松戸市立博物館で開かれている、「よみがえる画家;板倉鼎・須美子」展に行ってきた。同時に、別途、資料室にて、現在進行中の戦時中の資料の確認をする目論みもあった。行きたいと思いつつもタイミングが合わず、いよいよ最終日の今日になってしまった。美術展に行くのは、これが今年初めてかも知れない。
埼玉県に生まれた板倉鼎(かなえ.1901-1929)は松戸にゆかりの画家である。医師である父親の開業に伴って松戸市に移り住み、東京美術大学を卒業。千葉に題材を求めた作品も多い。妻になった須美子(1908-1934)も、結婚により中退したが、文化学院で学んだ才女であった。
鼎の、風景や夫人を描いた作品からは、大正期の恵まれた環境での幸福感に包まれた雰囲気が漂ってくる。そこに暗さはなく、明るい構成とそこはかとない詩情があって、画家よりも倍以上生きている私にはいたたまれなさを感じるほどである。時代を追って画風にも相違が現れ、画家が留学中のパリの画壇に学び、模索していたであろうことが窺える。
二人の絵を見ている限り、この大正モダニズムの後に暗澹、殺伐とした戦争の時代がやってくるとは思えない。特に、須美子の絵は現代でも通じるくらいモダンである。それほど、幸福感が満ちているのである。幸福感があからさまなら、喧騒から隔たった静謐な生活と言い換えようか。ところが、この若い、繊細な画家は留学中のパリで急死する。28歳であった。葬式は岡鹿之助が取り仕切り、中條(宮本)百合子が残された須美子に付き添った。帰国した須美子は、夫に教えられた絵を描き続けるものの、25歳で結核のため帰らぬ人となる。夫婦とも、あまりにも早い死が惜しまれる。二人が、あの戦争の時代を経験しなかったことがせめてもの救いと思う。
埼玉県に生まれた板倉鼎(かなえ.1901-1929)は松戸にゆかりの画家である。医師である父親の開業に伴って松戸市に移り住み、東京美術大学を卒業。千葉に題材を求めた作品も多い。妻になった須美子(1908-1934)も、結婚により中退したが、文化学院で学んだ才女であった。
鼎の、風景や夫人を描いた作品からは、大正期の恵まれた環境での幸福感に包まれた雰囲気が漂ってくる。そこに暗さはなく、明るい構成とそこはかとない詩情があって、画家よりも倍以上生きている私にはいたたまれなさを感じるほどである。時代を追って画風にも相違が現れ、画家が留学中のパリの画壇に学び、模索していたであろうことが窺える。
二人の絵を見ている限り、この大正モダニズムの後に暗澹、殺伐とした戦争の時代がやってくるとは思えない。特に、須美子の絵は現代でも通じるくらいモダンである。それほど、幸福感が満ちているのである。幸福感があからさまなら、喧騒から隔たった静謐な生活と言い換えようか。ところが、この若い、繊細な画家は留学中のパリで急死する。28歳であった。葬式は岡鹿之助が取り仕切り、中條(宮本)百合子が残された須美子に付き添った。帰国した須美子は、夫に教えられた絵を描き続けるものの、25歳で結核のため帰らぬ人となる。夫婦とも、あまりにも早い死が惜しまれる。二人が、あの戦争の時代を経験しなかったことがせめてもの救いと思う。
「よみがえる画家;板倉鼎・須美子」展(松戸市教育委員会主催)会期;平成27年10月10日~11月29日、松戸市立博物館企画展示室