「7月4日(木)」
「湊川の戦い」
「1336年7月4日」
(建武3年5月25日)
湊川の戦いが行われる。
湊川の戦い(みなとがわのたたかい)は、
南北朝時代の延元元年/建武3年5月25日
(1336年7月4日)に、
摂津国湊川(現・兵庫県神戸市中央区・兵庫区)で、
九州から東上して来た
足利尊氏・足利直義兄弟らの軍と、
これを迎え撃った後醍醐天皇方の
新田義貞・楠木正成の軍との間で行われた合戦である。
25日の辰刻(午前8時頃)、
海から足利尊氏の率いる軍が湊川に到達し、
新田・楠木連合軍と対峙した。
他方、
陸からも足利直義を司令官とする
陸上軍主力の大軍が西国街道を進行し、
接近しつつあった。
海からの大船団を『太平記』は
「呉と魏が天下を争った赤壁の戦いを凌ぐ」
とさえ述べているが、
義貞も正成も足利方の大軍に対して
少しもひるむことはなかったという。
水軍を用意できなかった新田軍は、
脇屋義助を将に一族23人、総勢5千余騎を経島に、
大館氏明を将に一族16人、総勢3千人を
灯炉堂の南の浜にそれぞれ布陣させ、
陸地からの敵に備えさせた。
義貞自身は総大将であり、
諸将への軍令を出すため、
和田岬に2万5千の兵で布陣した。
一方、楠木軍は他家の軍勢を入れず、
700余騎で湊川西の宿
(湊川の西側、本陣の北西にあたる会下山)に布陣し、
陸地から攻めてくる敵に備えていた。
この義貞の陣立ては、
「不思議な陣立て」であったと言われる。
義貞は南から上陸してくる
足利軍の軍船に背中を向けるばかりか、
北に陣取った楠木正成と脇屋義助が撃破されてしまうと、
東西南の三方向が
海に面している和田岬が
足利軍に完全に包囲され
退路をふさがれてしまう形になる。
義貞はあえて「背水の陣」を強いて、
配下に決死の覚悟で
合戦に挑むよう促したと推測される。
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https://cycle-plaza-eleven.com
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「湊川の戦い」
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足利尊氏・足利直義兄弟らの軍と、
これを迎え撃った後醍醐天皇方の
新田義貞・楠木正成の軍との間で行われた合戦である。
25日の辰刻(午前8時頃)、
海から足利尊氏の率いる軍が湊川に到達し、
新田・楠木連合軍と対峙した。
他方、
陸からも足利直義を司令官とする
陸上軍主力の大軍が西国街道を進行し、
接近しつつあった。
海からの大船団を『太平記』は
「呉と魏が天下を争った赤壁の戦いを凌ぐ」
とさえ述べているが、
義貞も正成も足利方の大軍に対して
少しもひるむことはなかったという。
水軍を用意できなかった新田軍は、
脇屋義助を将に一族23人、総勢5千余騎を経島に、
大館氏明を将に一族16人、総勢3千人を
灯炉堂の南の浜にそれぞれ布陣させ、
陸地からの敵に備えさせた。
義貞自身は総大将であり、
諸将への軍令を出すため、
和田岬に2万5千の兵で布陣した。
一方、楠木軍は他家の軍勢を入れず、
700余騎で湊川西の宿
(湊川の西側、本陣の北西にあたる会下山)に布陣し、
陸地から攻めてくる敵に備えていた。
この義貞の陣立ては、
「不思議な陣立て」であったと言われる。
義貞は南から上陸してくる
足利軍の軍船に背中を向けるばかりか、
北に陣取った楠木正成と脇屋義助が撃破されてしまうと、
東西南の三方向が
海に面している和田岬が
足利軍に完全に包囲され
退路をふさがれてしまう形になる。
義貞はあえて「背水の陣」を強いて、
配下に決死の覚悟で
合戦に挑むよう促したと推測される。
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