あたしは我々のしていることに対して、正しいとか間違っているとか、ついつい言いたくなるんだけど、本当のところは正しいも間違いもないんだろうね。私たちは素直に私たちのありようを示しているだけなんでしょう、きっと。
あたしも一応人類の端くれだから、人類の内側から私たちのするあれやこれを見ているからね。内側からの視点だと基点が人類になるのは当たり前だし、そこから見える物事に良いの悪いのと判断を下すのも仕方がないとも思うのよね。言い訳っぽく聞こえるかしら。でも内側にいるってことは関係者なのよ。関係者が物事の良し悪しを言うのは当然でしょ。自分に関わってくることなら少しでも良くしたいもんねえ。
だけど内側から飛び出して、人類の外側にまわって見てみれば、人類のしているあれやこれに正しいも間違いもないのよね。人類の外側からの視点というのは想像しにくいかもしれないけれど、異星人の視点を想像してみればいいのよ。異星人が地球人を見る。地球人のしていることに対して異星人が正しいとか間違っているとかなんて判断しないでしょう。地球人はこういうことをするのだなという事実確認するだけ。ま、馬鹿なことやってるなあ、ぐらいは思うかもしれないけれど。
異星人が地球人を見る目は、つまり我々が他の生物を見る目よね。チンパンジーとかカッコウとか、ま、なんでもいいけど、生物の生態を観察する、あの見方ね。生態を観察してて、その生物のやってることに対して良いの悪いのなんて言わないもんねえ。カッコウは托卵をするんだな、というだけの話でそれを良いとか悪いとか言わないでしょ。とんでもない手抜きをする鳥だなあ、とは思うけど。
あたしは人間のしているあれやこれに対して総体としては絶望しているんだけど、それは内側から見てるからなの。外側にまわってみれば、人間ってこんな存在なのねってだけの話。良いも悪いもなく、これが人類というものである、というただそれだけ。
で、そんな人類の行き着く先は幸せな結末とは言えなさそう。あ、あくまで人類の視点から見てよ。外側から見てれば幸不幸もないから。ま、絶望してる人間の見方なんだから当然よね。希望にあふれた人から見れば、人類の未来は明るく見えるだろうけど。
内側にいる者としては絶望を感じるんだけど、外側からの視点を導入したときには、ま、こうなるよりほかないよなあ、と認めるだけ。そうやって人類のしているあれやこれを肯定してみると、人類はつなぎに過ぎないんじゃないかという気がしてきたのよ。次なる存在が登場する土台作りをしているというかね。
あたしも人類の当事者だから、このままじゃ救われないと思い、絶望したりするんだけど、当事者からはずれた視点で見てしまえば人類はいくつかあるステップの一つにしか見えなくなる。そんなふうに見てしまえば絶望どころか、人類の次には何が来るんだろうという楽しみにさえなってくるのよね。もちろん、次の存在の登場にあたしは立ち会えないんだけどね。
それにしても次の存在ってどんなだろうねえ。あたしの想像では生命の概念では括れない何かだって感じがするのよ。
弁証法的に正反合でいえば、自然(正)と人間(反)を止揚して、次なる存在(合)。これは生命を離陸しそうじゃない? それがどんな存在かってなると、あたしの妄想力では追いつかなくて残念。
ともかく世界の実相なんて解らないんだから、この先どんな展開が待っているかなんて計り知れない。それを思うとわくわくするね。人類なんていう、ちまちましたこと思い煩っているから絶望するのよ。世界の奥行きの深さに思いを馳せなさいよってことね。宇宙論だってマルチバースをSF作家ではなく科学者がいう時代なんだから。
あたしも一応人類の端くれだから、人類の内側から私たちのするあれやこれを見ているからね。内側からの視点だと基点が人類になるのは当たり前だし、そこから見える物事に良いの悪いのと判断を下すのも仕方がないとも思うのよね。言い訳っぽく聞こえるかしら。でも内側にいるってことは関係者なのよ。関係者が物事の良し悪しを言うのは当然でしょ。自分に関わってくることなら少しでも良くしたいもんねえ。
だけど内側から飛び出して、人類の外側にまわって見てみれば、人類のしているあれやこれに正しいも間違いもないのよね。人類の外側からの視点というのは想像しにくいかもしれないけれど、異星人の視点を想像してみればいいのよ。異星人が地球人を見る。地球人のしていることに対して異星人が正しいとか間違っているとかなんて判断しないでしょう。地球人はこういうことをするのだなという事実確認するだけ。ま、馬鹿なことやってるなあ、ぐらいは思うかもしれないけれど。
異星人が地球人を見る目は、つまり我々が他の生物を見る目よね。チンパンジーとかカッコウとか、ま、なんでもいいけど、生物の生態を観察する、あの見方ね。生態を観察してて、その生物のやってることに対して良いの悪いのなんて言わないもんねえ。カッコウは托卵をするんだな、というだけの話でそれを良いとか悪いとか言わないでしょ。とんでもない手抜きをする鳥だなあ、とは思うけど。
あたしは人間のしているあれやこれに対して総体としては絶望しているんだけど、それは内側から見てるからなの。外側にまわってみれば、人間ってこんな存在なのねってだけの話。良いも悪いもなく、これが人類というものである、というただそれだけ。
で、そんな人類の行き着く先は幸せな結末とは言えなさそう。あ、あくまで人類の視点から見てよ。外側から見てれば幸不幸もないから。ま、絶望してる人間の見方なんだから当然よね。希望にあふれた人から見れば、人類の未来は明るく見えるだろうけど。
内側にいる者としては絶望を感じるんだけど、外側からの視点を導入したときには、ま、こうなるよりほかないよなあ、と認めるだけ。そうやって人類のしているあれやこれを肯定してみると、人類はつなぎに過ぎないんじゃないかという気がしてきたのよ。次なる存在が登場する土台作りをしているというかね。
あたしも人類の当事者だから、このままじゃ救われないと思い、絶望したりするんだけど、当事者からはずれた視点で見てしまえば人類はいくつかあるステップの一つにしか見えなくなる。そんなふうに見てしまえば絶望どころか、人類の次には何が来るんだろうという楽しみにさえなってくるのよね。もちろん、次の存在の登場にあたしは立ち会えないんだけどね。
それにしても次の存在ってどんなだろうねえ。あたしの想像では生命の概念では括れない何かだって感じがするのよ。
弁証法的に正反合でいえば、自然(正)と人間(反)を止揚して、次なる存在(合)。これは生命を離陸しそうじゃない? それがどんな存在かってなると、あたしの妄想力では追いつかなくて残念。
ともかく世界の実相なんて解らないんだから、この先どんな展開が待っているかなんて計り知れない。それを思うとわくわくするね。人類なんていう、ちまちましたこと思い煩っているから絶望するのよ。世界の奥行きの深さに思いを馳せなさいよってことね。宇宙論だってマルチバースをSF作家ではなく科学者がいう時代なんだから。