利根川、江戸川と利根運河に囲まれた東葛地方は水運との関係が深い場所です。中でも赤松宗旦(1806-1862)が著した『利根川図志』にも記され、是非、この目で見ておきたいと思っていたのが、布川と木下の河岸と町です。秋日和の水曜日、江戸時代から昭和初めまで水運で繁栄した布川と木下を訪ねました。
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先ずは上流の布川(ふかわ.茨城県北相馬郡利根町)から。と言っても河岸が残っているわけではなく、過去の繁栄を偲ぶ町での痕跡巡りです。写真右手のこんもりした山が中世に布川城のあった場所。千葉県と茨城県を結ぶ栄橋(写真中央)は渋滞の名所ですが、昔も今も交通の要衝であることは変わりがないようです。下を流れる利根川は江戸時代の東遷事業以降の流れで、それ以前は陸続きであったということです。
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布川城のあった場所には現在は徳満寺(真言宗豊山派 海珠山)の境内になっています。水運は富をもたらし、村も寺も栄えました。富は文化を築き、地元のパトロンを頼りに小林一茶も足繁く訪れ、ここ徳満寺をはじめいくつかの場所に句碑を見ることができます。また、現在、徳満寺本堂にある「間引きの絵馬」は少年柳田国男に影響を与えました。
◆柳田国男 利根町での2年間(利根町ホームページ)
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『利根川図志』の著者、赤松宗旦旧居を訪ねました。利根川堤防際にある質素な家屋です(復元)。内部で利根川図志やそれに関連する資料(複製)を観ることができます。
医師であった赤松宗旦は私財を投じて広範な調査の末に『利根川図志』6巻を著し、後代に大きな遺産を残しました。
少年時代を2年間ほど布川で過ごした柳田国男は『利根川図志』から大きな影響を受け、後にこの本の校訂を行っています。
◆利根川図志(ウィキペディア)
◆赤松宗旦(利根町ホームページ)
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利根川の景(明治後期~大正初期頃の絵葉書)
『故郷七十年』(1959)に描かれた「利根川を上下する白帆」とは、こんな光景だったのでしょうか。
「…私は、その低い松林の上をだしぬけに、白帆がすうっと通るのを発見した…利根の川口から十七、八里も溯った所の松原の上を、そんなふうにして白帆が三分の二ぐらい姿をあらわしながら上下している。」(『故郷七十年』「利根川の白帆」から)
◆柳田国男『故郷七十年』(青空文庫)
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宗旦は、文久2年(1862)4月に没しました。57歳でした。執筆中だったと思われる利根川図志の後編は世に出ることはありませんでした。
墓は利根町の来見寺(曹洞宗瑞龍山)にあります。墓碑は死の翌年、弟子たちによって建てられました。
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栄橋に戻り利根川右岸の堤防を銚子方面に歩きます。隣りの河岸、木下(きおろし.千葉県印西市)までは約2.4kmの距離です。しばし、孤独な散歩者になり水運の昔を想像しながら歩きます。『旅する練習』を思い出しました。
手賀排水機場を過ぎると、銚子屋旅館が見えてきて、いよいよ木下河岸です。のんびり歩いたので45分ほどかかりました。
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迎えてくれた「木下河岸跡」の説明板。今は、これだけが木下河岸のすべてのようです。
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木下河岸があった辺り。河岸を中心に町場が形成され、江戸時代には水路(利根川)と陸路(鮮魚街道)の物流中継点として、また、遊覧船として人気のあった木下茶舟などの起点として繁盛していたのでしょう。
しかし、時代は変わり、通運丸や銚子丸が就航したのも束の間、水運は廃れ、河川改修や堤防の改修に伴い町は山側へと移動し、現在、河岸場の賑わいを伝えるものは何も残っていません。
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河原に下りたってみても河岸場の雰囲気は微塵もありません。川面には鴨の一団が浮かび、上空にはトンビが舞っていました。
◆大正初期~昭和初期頃の絵葉書に見る利根川
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高瀬舟が浮かぶ利根川の風景。場所は不明ですが、川幅が広いので河口に近いのではないかと思われます。
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高瀬舟と外輪蒸気船(通運丸)が行き交う風景(潮来)です。このような光景が明治から昭和の初めごろまでは利根川では普通だったのでしょう。
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布川城跡の石碑(徳満寺) / 徳満寺山門の地蔵尊
廃屋の猫(布川)
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利根の河原の芒 / 堤防の標識
蔵の秋(木下)
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木下の老舗、銚子屋旅館 / 蕎麦の柏屋
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木下駅の解説パネル / 木下駅に進入する成田線の電車
お土産はこれ。木下駅前の煎餅屋さんで懐かしの味。
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布川河岸と木下河岸のあった場所に立つための小旅行でしたが、実体のない利根川の畔に立ってみても空しいものがありました。文献の上でしか知ることができないのは悲しいのですが時の流れは致し方ありません。
傾いた日の中を上り電車がやってきて、河岸巡りの小旅行は終わりました。成田線に乗ったのは何十年振りでしょうか。行商のおばちゃん達も今は昔の物語。E231系に揺られて煎餅とともに帰った秋の一日でした。∎
Nikon Z 6 / NIKKOR Z 24-50mm f/4-6.3