瓢簞舟の「ちょっと頭に浮かぶ」

こちらでは小説をhttps://kakuyomu.jp/works/16816700427846884378

箸休め(身辺雑記)

2014-02-01 08:22:29 | 本の話
飯を買って帰ろう。あれこれするのは面倒だ。さっさと寝たい。
そんな食って寝るだけの生活に疑問がないではないが、頭がわるいくせにごちゃごちゃ考えるのは身体にも心にもわるそうだ。


「まだお前は、どこか、からだ工合がわるいのか」
 と伯父の局長に聞かれても薄笑いして、
「どこも悪くない。神経衰弱かも知れん」
 と答えます。
「そうだ、そうだ」と伯父は得意そうに、「俺もそうにらんでいた。お前は頭が悪いくせに、むずかしい本を読むからそうなる。俺やお前のように、頭の悪い男は、むずかしい事を考えないようにするのがいいのだ」と言って笑い、私も苦笑しました。
 この伯父は専門学校を出た筈(はず)の男ですが、さっぱりどこにもインテリらしい面影が無いんです。
  (太宰治「トカトントン」より)


できそこないの頭で考えたところで、糸はもつれにもつれ、ことはかえって複雑になるばかり。ものごとはわかりやすいほうがいい。生きるとは、たぶんもっと単純なことのはずなのだ。食って寝る。それで充分ではないか。自らわざわざことをむずかしくして生き難くくするなんて莫迦な法はない。生きることを素直にたのしむのがいいのである。よろこびとしあわせを感じるために生まれてきたのだから。

と、飯をもとめてスーパーに立ち寄ったときに気がついた。手袋がない。落としたのだ。しかも片方。これが両方なら残念な出来事とはいえ、少しの時間があれば気分も落ち着く。落としたものは仕方がない。あきらめよう。愛着はあっても執着はしない。必要以上にとらわれつづければ、心は澱(よど)む。流れる水は腐らない。ひとつところにとどまらないに限る。
両方落としたのなら、ことは左様に簡単だ。だけど落としたのは片方。なんとも中途半端な気分に戸惑う。あきらめようにも片方の手袋は手許にあるのだ。手許にありながらそれをあきらめるというのはむずかしい。とはいうものの、手許にあったところで使えないのであれば無いのも同じ。有るけど無い。なるほど、これはこれで禅問答じみてておもしろくもある。いや、いまはそういうことを考えている場合ではない。さてこの残された片方だけの手袋、どうしたものか。

あ、そうか。いま通ってきた道を戻れば、もう片方はそこに落ちている。財布ならともかく片方だけの手袋を拾う奴なんていない。そこにあるものだから、あきらめようかどうしようかなんて考えるまでもなく、ただ拾いに行けばいいだけである。
私はもう手袋を見つけた気で、来た道をたどり始める。

引き返せば、そこにある。そこがどこかはわからないけれど、間違いなくある。あるものは見つかる。こんな考え方は能天気というか楽天的というか、なんとも手前勝手な思い込みなのだが、私にとっては極あたり前の感覚で能天気なんぞとはこれっぽっちも思っていない。落ちているものを見つけるのは当然で、それ以外のことなんて考えもしないのである。
だから数メートルも戻ればそこにある気がしていた。しかしそんなに都合のいい展開にはならない。ま、仕方がないか。物語というものは焦らさないとおもしろくない。思い通りにとんとん拍子に進んではなんの手応えもなく、やりがいなんてないもの。障碍があってこそ恋愛は燃えるのだ。いや、これはまた別の話である。

たどるのは駅までの10分程度の道。たいした距離ではない。たいした距離ではないだけに半分以上戻っても見つからないと、さすがにこれはダメかもしれないという気分になってきた。ゴールである駅はすぐそこである。物語ならクライマックスで劇的な展開になるところであるが、私の歩調は相変わらずで淡々と駅に向かうだけで立ち止まることはない。
結局見つけられないまま駅の改札口まで来てしまった。手袋の落し物はありませんか、と悪あがきのようなことを駅員に訊いてみたけれど、答えは思ったとおり。そういった遺失物の届けはない。


