恵み野に移り住んで家は新築で気持ちは良いし、このまちに移り住んだ子ども達はみんなが始めての場所だったから、直ぐにお友達も出来たようで親の私はホッとした。
虻田町に住んでいた時は、高台に住んでいたので毎日海が見えて、周りには川があり森の緑に囲まれていた。
自然大好きのシンゴは学校から帰ると直ぐにダイスケを従えて川や森に向かい、ザリガニやドジョウを取りに行ったり、森を掛け廻って遊んでいた。だから我が家には、川や森の収穫物が集まったし、外であった出来事もつぶさに教えてくれた。直ぐそばの神社のおじいさんが落ち葉で焚き火をして、蛇を焼いて食べていたことも口を尖らせながら我先にと伝えてくれた。
二人して「おかあさ~ん。おかあさ~ん。大変だ~。リスさんが、リスさんが~死んじゃった~」と泣きじゃくって帰ってきた時があった。あまり大きな声なので、外に出て見ると頭からしっぽまで30㎝はありそうな丸々太ったネズミだった。
恵み野に慣れた頃、シンゴが「ここは、自然が無いから嫌だな〜」とポツリと言った。
確かに恵み野は、造られた街なので川が流れていても自然の川とは違う。
『そうか〜』と思ったが、恵庭には少し行くと漁川もあるし緑も沢山ある。タダ家の周りは住宅ばかりで中央公園に流れている川は、キレイに整備されていて自然の川とは感じ難い。前いた場所の環境とはかなり違う。
しかし私は、恵み野に来て安心していた。以前いた学校は、読み聞かせが盛んで、お母さん方が読み聞かせをする日が設けられていて、教育熱心な学校とも言えるのだが、生徒指導というか家庭での生活や個人の出来不出来がグループ評価によってなされていた。
シンゴは、忘れ物が多いし、宿題もしていかない日も多い。個人評価だと「困ったね~~」で終わることも、これがグループでの評価になるとそうはいかない。
グループの長(班長)は立候補と推薦からなり、班長になった子が初めの1人の子を選び、順繰りに班ごとに次々に仲間を選ぶやり方だった。だから、班の足を引っ張る子は、必ず残って最後に選ばれる仕組みになっていた。
グループ評価は、模造紙にグラフが書かれていて、みんなが出来ていると棒グラフが伸びていく。シンゴが入ると棒グラフは進まない。ほんとグループに取っては、大変迷惑な存在なのだ。だから、班選びの時はシンゴはいつも最後の1人だった。
正義感のある班長さんや班の仲間からは、毎日順番でシンゴに電話が掛かって来た。「シンちゃん、宿題忘れないでね。ティシュ、ハンカチ忘れないでね。爪もちゃんと切って来てね」連帯責任なのだから班の仲間だって大変だ。
イヤイヤ・・私も悩んだ。シンゴに絶対使っちゃいけないハンカチ・チリ紙セットを持たせた。爪も伸びたら直ぐ切るように心がけた。タダ一つ宿題だけは、どうする事も出来なかった。シンゴもしなきゃいけないという気持ちは心の底に残っているらしい。夕食を終えて
「さあ〜シンゴそろそろ〜」と私が言うと、シンゴの頭にシャッターが下りるようである。シャッターが下りると宿題なんて全然進まない。テーブルに何時間座っていてもエンピツは、シンゴの指の中でクルクル回っているだけだった。
私にも経験がある。言われたら「今やろうと思ったのに・・・」と言って中々進まない。私の子だからな~と思っても、宿題していかなきゃ本人も責められるし、みんなにも迷惑かけちゃうし。でも、出来なくなる気持ちもわかるし・・・。「う~ん?」3年間、親子して悩んだ。
ダイスケは何にも言わなくても、テレビを見ていてコマーシャルになった瞬間、宿題をこなせる子だったから何も云う事なし。
だから恵み野に来て、グループ評価が無くなり個人の責任になったとき、自由がやって来たような開放感が私の中で生まれていた。でも、友だちと元気いっぱい遊べる今よりも、シンゴには自然いっぱいの場所の方が良かったのかな~とも考えた。が、いやいやいやいや考えまい。
それから暫くすると、シンゴも学校になじんでいった。4年生の担任はベテランの葭川先生でシンゴの資質をよく見てくれて忘れ物が多いのは違うものに集中しているから大丈夫。人と違うのはその子の個性だから大丈夫と褒めてくれた。5、6年生になった時、自然大好き、音楽大好きの吉弘先生が担任になった。
教訓1ー人はやりたい事はいつまでも出来るけれど、押し付けられることは出来ない。
教訓2-親も悩むし、子も悩む。ともに悩んで成長しよう。
教訓3-同じ親から生まれても3人3様みんな違う。みんな違って面白い。
教訓4-人の出会いは宝なり。
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