A:中央学院大学に勤めている友人がルソーの研究論文についての小さなイザコザを教えてくれたよ。法学部のある教授のルソーに関する紀要論文について、そこの先生がこんなコメントをtwitterに出していたんだって。
「yotchan0927 大村芳昭
外国の思想家を専門に研究していると自称する大学教授が、その思想家の原典を殆ど引用せず、日本人研究者が翻訳した文庫本ばかりを引用して書いた論考(所属大学の紀要に掲載したもの)は、まっとうな「論文」と言えるのでしょうか? また、その学問的評価はどの程度なのでしょうか?」(2011年6月28日付Twitter)
で、このtwitter先生、次の法学部長になったそうなんだ。
B:学部長になるのって、立候補でなるんだろう?そういう人が、自分の大学の同僚についてこんなことを外に向けて言っていいもんなのかい?そうする前に、学内で研究室にでも出向いて直接言ったらいいと思うけどな。
C:でも、次期法学部長として有望視されている人が、自分の大学の同僚についてこんなコメントを公にするなんて、なかなか開かれた大学じゃないか。いいよね。大学嫌いのぼくでも、ちょっとウレシクなっちゃうな。
B:きみもキツイ皮肉をぺラッと言うよな。そりゃあ、学外から見てる分には面白い眺めだけどね。
A:ぼくも面白いと思ったよ。学内の人間関係を露呈させていて、それを臆することなく学外にぶちまけているんだもの。そこのところが面白い眺めなんだよね。同僚の論文が「まっとう」と言えるか、いぶかしく思っているんなら、学校の評判を下げないために、まず学内で解決しようとすればいいじゃないか。紀要論文はどうしたって公表されて学外に出ていくんだから、本当に問題だと思っているなら、自分が執筆者本人や他の教授たちに会って質したらいい。誰が考えてもすぐにわかることだけど、順序が違い過ぎるよ。なのに、すぐにtwitterでこんなことを出してしまうなんて、この大学、みんな一緒になって内紛状態でございますわヨ、と公にしているようなものだ。
B:まぁ、大学は企業とは違って、自由な言論の飛びかうべき場所だからな。
C:そういう意味では、この先生、率先して模範的な態度を示していらっしゃる。いやあ、見習いたいね。自由とはなにか、見解の多様性を守るとはなにか…
B:まぁ、それはそうと、この先生の疑問、というか批判は、一応、一般的なんじゃないかとは思うね。外国の思想家の研究をするのに、原典の引用ナシっていうのは、今の学問世界ではふつうはしないものね。特に紀要論文の世界ではね。
A:ぼくもそうは思う。でも、相手がルソーだからな。もうちょっと幅のある見方をする必要があるかもしれないと思ったんだ。
B:というと?
A:ルソーというのは、思想や文芸において大変なビッグネームだからね。これを対象にする場合、欧米で最近話題になっているような思想家を日本に紹介するのとは、どうしたって、わけが違う。ルソーという問題圏に入り込む入口は無限にあるわけだし、これとの付き合い方も無限なわけだ。
日本でのルソーの受容にはずいぶん歴史があるし、翻訳も複数あるよね。もともと、思想書の翻訳はそれ自体が研究成果の表明ともなるし、訳者の解釈の表明ともなる。既存のどんな翻訳を引用するかには論者の見解が否応もなく出るわけで、部分的に改めながら引用する場合にも同じことだ。まったく首肯できない翻訳なら、ぜんぶ自分で訳し直して引用すべきだものね。
研究というのは過去に発表された論文や翻訳を抜きにしてはなされ得ないわけだけれども、まぁ、そんなわけだから、既存の翻訳を論文に使用する場合、おのずと、論者がその翻訳者の見解に同意した上で自論を展開している、との表明になるわけだ。
そう考える際には、「日本人研究者が翻訳した文庫本ばかりを引用して書いた論考」への批判は、そう単純なものではなくなるだろう、と思うわけさ。
B:そりゃそうだ。「文庫本」の翻訳というのは、たぶん岩波文庫のことだろうと思うけれど、あれらの翻訳の場合、長所短所を含めて、現代の研究者が押さえておくべき文献のひとつとなっているよね。明治時代の中江兆民以来さまざまな受容史があり、翻訳や解釈のいろいろな格闘や積み上げがあって、相当に煮詰まったところで出されたのが岩波文庫版に入っているルソー訳なわけだから、根幹となる部分には大きな間違いはない。日本人が、明治以来あれこれと作りあげられた訳語を用いながら、漢語や和語の表記を通してルソーを読解したり考察を加えたりする場合に生起しがちになるであろう典型的なかたちのたたき台が、あそこには実現されているとみていいだろうと思う。あれ自体がひとつの歴史であるし、日本人VSルソーの代表的な現象例なんだよね。
