウィルス)の不安も問題とならないのです。
そのご文章をまず見てください。
疫癘のご文章・御文(四帖目第九通)
当時このごろ、ことのほかに疫癘とてひと死去す。これさらに疫癘によりてはじめて死するにはあらず。生れはじめしよりして定まれる定業なり。さのみふかくおどろくまじきことなり。
しかれども、今の時分にあたりて死去するときは、さもありぬべきやうにみなひとおもへり。これまことに道理ぞかし。このゆゑに阿弥陀如来の仰せられけるやうは、「末代の凡夫罪業のわれらたらんもの、罪はいかほどふかくとも、われを一心にたのまん衆生をば、かならずすくふべし」と仰せられたり。かかるときはいよいよ阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、極楽に往生すべしとおもひとりて、一向一心に弥陀をたふときことと疑ふこころ露ちりほどももつまじきことなり。
かくのごとくこころえのうへには、ねてもさめても南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と申すは、かやうにやすくたすけまします御ありがたさ御うれしさを申す御礼のこころなり。これをすなはち仏恩報謝の念仏とは申すなり。あなかしこ、あなかしこ。
[延徳四年六月 日]
いかがでしょうか。
以下の人類の歩みは疫病や天災との戦いであったか。
科学が進歩したと自負する21世紀の我々が、ウィルスごときに翻弄されるのです。
ウィルスは最近より1000分の一小さいらしくさらに驚くのは、細胞壁も核もないんですよね。
ちなみにウイルスの基本構造 ウイルスは他の微生物とは大きく異なり,細胞壁,細胞膜,細胞質,核等の構造を持たない。ウイルスは遺伝子である核酸(DNAかRNA)を中心にして,その周囲を蛋白の殻(カプシッド capsid)で包んだ構造からできている(この構造をヌクレオカプシッドという)。 ウイルスの種類によっては,ヌクレオカプシッドの外側にさらに脂質と糖タンパクからなる被膜(エンベロープ envelope)が存在する。このエンベローブ(envelope)というのがあるのでコロナウィルスは表面に突起物が大きく出ているのであり、感染力がものすごく強いのであるね。
ちなみにエンベロープ (envelope) ウイルス粒子の感受性細胞への付着に関与する エンベロープ 内のタンパク質はウイルス自体の産物であるが、脂質は宿主細胞由来であり、エンベロープの脂質は宿主細胞の膜等に類似する。
エンベロープは脂質二重層からなる膜で、細胞内で作られたヌクレオカプシッドが細胞から出芽し、完全な子ウイルス粒子(感染性を有する完全なウイルス粒子をビリオンと呼ぶ)に成熟し、形成される。
エンベロープの獲得部位は細胞膜、小胞体膜、ゴルジ体膜、核膜のいずれかで、ウイルスによりことなる。
一般にエンベロープをもつウイルスはアルコールや石鹸など脂質を溶解する消毒薬に対して感受性が高く、逆にエンベロープをもたないウイルスは不活化されにくい。 経口感染するウイルスは腸管内で胆汁酸に溶解されないためにエンベロープを持たない。
手洗いとお念仏するしかないのですよ!
