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野田紀行 人車が走った町 2

2021年04月01日 | ぼくのとうかつヒストリア
埋もれた人車鉄道

野田人車鉄道

醤油の町、野田では町の中に醸造所がいくつも散在していて、作られた醤油は馬の背や荷馬車に揺られて町を通り抜け、江戸川畔にあるふたつの河岸のいずれかに運ばれました。そこで高瀬舟(野田舟)載せ替えられ江戸などに運ばれていました。
明治になり需要が増大すると河岸までの出荷ルートを近代化する必要が出てきました。そこで考えられたのが人車による輸送力の強化です。

「人車」は、人あるいは貨物を乗せた車両を人が押す小規模な鉄道です。現在では、このような発想すらないと思いますが、明治30年前後から昭和初期頃まで日本にはいくつかの人車鉄道が誕生しています。野田の醤油醸造組合では、馬に代わって人車に醤油樽を積んで工場から船着き場まで大量輸送を行おうとしたのです。

明治31年(1898)11月、野田の町議会において人車鉄道の敷設に関する原案が満場一致で可決されました。翌明治32年(1899)6月に、野田醤油醸造組合臨時総会において敷設出願を行うことが決定されます。認可(特許)は同年9月に下りました。


明治33年(1900)1月、醸造組合は野田人車鉄道株式会社を設立し、工事に入りました。開通は同年12月。これで、レールによって各醸造所から河岸までが直結されたのでした。全線単線、待避所4か所、車両30輌前後でした。


野田人車鉄道の模式図
資料を元に推定して作成した略図です。醸造所や引込線の位置などは大幅にアバウトです。数字は以下の写真の撮影地点です。


軌間は762mm、双頭レール(断面が工形)を使用し、軌条と枕木は地面に埋没させ砂利又は平石を敷き詰めて公衆の通行に支障がないようにする、つまり、路面電車の軌道のようにレール上面と路面が一致する定めです。当時の写真に軌条だけが見えるものが多いのですが、これはそのためです。

人車の車体(2人押し、2トン車の場合)は、縦横約2.7×1.2m、高さ0.4mでその下に0.3m径の車輪(2軸)を有する大型の台車とも言うべき形状でした。屋根も囲いもなくフラットで、これに大きな醤油樽を70個積載しました。ブレーキは、車丁が飛び乗って操作する歯止棒が頼りでした。

この台車を1トン車は一人、2トン車は二人がかりで押しました。醸造所社員の中から若い体力がある者が選抜されたようです。運行については、概ね日の出から日没まで、各醸造所の生産、出荷に合わせて運行するという「ゆるい」システムでしたが、出荷が集中する頃は大忙しだったでしょう。一般人を巻き込む事故も発生し、血気盛んな車丁は「醤油屋もん」と眉を顰められたそうです。


人車鉄道ルートの現在

野田の町は、街の中を南北に通る本町通りが中心です。この上町、中町及び下町を通るラインを幹線[写真(1)~(3)]とし、幹線から分岐して台地上を岸に向かう二つの枝線[写真(4)~(11)]から人車鉄道は構成されていました。幹線も支線も途中にある醤油工場からの引込線を接続しながら河岸まで向かいました。

工場の引込線以外は一般道を通る路線です(併用軌道)。企業城下町の野田としては構内線のような感覚だったのかも知れません。
町中は台地の上で平坦なのですが、河岸に下りるためには台地の縁の急勾配を下りなければならず、車丁の腕の見せ所だったでしょう。

野田人車鉄道のルートを推定しながら市内を歩いてみました。上の模式図をご参照ください。


(1) 現在の本町通り(流山街道)
この道路の隅に人車鉄道の線路がありました。今は普通の市街風景があるのみです。



(2) 現在の下町交差点付近の様子
当初、幹線は下町が終端でした。左側に須賀神社の鳥居が見えます。



(3) 本町通りから分岐して江戸川に向かったと思われる地点
人車は、この交差点から右の枝線に入っていきました。さらに、この先で上河岸と下河岸方面に分かれていきます。



(4) 上河岸と下河岸への分岐点と思われる場所
上河岸へは画面右奥の路地へ、下河岸へは画面左手に分かれます。



(5) 上河岸ルート途中の風景
画面中央に醤油工場がありました。現在は県営住宅になっています。人車ルートはさらに奥へ進み県道に入ります。道なりに進めば野田橋、終点、上河岸です。



(6) 上河岸
上河岸があった付近には現在、野田橋がかかります。
江戸時代は幕府防衛上、江戸川には橋はなく、渡しや舟橋が一般的でした。明治に入っても変化はなく、明治38年(1905)年竣工した江戸川橋(市川橋)が江戸川最初の橋(木橋)で、次いで葛飾橋(明治44年(1911)が架けられました。初代野田橋はようやく昭和3年(1928)4月に架けられました。
上河岸は野田河岸あるいは河岸問屋の名から五右衛門河岸とも呼ばれ、代々、戸邉五右衛門家が取り仕切っていました。