あの青い空の波の音が聞こえるあたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまつたらしい

透明な過去の駅で
遺失物係の前に立つたら
僕は余計に悲しくなつてしまつた
 「かなしみ」 谷川俊太郎


駅員に断って駅構内を捜してみる。小さな駅だ。なにも落ちていないことはすぐに知れた。残念でしたねという駅員の声を背に駅をあとにする。ここまでくると、私が残念なのは手袋が見つからないことではなく、あるものは見つかるという確信というか自明のことが破綻したことにある。両方失くしたのならともかく、片方は手許にあるだけにまだつながっているという思いがあり、それが見つかって当然という確信になっていた。それが破綻したのだ。ここにいたってようやく私も自身が能天気に過ぎたと気がついた。片方失くした時点でこの手袋との縁は切れていたのだ。まだつながっているというのは私の勘違いであった。
思えば、いつもなら手袋をするところを今日に限りなぜかする気にならなかったというのが落とした原因である。そんな些細な気持ちの揺らぎが縁のあるなしに関わってくるのだろう。ふしぎなものだ。なぜ今日に限り手袋をする気がしなかったのだろう。日中はあたたかくなってきたとはいうものの、夜になれば冷えるのに。自分の気持ちのくせに自分でも説明がつかない。なにやら得体の知れぬものにからめとられているような気がする。因果律は網目のようで、私の理解を超える。ゆえに世界は不条理。

縁のふしぎを思いつつ、ふたたびスーパーへ向かう。腹は減っているのだし、だいいち眠いのだ。余計なイベントのせいで遅くなった。ま、縁についてちょっと考えたのが収穫といえば収穫か。しかし今はそんなことより、さっさと寝たいのだ。
再度おなじ道をたどり始め、ここで見つけたら結構笑えるなあ、なんぞと思ったりする。ドストエフスキーは死刑宣告のあと恩赦で命拾いする。それになぞらえるのは大袈裟だけれど、一度あきらめて気持ちの整理をしたあとでそれをひっくり返すような出来事へと展開していくと、うれしいというよりはただただ気持ちをぶんぶん振り回されているだけでなんだか災難にあっているようでもある。そうなればもう笑うしかないではないか。

本当に笑うことになるとは思わなかった。事実は小説よりも奇なり。よく言ったものだ。道の端、川に落ちそうになっているそれを見つけた。見つけにくい場所といえばいえるけれど、今は見つけたわけだし、さっき見つけられなかったのがふしぎな気もする。私は頭がわるいから、こんな展開になると脳みそがショートする。こいつ、さっきはどこかへ隠れていたんじゃないかしら、なんぞと馬鹿げたことを思ってみたり。手袋が私をもてあそぶようにかくれんぼなんかするはずないのにね。

ともかくも、お帰りなさいである。縁はかろうじてつながっていたらしい。見つかってよかったとはいうものの、このできごとでなにかがプラスになったというわけでもなくゼロに戻っただけ。得も損もしていないけれど気分的には損というか余計なことをしていただけのような気がする。振り出しに戻るくらいなら、はじめから振り出しから動かなければいいのに。
とはいうものの、そういうことをいうなら、どうせ死んでしまうのだから生きることなんてないじゃないということにもなってしまう。そうではない。振り出しに戻ったとしても、そこは最初の振り出しとは似て非なる振り出しのはずである。ある過程を経て振り出しに戻ったのだ。そのある過程にはしっかりと意味はある。その意味を携えて振り出しに戻ってきたのだ。最初とおなじ振り出しではあるまい。おなじ場所でありつつ違う意味を新たに所有したということは、円を描いたというより螺旋を描いたというべきだ。「十牛図」はおそらくそういうことなのだろうと理解している。

縁については時折考えたりもするのだが、今回もそのふしぎを体験しつつ考えた。切れたりつながったり。落とした手袋とはつながっていた、というか強引に手繰り寄せた感もあるのだが、そうして縁をつなぎとめた代わりに別の縁を結びそこなったともいえるのである。落とした手袋の代わりに手袋を新調するという機会を逸したのだから。
年初めに引いたおみくじを思い出す。

失物いづるとも出づとも失物のかわりに何かよき物を得べし

なにかを失ってもそのままということはなく、別のなにかを得るものなのである。人と物との縁がつながったり切れたりしながら人生は彩られていく。袖振り合うも多生の縁というが、この縁というもの、このふしぎを納得しようと思えば前世だの宿世だのといいたくもなるのである。