A:まぁ、この先生が言いたいのは、せめて白水社版のルソー全集ぐらい同時に参照して、異同の確認を論文上の註あたりででも指摘しておけよ、っていうことだろうけどね。最近じゃ、中山元の読みやすい翻訳もあるしね。あれも光文社古典新訳「文庫」だけれど。既成の訳に立ち向かう人たちが、あえて「文庫」で新訳を出してくるっていう時代にもなっているよね。
…でも、どうなんだろう。後から原稿の新たな発見があったとか、そういうことがあれば、たしかに翻訳には留まっていないで、やっぱり原典に遡らないとダメだろうけれど…
C:いやいや、ルソーの場合、原稿はもう出尽くしているだろうね。政治思想上いちばん問題になりがちな『社会契約論』なんか、本人の決定稿は失われているし、ふつうに使われるのはルソー生前の唯一の版である1762年版だよ。これはルソー自身が読み直しをして承認した版でもある。この版にヴォルテールが書き込みをしたものがファクシミリで見られるよ。
ただ、ルソーは、初版の出版後、かなりの修正や加筆を望んでいて、それを新版に盛り込もうとしたけれど、生前は果たされなかった。それらのうちの或る程度は、ムルトゥやデュペイルによって1782年版に盛り込まれることになる。現在では、これらは校訂者によって註の中に入れられる場合が多い。
B:日本へのルソーの紹介者である中江兆民は、自由民権運動の理論的指導者となったので「東洋のルソー」とも言われたらしいけれど、彼が麹町にフランス語塾を開き、『社会契約論』を講義したり抄訳したのが1874年前後だから、彼だって1762年版か1782年版と同内容のテキストを読んでいたはずだよね。兆民以来、日本の『社会契約論』の読者たちは、原典の基幹部分における変更は被っていないはずだよ。
A:幸徳秋水なんかは、兆民の弟子だったんだってね。
C:そう。兆民っていうのは、現代では忘れられているけれど、いろいろとすごい人だよね。第一回の衆議院選挙で当選しているけれど、自分の本籍を大阪の被差別に移して選挙活動しているんだよ。「余は社会の最下層のさらにその下層におる種族にして、インドの『パリヤー』、ギリシャの『イロット』と同僚なるにして、昔日公らのと呼び倣わしたる人物なり」と言ったのは有名だよね。これって、シィエス(シェイエス)の『第三身分とは何か』を超えているよ。で、立憲自由党をつくるわけだ。幕末から明治にかけての学者っていうのは、まァ、ラディカルさが違うね。
A:ほんとにそうだな。フランス学ばかりか、日本でヨーロッパ思想に関連したことをやるような人間は、ときどき兆民先生の姿勢を思い出す必要があると思う。
B:なんのための『社会契約論』読解なのか、研究なのか、ってね。まぁ、自分も含めて言うけれど、どうして今の日本人はこんなふうに骨ナシになっちゃったんだろうかな。
C:寄らば大樹の陰、金と安定のほうへばかりフラフラ靡く小あきんど、経済的傭兵。他人の不幸はないも同じ。ひとりの人間の人生としては、まことに情けないもんさ。ナチスの殲滅収容所で黙々と働いたドイツ兵と、基本的には同構造の精神だものね。新自由主義っていう殲滅収容所が稼働中なのさ、現在は。
A:ふーむ。…で、ちょっと話を戻すけれども、まぁ、とにかく、ルソーといったって、いろいろなテーマがあるっていうことになるわけだよね。というか、テーマがあり過ぎなのがルソーという対象だ、と。
もちろん、フランス語原文にぴったり即しながらなんでも考察するのがいいに決まっているだろうが、日本人として生れ、生き続けてきている人間が、日本人ならではの問題意識とルソー受容史を抱えながら、まず第一に日本人を相手とした論考を書こうとする場合には、既存の代表的な翻訳を使って、あらかじめ問題の方向性を絞ったり定めたりする思考法もあっていいとは思うんだ。それがダメだというのなら、論文を書いて反論すればいいのさ。それが学問というものの場だろう。Twitterでこそこそクサしてちゃダメだよ。堂々と論文書けよ、そんなに問題視しているんなら、って思うね。
