ちーむ☆ものくろ

黒色ダップー犬と飼い主の日々のつぶやき。
ときどき白黒ネコと茶色の犬の話も、ね。

75回目の終戦の日です

2020-08-15 | 戦争と平和

原爆の日の式典等 今年はコロナのことで縮小されて行われましたね。

終戦の日の式典も同様でしょう。

終戦75年。

戦争のことも原爆のことも 語れる方がとても少なくなりました。

私の親族の戦争体験者も 実母くらいしかいなくなりました。

もうひとり叔母がいますが 母とは異母姉妹 年が離れていて 戦後生まれの戦争知らず です。

ただ 今年 この叔母から聞いて初めて知ったことがありました。

祖父の一番下の弟。軍で 無線傍受 の仕事をしていたそうな。

とてもたくさん「成績」をあげたそうで 戦後はその英語力を買われてなのか。

横浜港の税関Gメンとやらに抜擢されたそうです。

とてもやさしいおじさん のイメージしかないのですが。

英語が堪能だったのねぇ。

あのやさしい笑顔で 麻薬やら密輸品やら ばしばし取り締まってたのでした。

 

唯一といってもいい 戦争を語れる母は 小学校の低学年だったので 語れるのは戦中の暮し くらいですね。 

よく戦時中を描いたドラマで 都会で暮らす人が田舎に買いだしに来る というようなシーンがありますが。

本当にそういうことは あったそうです。

祖父や母が暮らしていたのは 湘南の平塚市ですが 市の中心地ではなく かなり離れた地域。

今も駅からバスに乗って 30分から40分くらいかかる場所です。

そこに野菜やお米を求めて 横浜や東京から人々がやってきたそうです。

当時 列車は走っていたらしいですが 今のように本数はなかったでしょう。さらにバスは・・・

走っていなかったかもしれませんから 駅から祖父の家まで きっと徒歩。大変だったでしょうね。

着物をいくつか持ってこられて

「お金じゃなくて申し訳ないですが この着物と食べ物と交換していただけませんか」と

都会からきた奥様たちにお願いされたそうです。

祖父は「それはとっておいて もっと困ったときにお金に換えたらいい」と 受け取らずに

野菜やお米を たくさん持たせてあげたらしいです。

厳格ではありましたが 人にやさしい祖父らしいな と思います。

祖父の家は とても古い時代から続いている家で その頃は土地もたくさん持っていたし 

軍でも役職についていたので あの頃では裕福な家庭であったと思います。

だからそういうこともできたのかもしれません。

数年後 野菜を分けてあげた方が わざわざお礼にみえた と言う話も聞いた記憶があります。

無事でよかったねって 祖父は思ったことでしょうし うれしかったんじゃないかな。

苦しく辛い時を互いに助け合って そののち あのときは大変だったねぇって。

笑顔で話せるのって とても幸せなことだと思います。

 

「コロナ」という 見えない敵と戦わなくてはいけない今。

アメリカと中国はけん制しあっていたりするけれど。

そんな場合ではありませんね。

全世界が手を携えて 協力しあって 戦わないと 今までのような日常はもどりません。

「戦争は悪いことはあっても よいことはひとつもない」

祖父の言葉を忘れないように。

そんな状況のなかでも 少しでも 人っていいね って思えるように。

ひとりひとりができることを惜しみなくして。

相手を思いやっていきたいですね。

 

いろいろな意味で。

世界に平和が戻りますように。

平和が長く ながく つづきますように 祈ります。

 

 


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