実際、こういうできごとがあったから私はこれを書いているわけだが、これにしても縁であろう。このできごとがなければ、あたりまえのことだが、この文章も存在しない。あなたもこの文章を読むことはなかった。でも私は手袋を落とし、この文章を書いた。それをあなたは読んでいる。私が手袋を落としたという些細なことがこれを読んでいるあなたにまでつながっているのである。あなたにつながったその先に、またどこかのだれかにつながるかもしれない。どうでもいいことのように思うかもしれないが、そんなちょっとしたことで歯車が噛み合ってなにかが動き出したり、その反対だったりするのである。

最近、鴎外の「雁」を再読した。再読といっても前回読んだのは高校生のときだから内容はすっかり抜けていた。はじめて読んだのとおなじである。だいいちタイトルの「雁」を私は「かり」と読むのだとばかり思っていた。ルビに「がん」とあるのに、どうしてこういう思い違いをしていたんだろう。
それはさておき、物語は次のような終焉をむかえる。


西洋の子供の読む本に、釘(くぎ)一本と云う話がある。僕は好くは記憶していぬが、なんでも車の輪の釘が一本抜けていたために、それに乗って出た百姓の息子が種々の難儀に出会うと云う筋であった。僕のし掛けたこの話では、青魚(さば)の未醤煮(みそに)が丁度釘一本と同じ効果をなすのである。


どんな効果をなしたのか。つまり、僕は青魚の未醤煮が嫌いなため食事をするのをよして、隣の部屋の岡田に声を掛けていっしょに散歩にでることにする。青魚の未醤煮が夕食でなければ僕は食事をしたのだし、岡田はたぶん一人で散歩にでたのである。青魚の未醤煮が僕と岡田の行動を支配したといえる。
そして二人いっしょに散歩にでたがために、岡田とお玉の行動にも変化が起こる。どうなったのか。


一本の釘から大事件が生ずるように、青魚(さば)の煮肴が上条の夕食の饌(せん)に上(のぼ)ったために、岡田とお玉とは永遠に相見ることを得ずにしまった。


僕と二人で散歩をしていなければ岡田とお玉は会っていたのだろうし、会っていれば関係も違ったものになっていたかもしれない。縁がつながりそうでつながらなかった瞬間である。ほんの些細なことで岡田とお玉の歯車は噛み合うことなく終わってしまった。しかもその些細なことは岡田にもお玉にも関係ない青魚のせいである。
所詮小説ではないか。作り事なんだからなんとでも作れるではないか。そう思う人は小説なんぞ読まないほうがいい。ここにリアリティを感じられる人が小説をたのしめるのである。手袋ごときで縁がどうのこうのと考える性質(たち)の私だから、当然青魚の未醤煮の効果はさもありなん、である。人生はこういうふうにできているのだと、岡田とお玉の関係を切なくも感じる。

まことに微妙なつながりの内で私たちは生きている。もし、これを読んだあなたの気分に変化が起こり、その気分による行動が何かとつながるか、もしくは切れるかしたとしよう。その縁のつながり、あるいは切れ目の元をたどれば私が手袋を落としたことに行き着く。そう考えれば世の中のあれこれのなんと味わい深いことか。すべてが奇跡のように思われもする。


あとがき
長文にお付き合いいただき感謝します。お疲れさまでした。
書くのは確か四回に分けて書いたかな。数時間毎に更新されるのをリアルタイムで読んだ人は四回に分けて読んでいるわけで、それはそれで疲れることだっただろうけど、あとからまとめて読む人はその比ではないだろうね。
この項、5000字くらいある。400字詰め原稿用紙で12枚半である。さらにこうして、あとがきを加えてるから13枚以上は確実。長文だね。長いね、長過ぎるね。最後まで読んだ人は少数派かもしれないね。途中放棄の人が多そうだ。
「この項、書きかけ」でつながず、タイトルを「その一」「その二」としてはじめから分けてしまえばよかったと反省している。でもまさかこんなに長くなるとは思ってもみなかったからね。
ま、ともかく、読んだあなた、書いた私、お互いよくがんばったと自分をほめてこの項を終わりとしましょう。

追記
結局あとがきの分を加えて5400字くらい。13枚半だね。紙の本ならそうでもない分量だけど、PC画面ではキツイよね。他(ひと)はそうでもないのかしら。少なくとも私はキツイけど。途中で読む気なくなる。以後気を付けます。今回はご寛恕を。
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