C:そうだよね。外国の思想家について原典うんぬんを言い過ぎると、日本人という立場にいる場合、すぐに陥穽に落ちることになる。ルソーなんかの場合は、そもそもフランス語だけで読んで、フランス語だけで考え、フランス語だけで書け、っていうことになるよ。それはそれでカッコいいよね。でも、よっぽどのルソー研究者でなければ、そんな論文、日本人の学者は読まなくなるし、だいたい、そうした論考の場合、お仕事の全部がぜんぶ、フランス共和国の文化財産になるんだよ。ヨーロッパやアメリカの凄いところ、怖いところは、アジアやアフリカの研究者の仕事を、全部、自国の文化価値称揚に利用しまくっているというところさ。日本人が欧米の思想の研究をする場合、ここのところをよく考えるべきでもある。あえて日本語だけで思索し、書く。こういう行為が、じつは国家的な文化闘争を実質的に担っているのさ。
まぁ、日本人のエリートは、明治時代以来、自分たちだけ欧米に胡麻をすって、ペコペコして、「私だけはニッポンのイエローモンキーとは違って、白人社会の側に立っていますから、そこをよく見てくださいネ」と宣伝し続けてきているけれどね。
B:そうそう。欧米の文化的世界制覇主義っていうのはスゴイものね。たとえば、ルソーについてこれこれの問題に個人的に興味があるから、留学してそれを研究したいです、なんていうのは、日本にいる間に見ていられる甘い夢に過ぎない。フランス本国に行けば、ルソー研究という巨大プロジェクトが恒久的に進行中で、まだ検討されていない小さなテーマを指導教官から押しつけられ、それについて成果を出すのを求められる。博士号取得を望むレベルの研究者など、フランスの文化的国威掲揚のための歯車に過ぎない。こうした押しつけを避けるために、あえてスイスに留学するとか、そういう工作も必要になってくるわけだ。
A:だいたい、いつも不思議に思うんだけど、大戦後、ド・ゴール体制で露骨な反英米政策をとって核兵器を独自に配備したフランスと、どこまでもどこまでもアメリカの核の傘の下でヌクヌクしている日本とでは、ルソーひとつに対しても、同じ立場や研究姿勢なんかとれるわけがないじゃないかな?それこそ、ホー・チ・ミンやポル・ポトなどの現象も含めた上で、欧米というものをカッコに括って、そこと安易にみだりに同化しない研究態度というものが常に問われているんじゃないかと思う。フランスにおけるルソー研究とは、容易には透明な関係を結べないような歴史的政治的経緯が、どうしても日本にはあると思うんだよ。
C:フランス人と政治の話をマジでやると、必ず馬鹿にされるものね。日本国憲法の戦争放棄とか平和主義が大事だとかなんとかいうが、お前ら、アメリカの核の傘から出てからそれを言ってみろ、ってね。途方もない規模の破壊兵器を抱えた国際的ヤクザが後ろに鎮座ましましているのに、どの口で平和主義だなんて発言できるんだ?、って。
B:まあね。日本の大学の教室で開陳されるような理想主義は、一歩国外に出れば、壮絶にバカにされるものね。そもそも、日本の平和主義自体が、アメリカの日本支配の巧妙な洗脳政策だったのだけど、今でも大学って、アメリカの洗脳の先兵だろう?情けないことになっているわけだよ。
A:大戦争に負けるとどうなるか、っていうことを、これほど露骨にさらけ出し続けている国もないよな。カルタゴはローマに塩を撒かれて徹底的に土壌破壊をされたけれど、日本の場合は精神の土壌に塩を撒かれたわけだ。1945年に負けただけじゃなくって、いまだに負け続けている。テッテイテキにだ、テッテイテキに。
B:そういう意味でも、戦争はやっぱりいけないね。真面目にとらえても、皮肉にとらえても、大戦争はろくなことにならない。原発事故を見てもわかるが、いっさい民衆を守ろうとしない国なんだもの。戦争になればなにが起こるか、もうぜんぶ想定できる。
C:…そういえば、さっきの欧米の文化的覇権主義の話が出た時に思ったんだけど、例のtwitter先生による「思想家の原典を殆ど引用せず、日本人研究者が翻訳した文庫本ばかりを引用して書いた論考」への批判って、やっぱり、偏狭なところがあるというべきだろうな。
B:そうかな?そこのところは、ぼくはtwitter先生に賛成だけどな。
C:きみはさ、フーコーもドゥルーズも原典で読んでないだろ?
