ちーむ☆ものくろ

黒色ダップー犬と飼い主の日々のつぶやき。
ときどき白黒ネコと茶色の犬の話も、ね。

74回目の終戦記念日 祖父の戦争体験

2019-08-15 | 戦争と平和

母方の祖父兄弟。南方の戦いに出征したものふたり。

ひとりは飛行機とともに南の海に消え。ひとりは戦場で病気になり

日本に戻されたけれど その病気が原因で亡くなりました。

祖父ともうひとりの兄弟は内地勤務。 命は無事で 終戦を迎えました。

このふたりも長寿を全うして 何年か前に亡りました。

子供の頃 お盆に祖父の家に行くたびに この生き残った祖父とその弟に

戦争の話を聞かされたものです。

誰もいなくなってしまったけれど 祖父たちがどんな思いで孫たちに

戦争のことを話し続けたのか その気持ちを忘れてはいけないと思って。

終戦記念日には 祖父やその兄弟のこと 教えてもらったことをブログに書いてきました。

今まで いちばん悲しい亡くなり方をした 海軍の飛行機隊の一員だった祖父の

弟のことを書いてきましたが 今回は祖父の体験話です。

 

祖父は湘南平塚生まれです。

市の中心から離れたところに住んでいました。

同じく平塚にあった日本軍の「火薬廠」に勤めていたそうです。

平塚市は激しい空襲を受けました。

それは この祖父の勤務地や 重要な軍事工場が多くあったから のようです。

(子供の頃聞いて覚えてる内容なので 平塚の空襲について

事実と違っているところがあったら ごめんなさい)

空襲を受けたのは夏の夜。 

祖父は帰宅していて そろそろ床に着こうとしたころ。

空襲警報が鳴り 外に出て見ると 市の中心地あたりの空が燃えるように赤い。

飛行機の爆音と 焼夷弾が落ちる音も聞こえる。

祖父は急いで 自転車にまたがり勤務地に走ったそうです。

なんでわざわざ空襲されてるところに行ったのか? 

祖父だって焼夷弾が降る中だから 死んでしまうかもしれないのに。

勤務地に住み込みで働いているシングルマザーと小さい娘さんがいて。

とっさに「助けにいかなくては」と思ったそうです。

自転車で40分はかかる距離。

途中の川は 熱い火から逃れてきた市民が大勢。そこにも焼夷弾が落ちてきたらしい。

やっと勤務地に着き 防空壕に親子を探す(職場かその近辺にあった様子)と

防空壕のなかで抱き合きっている姿を見つけ ああ無事だったと思った瞬間。

防空壕の近くに焼夷弾が落ちた。いずれ防空壕もつぶれてしまうかもしれないと

思った祖父は 娘さんを抱きかかえて お母さんの手を引いて 燃えるまちの中を

逃げ回ったそうです。

どこをどう逃げたのか はっきり覚えていないと言っていました。

火の熱さに負けて 祖父たちも 最後は川に逃げたそうでした。

人の多さに呆然とし 地獄みたいだ と思ったそうです。

平塚の空襲では 多くの方が亡くなったようです。

市内の一角に慰霊碑もあります。

火薬廠があった とされる場所に近いところに建っていますから 

やはり祖父の勤務地が標的とされたのでは と思います。

 

助けた親子のその後は・・・・・聞いたのかもしれないけれど 覚えていません。

亡くなったと聞いた記憶もないので きっと無事でその後を生きたのではないか

と思います。

 

自分もそんな体験をし 弟を南方特有の病気で亡くし。

南の海に散っただろう弟の「遺骨」とされる「石」が入った箱を受け取った祖父。

辛く悲しい気持ちを忘れずに生きて逝った祖父が言い続けたことば。

「戦争 悪いことはたくさんあっても いいことは ひとつもない」

ほんとうにそうだと思います。

なにもかわらない。昨日と変わり映えしない そんな毎日。

退屈とおもうような そんな毎日が続くのが 本当の幸せ 平和なんだということ。

祖父が孫たちに教えてくれたこと。これからも伝えてほしいこと。

平穏無事に生きる。

忘れないように。

今年もまた改めて 心に刻みたいと思います。

 

飛行機とともに亡くなった 祖父の弟とその仲間? 同僚?の 若いみなさん。

訓練の合間の 記念写真みたいですね。

よく見ると後ろの看板に「十国峠湯河原温泉」という文字が書かれていますから

みんなで 箱根あたりにでかけたのでしょうか。

暗い日々のつかの間の たのしい日 だったのかもしれません。

映っているほとんどの方が 今も南方の海の中で眠っています。

 

 

 

 

 


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