あーすいません。お手紙の解説は下記の通りです。
【『蓮如上人のことば』(稲城選恵著 法蔵館刊)の解説】
この「御文章」は延徳四年六月のものであり、蓮師の七十八歳の御文である。
この御文に関連するものに『蓮如上人縁起』の、
同夏のころ(延徳四年)疫病ありて、人の多く死することありしに、病うつるによりてやみもし、死することにてはなし、たゞ因果にて病もし、死にもするなりと仰ありて御文をつくりたまひて順誓にきかせられき、の文があり、さらに『一期記』にも出ている。
夏の流行病で多くの人々が死亡したようである。蓮師の時代には、伝染病ということには無知のようで、うつるということを嫌っている。
しかし当時の一般はこのような悪性の疫病が流行すると、亡霊のたたりとか、日の吉凶や性命判断等、すべて自らの運命を支配するものを外に求めるのである。
それが、他宗や公方(官辺)の常識であった。それゆえ、延徳四年は明応元年にきり換え、年号そのものにその因由を求めているのである。
科学文明の高度に進歩している現代人も全く同一である。特に戦後の医学の、驚嘆するほどの進歩にもかかわらず、迷信呪術も並行して、まさに迷信列島となっている。この現実の上から考えると、科学の進歩によっても解決されないものが、主体の側に残されていることが明らかに証明されている。
蓮師は、このような疫痛による死の不安におびえている民衆に対して、外から運命を支配するものを認めず、「さのみふかくおどろくまじきことなり」といわれ、「生れはじめしよりしてさだまれる定業なり」といわれている。
定業は「縁起」では因果とあり、自らの現在から過去に向った必然性をいうものであろう。※ それは他者に強要するものではない。
疫痛の死は縁であって因ではない、因は生そのものである。母体からこの世に生をうけたということそのことが、死すべき因なのである。「生あるものは必ず死に帰す」ということは必然である。たとい疫痛が流行したとしても、死ぬ人もいればたすかる人も存するはずである。広島の原爆で、爆心地にいた人でも生き残った人もある。ほとんど全滅といわれる戦争においても生き残る人も存するのである。それゆえ、疫病そのものよりも、自らの主体の側に死去しなければならない必然性があるのである。しかしこのような理論で、自らの生死の不安を解決することができるであろうか。「かなわぬときの神だのみ」といわれるごとく、藁でもつかみたい気持をもっているのである。このような死の不安の現実に直面しているものに、いかなる迷信呪術にも動ずる必要のないものを与えているとことに注意すべきである。
その内容こそ浄土真宗の法義である。現在、迷信呪術の跋扈は念仏の法の惨透していないことを証明しているのである。蓮師はこの現実に直面せる不安に対して、浄土真宗の法義を明らかに述べ、いかに迷わんとしても迷う必要のない場を与えているのである。次に阿弥陀仏の勅命の内容を明らかにされている。「阿弥陀如来のおほせられけるやうは」とある文はこの御文にのみみられる。第十八願を勅命とされていることはすでに善導大師の二河譬の上にみられる。「西岸上に人ありて喚て言く、汝一心正念にして直ちに来れ、我能く汝を護らん」とあり、「われを一心にたのまん衆生をばからなずすくふべし」ということは如来の勅命である。
それゆえ、「聞書」七十五条にも、
聖人の御一流は阿弥陀如来の御掟なり。されば御文には「阿弥陀如来の仰せられけるやうは」とあそばされ候。
とあり、いかなる罪悪深重のものでも、いつでも、どこでも、だれでも救われる法が阿弥陀仏の本願の内容である。
それゆえ、今、ここに存在している私そのものが救いの対機でありゝ一心に弥陀をたのむものは必ず救われるのである。一心に弥陀をたのむとは、一心はひとすじにということであり、たのむはおまかせすることである。
それゆえ、この私の救われるか否かの問題はすべて本願の上にあり、この本願の通りに成就してこの私の上にいつでも、どこでも、往生の因法としてとどけられているのが南無阿弥陀仏の名号である。
その名号を聞くことは、そのまま自らのはからいが否定されることになる。
名号に自らのはからいがとられ、如来のはからいにはからわれ行く身となる。
この名号六字は因として与えられているので、この因が果に証験しだのが浄土である。
それゆえ、「阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて極楽に往生すべし」とあり、自らいかに拒んでも名号のはからいによって必得往生の身となる。
死の不安から逃避するのでなく、生死をこえて行く道が与えられているから疫痛の不安も問題とならないことになる。
※定業は「縁起」では因果とあり、自らの現在から過去に向った必然性をいうものであろう。
上記をわかりやすく少し説明しますと同じことをサルトルも申していますし、脳科学者の天才、苫米地さんも本で書かれてるんですが、3000年前のブッダが歴史上初めて言ったことですよね。わかりやすくいうと「時間というのは、未来から過去に流れている」んですね。
普通人間というのは、現在過去未来という順番で考えたくなりますね。現在の積み重ねが未来であると。ということは現在があり過去に囚われる、その可能性が高くなるのではないでしょうか?「過去の延長線上に未来がある」と考えると、人間は過去に囚われたままになってしまいます。
しかしながら未来から現在そして過去へと時間が流れていると考えると過去はただ過ぎ去るもの。こだわる必要はないのですね。
「未来が過去を作る」のですね。