B:翻訳では読んだよ。
C:いや、翻訳だってロクには読んでないはずだ。翻訳でだってわかる部分の話だからな、ぼくが言っておきたいのは。
B:どんなこと?
C:今じゃ、フーコーは思想や政治思想では無視できない相手だし、ドゥルーズだってそうだ。ネグリとハートの『〈帝国〉』なんか、ドゥルーズとガタリの決定的影響下に出来たものだしね。
ちょっと指摘しておきたいのは、そういう20世紀後半の思想家たちの主著が、過去の外国の思想家の文章を引用したり指摘したりする場合にどんな態度をとっているか、ということ。
彼らって、ほとんど、フランス語の翻訳から引用しているんだよ。原文なんて、まず引用しない。註にだって、原文のどの版を使ったかとか、どのページから引いたとか、いっさい書いていない。ちょうど今読み直しをしているのでここに持って来ているけれど、このLes mots et les choses(Galllimard,1966)を見てごらん。『言葉と物』と訳されている本だけど、ほら、201ページのここのところ、ヒュームからの引用があるが、ページ下の註には「ヒューム『貨幣流通について』(経済学集、フランス語訳p.29-30)」とあるばかりだ。アダム・スミスからの引用のある234ページのこっちも見てごらん。註には「A・スミス『国富論』(フランス語訳、パリ、1843)p.1」なんていうぐあいだ。もちろん、本文中の引用はフランス語だよ。
いったいどのフランス語訳から引用しているんだ?なんていう突っ込みは、はじめから相手にもしていない。これだけの注記でどの翻訳かわかるような相手にむけて、フーコーは書いているんだ。しかも、英語原文を引用しなきゃダメだろ、なんていう批判も無視。英語原文も、必要と思えばサッと調べて見直せるような相手にむけてのみ書いている。日本じゃ、ご大層に大思想家として奉られているフーコーさまだが、その世界的代表論文が、外国の思想家の文献についてはこのありさまだ。
ドゥルーズだってすごいぞ。外国の思想家について論じる際、使っているテキストはぜんぶフランス語訳だ。有名なニーチェ論に、ぜんぜんドイツ語が出てこない。徹底的なフランス語中心主義なんだ。すべてをフランス語に直して、フランス語のみで思考する。おれはフランス語になったニーチェを考察しているんだ、文句があるなら、フランス語の土俵でどうぞ、っていうわけだ。これが、日本の翻訳者たちにかかると、ご丁寧にニーチェのドイツ語原文を出してきて補完してくれていたりする。そういう翻訳を見て抱く印象は、ある意味、善意からの裏切りを真実と捉えているわけで、やはり問題がある。
こういうフーコーやドゥルーズなどに対して、デリダが徹底的に原典主義で論考を作っていくというスタンスをあえて採って、自分の持ち味として出したんだけど、もちろん、お互いにクサしあったりしないで、尊敬しあっていた。
フランス系だけじゃないんだよ。たとえばアーレントの『革命について』なんか、英、独、仏といろいろな文献を使っていて、註にも出典を書いているけれど、ルソーからの引用など、「ルソーについては、G.D.H.Cole(1950年、ニューヨーク)による『人間不平等起源論』(1755)翻訳を見よ」と註にあったりして、原典の文章など無視しているところもある。
いっぽう、レオ・シュトラウスなんかはけっこう原典主義の註を付す傾向があった。もっとも、Natural Right and History(1950)なんかで『エミール』からの引用箇所の註に「Hachette,Ⅰ,374 ; Emile,Ⅰ,286-87, 306,Ⅱ,44-45」とだけ付しているのを見ると、このアシェット版テキストを使用する理由が明示されていないぞ、とtwitter先生からはお叱りが出るんじゃないのか、とヒヤヒヤするけれどね。
