瓢簞舟の「ちょっと頭に浮かぶ」

こちらでは小説をhttps://kakuyomu.jp/works/16816700427846884378

内なる悪魔

2018-01-03 10:07:21 | 随想
大衆という名前のない人々は恐ろしい。

卑近な例では芸能人である。
大衆は彼らをマスコミを通じて知るのみである。にもかかわらず、さも彼らの人となりをよく知っているかのように賛美するかと思えば一転こき下ろす。バッシングがひとたび起こればその炎は瞬く間に燃え上がる。ネット社会になりその惨状が酷くなったと誰もが感じるところではないか。大衆によるリンチだ。匿名の大衆ゆえに起こる惨状である。

芸能人のことならまだいい。といっては芸能人に申し訳ないが、彼らはそれを承知で芸能界にいるのだ。芸能人をしている恩恵と引き換えの代償だからやむを得まい。

芸能人のことならまだいいが、この名前のない大衆が政治、ことに戦争を左右するから恐ろしい。

大衆は熱しやすく冷めやすい。
にわかに希望の党が躍進の勢いをみせたかと思えば、党首の軽率な発言で大衆はそっぽを向いた。
同時多発テロが起きたときアメリカは大衆の熱を味方につけ簡単に軍事行動に移った。
このような例は歴史上枚挙にいとまがない。

私たち大衆はかように軽率で愚かである。一人ひとりであるときなら冷静で思慮深くいられても、名前のない大衆になった途端何をしでかすやら分からない。大衆心理恐るべし。

システムとして、この恐るべし大衆を押し留めているのが憲法9条である。が、政治家は戦争の恐怖を煽り改憲を大衆に迫る。大衆の愚かな流動性を考えれば結果は自ずと知れる。為政者はこうしていつの世も大衆を扱ってきたのだ。してやったり、とほくそ笑む。

私たちの内には大衆という悪魔が巣食っている。私たちは大衆になってはいけない。いつ如何なる時も一個人である。熱しやすくもなく冷めやすくもなく、感情的にならず理性的であること。一個人でいるなら出来るはずだ。

私たちは無思慮で無責任な大衆にならず、思慮深い責任ある一個人に踏み留まる。私たちが一個人に踏み留まることが戦争の手前で踏み留まることになるのだ。


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