(7) 下河岸ルートの途中にある香取神社
(4)で分岐した下河岸ルートは、香取神社の鳥居の前を通って進みます。



(8) 下河岸前の上花輪歴史館前の道路
さらに進むと現在は上花輪歴史館として公開されている有力醸造家のひとつ髙梨本家の屋敷林を見ながら人車は進むことになります。



(9) 下河岸手前の道
上花輪歴史館を過ぎ、欅並木に工場の引込線が左右から寄って来る辺りです。道は徐々に下って江戸川に向かって行きます。



(10) 下河岸を仕切った桝田家の住宅
桝田仁左衛門家は下河岸の代々の廻船問屋統括で、母屋は明治4年(1871)に建てられています。建物は住居兼帳場、船宿として使用されていました。営業は昭和13年(1938)に終了しましたが、玄関以外はオリジナルで水運時代の雰囲気を伝える貴重な生き証人と言えるでしょう。



(11) 下河岸のあったあたり
土手ができ風景は当時から一変しています。当時は、川面にたくさんの高瀬舟などが浮かび醤油の積み下ろしで活気を呈していたことでしょう。現在とは全く異なった水運が主役の時代でした。しかし、今は静かに水が流れるだけです。

 
 
県営鉄道の開通

明治44年(1911)5月、組合が請願した千葉県営鉄道野田線(現東武野田線)野田町‐柏間が開通し、柏を経由して醤油の全国向け鉄道輸送の道が開けました。人車鉄道は新設された野田町駅まで路線を延長して対応しています。ようやく、水運から陸上輸送への転換の道が開け、これによって人車による輸送は江戸川方面から野田線方面に切り替わっていきます。


(12)有吉町通り
有吉町通りの街路灯には大形SLを模した装飾があります。野田線を走ったのは小型の機関車だったので、これは当時の鉄道招致の熱気と期待、そしてその恩恵への現代からのオマージュなのだと思います。
開業当時の駅やその後のヤードは既に無く、現在は総武物流の倉庫等になっています。県営鉄道の敷設に理解を示した当時の千葉県知事、有吉忠一の名を冠した通りの名前だけが当時を語るものです。



大正12年(1923)9月1日の関東大震災の発生は人車鉄道の運命を決定することになりました。大震災で分断された鉄道に代わって導入されたトラックの利便性、経済性が認知されたのです。

工場から消費地へ直接届けることを可能にしたトラック輸送が本格化すると、もう人車の出る幕はありませんでした。
大正14年(1925)7月、人車鉄道株式会社は営業権がまだ残っているにも拘わらず、営業廃止、軌道撤廃、自動車運送への転換を決定しました。そして、早々と同年8月末に営業を廃止しました。

開業から四半世紀で人車鉄道は町から姿を消しました。
その後、町内からレールや枕木が撤去され、現在、その痕跡は全く残っていません。通常の鉄道と違い、駅や橋、トンネルなどがなかったので、軌道を撤去してしまえばもう何も残るものはなかったでしょう。


エピローグ

人車ルートを調べるために参照したのは文献やネット上にあるいくつかの地図ですが、現在の地図に落とし込むのに思った以上に苦労しました。道路の変遷、形状の変更などで様子が変わっていますし、第一、当時の醸造所が変わっています。従って、チコちゃん風に言えば「多分ここだったんじゃないか」というレベルです。

そんな粗っぽいルート設定でしたが、現地を歩いてみて、なぜ醤油組合が人車を選択したのか分かったような気がしました。他の地域での先行モデルも誘因になったと思いますが、ここに機関車を走らせるのは不経済ですし他の交通の妨げになります。馬車以上鉄道未満の人車が野田の事情と時代の流れにちょうどマッチしたのではないでしょうか。

水運が陰り始め陸運へと切り替わっていくまでのわずかな期間のみ存在した人車鉄道はもう誰も見ることのできない埋もれた鉄道と言えるかも知れません。町を駆け抜けた人車は想像するほかはありません。
うららかな春の日に気ままな想像に耽る私のそばでは土手を黄色に染める菜の花が静かに風に揺れていました。
(おわり)




訪問日:2021年3月
記事修正:2021年4月3日;野田人車鉄道模式図を挿入。写真1葉を差替え。文章を一部修正、追加。

(主な参考文献)
(1) 『野田人車鉄道』(野田シリーズ18) 野田市郷土博物館.1998年4月.
(2) 白土貞夫『野田人車鉄道』(失われた鉄道・軌道を訪ねて[27])、『鉄道ピクトリアル』vol. 21, no.4(249), 1971. p.83-86
(3) 白土貞夫『ちばの鉄道一世紀』崙書房出版、1996年7月.
(4) 佐藤信之『人が汽車を押した頃;千葉県における人車鉄道の話』(ふるさと文庫)、崙書房出版、1986年11月.
(5) 野田市史編さん委員会編『野田市史;資料編;近現代1』野田市、2012年10月.
(6) [野田市役所秘書広報課編]『遠ざかる風景;野田市制施行40周年記念記録写真集』野田市、1990年3月.
(7) 野田市郷土博物館資料データベース内の人車関係画像資料(今のところ、ウェッブ公開のみで展示はありません)

*この他、ネット上の多数のサイトを参考にさせていただきました。末筆ながら厚くお礼申し上げます。


Nikon Z 6 / NIKKOR Z 24-70mm f/4 S


野田紀行 人車が走った町 1 古くて新しい町、野田の風貌


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