A:となると、twitter先生は、まずは、フーコーやドゥルーズ、アーレント、レオ・シュトラウスあたりに難癖をつけることからどうぞ、っていうわけか。
C:まあね。そこまでは言わずとも、そもそも19世紀後半にかたちをとってきたに過ぎない大学での論考なるものの書き方にも、いろいろと系統や流派があるということさ。日本で自分が通った大学で、指導教授からたまたま習ったにすぎない書き方だけがすべてとは言えないですよ、という話。言語表現の世界も広うござんす、とね。
B:ふーん。じゃあ、きみは岩波文庫訳のルソーでどんどん行けばいい、っていうわけか?
C:ぜんぜん。だいたい、ぼくは翻訳なんか、まれに参考程度にしか使わないから。原文を読むために言語を勉強したんだし、たとえ誤読をところどころしたとしても、原文だけで通すつもりだよ。ずっとそうしてきたしね。
『社会契約論』ひとつ読むにも、絶対に最新の校訂版を入手しなきゃダメだ。ぼくの場合はそういう主義。まぁ、ぼくはルソーの専門家でもなんでもないけれど、この間もブリュノ・ベルナルディBruno Bernardiの校訂版の註を読んでいて反省させられたよ。第1章の冒頭の有名な文、「人間は自由なものとして生まれたというのに、いたるところで鉄鎖に繋がれている」と訳せそうな文があるけれど、複合過去形で書かれているそこの「人間は自由なものとして生れた」について、ルソーはここでの複合過去形をラテン語文法における完了の意味あい、獲得の意味あいで用いている、とあるんだな。どういうことになるかといえば、「人間はもともと自由だったが、今ではそうでなくなってしまっている」という解釈ではいけないと注釈者は言っているんだ。「生まれつき(=自然によって)、人間は、自由であるべく指定・任命/形成・設定・構成され(るということが完了しており)、現在も自由であり続けている。そして、いたるところで鉄鎖の中にある」という程度の意味あいで読むべきだろう、と。もっと砕いて訳せば、「人間は自由なものとして生まれ、自由なままであり続けている。そうして、いたるところで鉄鎖の中にある」ということになる。自由でなくなってしまった、などとはルソーは書いていない、というわけだ。注目すべきポイントは、人間の自由はすでに設定し終えられ、人間は自由なものとして構成され、自由たるべき地位に就かされているということ(複合過去表現)、それと同時に、人間は現在鉄鎖の中にあること(現在形表現)、このふたつがひとつの重文の中で語られていることだ。テキストにぴったり即したこういう読解をブリュノ・ベルナルディは勧めていることになる。
冒頭の一文でさえこんな調子だから、『社会契約論』の完全な読み直しはやっぱりしないといけないだろう、ということになる。ロベスピエールがこの本を誤読して、というか、文字通りに受けとめ過ぎて、トンデモないほうへと革命を導いたのは有名な話だが、ルソーはいまだにアクチュアルな揺れ動きを続けているテキストなんだ。ジュネーブ人で、しかも18世紀のフランス語、それに、ラテン語やギリシア語の古典をたっぷり読みこんできた男のフランス語だというところにも、現代の読者にとっては大きな困難がある。古典語の文法に影響されたフランス語使用法と、古典読解が骨の髄まで染み込んだがための古典的レトリック癖が、どうしてもルソーのテキストには発生するんだよ。そうした語法面やレトリック面のあれこれを巧みに微調整し、ドライブしながらルソー読解は進めないといけない。日本での大学レベルのフランス語をやった程度では、生のルソーを読めばわからないところだらけ、どうして翻訳ではああなっているわけ?という難所ばっかりさ。
