註)前回の追記で「願ったり叶ったり」をもう少しわかりやすく書き直したいとありますが、この記事はその意図で書く記事ではありません。h_tutiyaさんがくれたコメントへの返信として書くものです。なので、相変わらず解りにくいと思います。まだまだ錬られていませんので。その点、あらかじめご了承のほどを。
確かに不幸自慢なんて言い方がありますね。本人にどの程度自覚があるか分かりませんが楽しいんでしょうねえ、不幸だ不幸だと言いながら。悲劇のヒロインであることに酔う、とかね。
で、h_tutiyaさんのおっしゃる通り大枠で願いが叶ってるからこその不幸自慢ということもあるでしょう。不幸を楽しむ余裕があるのは望みの基礎部分をクリア出来てるってことでしょうから。
そういう意味での「願ったり叶ったり」な人生という側面もあり、また「猿の手」的な意味での「願ったり叶ったり」な人生もあるんだろうと思います。「猿の手」ではお金が欲しいと願ったらお金が手に入った。しかし息子の死と引き換えに。
あたくし、原付きでコケて骨折したことがあります。で、1ヶ月あまり仕事を休みました。
骨折したんですから酷い目にあったわけです。ですが、心身ともに疲弊していた時期で骨折して入院したのはいい休養でもありました。で、思うのです。あの時あたくしは休みたかったんだなあ、と。それが願いだった。けれど、おいそれと仕事を休むわけにもいかず無理をしていた。休みたいという思いにも気がつかないまま。
骨折してみて自分が休みたかったことに気がついた。自分の望みに気がついた。願いは叶ったわけです。骨折したかったわけじゃありませんけどね、もちろん。
そういう形を望んだわけではないけれど、そういう形で本心の望みは叶ってる。そんなことも結構あるんじゃないかしらん。
振り返ってみればポイントは外していない。案外願いは叶ってる。表層では泣いたり笑ったり幸不幸は目まぐるしくやってきますが深層ではただただ満ち足りている。そんな気がするのです。
h_tutiyaさんがおっしゃる通り、虐待で亡くなる子は本当に気の毒としかいいようがありません。世界を見渡せばテロや飢餓で亡くなる子も多い。本当の不幸です。望んで死んでいくはずがありませんから。
なので、あたくしの言ってることは一部の人に当てはまるだけでしょう。みんながみんな「願ったり叶ったり」な人生ってわけでもない。願うはずもない残酷な世界を生きて死んでいく人たちもいます。
すみません。筆が止まりました。思考停止です。ただ嘆くばかりで言葉が出て来ません。残酷も愛の一形態だとは思いますが、なんともやりきれない。
中途半端ですが今回はこれで終わります。