そうなると、厳しくいえば、翻訳どころか、文法的にも語法的にもレトリック的にも、ルソーのフランス語に深入りしていかない人間は、ルソーを論じたり扱ったりすることはできないということになる。社会科学や法学の研究者たちに見られるような、もう「ルソーなんてわかりきってるでしょう」的な大言壮語は、とてもではないができないだろう、ということになる。まず原典を読んでみろ、しかも、すべての注釈を比較して詳細に読んでから、法学にルソーを引用したりするようにしろ、と要求したら、この国の法学の基盤なんて一発でストップするだろうね。
まぁ、こんなふうにいろいろ思うけれど、かといって、ぼくなんかはフランスの文化的覇権主義にはぜったいに同調したくない。自分ひとりで原典を読んで、いろいろ理解したり考えたりして、ひとりで死んでいくさ。だから、大学に関わっているきみらのスタンスにも同調しない。できるだけ自由な場所に身をおいて、しがらみもナシに自由に評価し、批判し、自分の生活から離れない思考をしていきたいね。
A:かっこよく出たな。吉本隆明みたいじゃないか。
B:あの人、ドイツ語がよくできたけれど、あえて翻訳で外国の思想家のものを読んで、それを使ったり引用したりして思索したんだよね。大学の先生たちからその点をさんざん批判された時に、おれはお前たちが翻訳したものを使って考えてんだ、それが信用ならないってんなら、お前らの仕事がダメだってことじゃねえか、って啖呵を切ったんだよ。
A:ということは、C君の場合は、反転した吉本隆明ってとこか。なんであれ、日本の大学の先生たちの仕事は使わねえぞ、っていうんだから。
まぁ、とにかく、吉本みたいなのを批評家critiqueっていうんだよな。クリティックcritique。いつも、「危機的な」、「決定的な」、「峠の」、「重大局面の」、あるいは「臨界の」思考をしようとする人間。腹の坐り方が違うよ。だけど、大学の先生たちは、自分たちでやっている翻訳がアヤシイとわかっているから、批判もしたわけだろうけれど…
C:…あんまり細かいことを言うつもりはないけれど、critiqueっていうのはギリシャ語のkritikosから来ていたかな。さらには動詞krineinから。判定する、判断する、裁く、っていう意味だな。そうなると、この語における批評の意味あいはけっこう根源的なはずだけど、「危機的な」みたいな意味あいのほうが後からついてきたってわけかな。まぁ、後で調べ直しておこう。
B:きみも、いつも細かいことを気にするなぁ。まるでデリダの路線みたいだな。
…まぁ、ぜんぶをひっくるめて、ニッポンの悲しき文化っていうことなのさ。欧米の植民地主義の怒涛を受けて、なんとか生き延びてきた『悲しき亜熱帯』だよ、ここは。
C:…ちょっと前の、さっきの話に付け加えておくけど、ルソーを研究するにしたって、フランス語だけでOKです、ってわけにはいかない。まぁ、スタロビンスキーのルソー論はフランス語だからいいとしても、新カント派のカッシーラーの『ジャン=ジャック・ルソー問題』なんかは、ルソーの良所を生かしながら合理的に解釈しようとするには避けがたい論考だし、『反デューリング論』などでのエンゲルスの解釈だって避けられない。それらはフランス語ではないわけで、ルソー研究者たらんとする者はいろいろな外国語で論文を読み広げる他にはないわけだ。
A:そういうふうになってくると、もうどうにも収まりがつかなくなるよね。ようするに、ボルヘスやエリアーデみたいになれ、何十の外国語を縦横に使えるようになってから研究の舞台に戻っておいで、ってな具合だな。
B:ありえないでしょ、ふつうに考えれば。
C:だからさ、ぼく自身の方針や問題意識とは全く違うけれども、さっき話に出したフーコーやドゥルーズの方向でいくのもアリだろう、って思う。必要のある時には原典も見るが、基本的には諸々の専門家による翻訳を用いて、それにもとづいて思考する、っていう方向性。
B:そうしないと、テーマが絞れないものね。
C:そう。ルソーと一口に言ったって、ルソーのどんなテーマを扱うか。それに応じて、原典主義でいくか、翻訳使用中心でいくか、そういう方法論上の選択はあっていいんだと思うけれどね。ひとりの研究者がテーマに応じて方法を変えていろいろ考察したっていいわけだ。
A:どちらにしても、ダメだと思った論考に対しては、論考のかたちで反論すればいいんだし。学問の場だものね。
B:そういうことだな。
C:ぼくの知りあいの学者でイタリアの優秀なやつがいるんだけど、こいつがイタリア語、フランス語、英語、ドイツ語、スペイン語を自由に操るんだよ。しかも、ラテン語、ギリシャ語まで出来る。それで、論文を書く時に、同じテーマについて、イタリア語で書いたり、フランス語で書いたり、英語で書いたりするんだけど、どの言語で考えて書くかによって、発想や論理の繋ぎ具合に変化が出て、いろいろと発見につながり、とっても面白い、っていうんだ。
A:これはまた、すごいやつがいるな。
C:こんなの、ヨーロッパにはざらにいるよ。こういうところがヨーロッパの怖いところなんだ。欧米っていうのは、軍備だけでなくて、文化的にもバイタリティーが違う。
で、この男の話なんかを参考にすれば、ルソーを考えるにも、なにもフランス語使用だけがいいってわけじゃないぞ、ってことになるんだな。
日本語でルソーを考えたって、いいわけじゃないか。必要な個所個所でフランス語に立ち戻ることにしさえすれば、それでもいい。日本語思考で得られた発想や発見を抱えて、さまざまな言語でなされているルソー研究の集合体にいずれ戻っていくという気持ちでいれば、そもそもからして問題などないはずだしね。だいたい、ある研究者が、いま日本語の翻訳を軸にして考えているから、いつまでも永遠に翻訳で通すぞ、あいつは…、なんて、そんな固定した見方をすること自体が滑稽じゃないか。
A:そうだよな。ミハイル・バフチンのドストエフスキー論にこんな一節があったじゃないか。
「世界にはいまだかつて、何ひとつ決定的なことは起こっていない。世界についての、また、世界の最後の言葉はまだ語られていないし、世界は開かれたままであり、自由であり、いっさいはこれからであり、永遠にこれからであろう」。
B:いいねえ。今日の話のもともとの発端になった中央学院大学とやらは、研究しないので有名な専任教員たちの集まりだそうだけど、彼らにも贈りたいような言葉だね、これは。「いっさいはこれから」なんだから、長かった頭脳のヴァカンスをそろそろ終えて、今からでもどうですか、もう一度、研究を、って言ってやりたいね。
C:うーん。どうかなあ、「永遠にこれから」なんだから、まだヴァカンスしててもいいだろう、って思っちゃうんじゃないかな。
A:そうして、最後にはホラチウスでもつぶやくってわけか。Eheu fugaces, Postume, Postume labuntur anniって。
B:「ああポスツマス、ポスツマス、歳月の過ぎゆくこと、いかに早き」か…
C:そりゃ、ムリだな。ホラチウスなんか、もともと知らない連中の集まりなんだから。吉田松陰の「妄(みだり)に人の師となるべからず。妄に人を師とするべからず」みたいな自戒のまったくない連中だっていうじゃないか。
A:ふん。ロード・ダンセイニが危惧した事態が出来(しゅったい)している場所らしいものね。「粗野で下卑たものが、高貴で優雅なものに俗世の生きかたを教える世の中が、やがて訪れるのだろうか…」ってね。
B:…でも、松陰の言葉はいいな。ぜひとも、この大学の学生にむけて掲げておくべきだ。「妄に人を師とするべからず」ってね。
C:ようするに、大学不要論に落ち着くってわけさ。ある種の大学のね。この話は、また、べつの機会にやろうじゃないか。
終わり