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中国成都パンダボランティア

2018-01-04 12:36:28 | 旅行
絶滅危惧種のパンダは中国しかない動物として、主に四川省、陝西省と甘粛省の6大山系に分布しています。全部2千頭にもなっていないパンダは「国際絶滅動植物種国際貿易公約」に「絶滅種」とされ、中国の「野生動物法」にも「特級保護動物」として保護されているのです。このような高い研究価値と観賞価値を持つパンダは中国で「国宝」とされていると同時に、世界各国の人たちにも喜ばれています。友好大使として何回も海外へ行ったことがあるパンダは世界で高い知名度と影響力があります。

 成都は昔からパンダとは不思議な縁がありました。化石を見れば、4000年前からすでに野生パンダが生きていたことが分かります。中国の地図を見れば分かるように、北の秦嶺から、岷山、邛崃(チョンライ)、大相嶺、小相嶺と涼山からなる6大山系は廊下のような形になっていて、成都はちょうどこの廊下の真ん中に当たっています。世界で生物多様性の豊富なホットスポットが34個あり、この中の一つとしての成都には絶滅動物は73種、植物は2000種あまりあるほか、所属の都江堰、彭州、崇州と大邑(ターイー)を含める地域には1500平方キロぐらいのパンダ生息地があり、4つのパンダ国立自然保護区には約50頭の野生パンダが生きています。1953年1月17日に、都江堰の玉堂鎮で発見された一頭の野生パンダが、成都(成都斧头山動物園、即ち現在の成都ジャイアント繁殖研究基地の前身)まで運送され、建国来保護されたこの初の野生パンダがわが国のパンダ保護の道を開いてくれました。世界でパンダの生息地に一番近く(市内の中心地からパンダ生息地まではわずか70キロしかない)、海抜の落差が最大(350メードルから5600メードルまで)でありながら、世界で人工飼育と野生のパンダの両方も揃っている唯一の特大都市の成都は、パンダの本当の故郷とも言えるでしょう。
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中国成都 ツアー

2018-01-04 11:08:00 | 旅行
今から4500年前の宝墩古城と呼ばれる新石器時代の集落群が、現在の成都市新津県にて発見されている。この環濠集落は、横 2000m、縦 1500m、周囲の長さ 6200m、総面積 276万平方mにもなる巨大な楕円形のものであったという。ちょうど、サッカーフィールド 386個分に相当する広さであったらしい。新石器時代から、もう既に中国はスケールが大きい。
これまで、成都平原では、このような環濠集落が8箇所発見されているという。新津宝墩古城、郫県古城、温江魚鳧城、都江堰芒城(上芒城)、崇州双河古城(下芒城)、紫竹古城、大邑塩店古城、高山古城である。
このころの成都平原での古代集落文化は、宝墩文化(紀元前2700~1800年)と呼ばれている。その一つが、三星堆遺跡に代表される三星堆文化(紀元前1800~1200年)であった。この三星堆遺跡こそが、古蜀国の都城でもあったらしい。紀元前 5世紀中葉に、古蜀国の開明王朝九世によっては、都が広都樊郷(現在の双流)から、成都の地へ遷都される。これが現在の成都城の始まりとなる。「成都」とは、当時の成都平原の言語で、「終の都」という意味の造語であるという。

成都市
そして紀元前316年、秦が巴国、蜀国を滅亡させた後、漢民族の大量移民政策がとられ、これら成都平原の独自文化は消え去っていくこととなった。あわせて、秦国より派遣された蜀郡太守の李冰は、この地の治水事業に乗り出した(中国史上初の大工事)。これが有名な、都江堰と呼ばれる灌漑遺跡である。彼の次男の治世になってようやく完成され、当時、李次郎坊と呼ばれた次男にちなんで、二郎廟がたくさん四川省内に設置されていくことになる(治水の神様)。
秦末前漢初期には、成都平原は戦乱で荒廃する中原地帯に代わって、重要な食料生産を担う「天府の地」と称される、豊かな土地になっていく。もしくは、綿産業も発達し、この地は錦城とも呼ばれたという。成都はすでに秦代、前漢時代には中国でも6大都市(長安、洛陽、邯郸、臨洮、宛、成都)の一つに数えられるほどに巨大化していたらしい(人口40万)。
前漢時代の141年、蜀郡太守の文翁によって、中国初の地方官養成学校である文翁石室が、この地に設けられている。また、前後漢の時代を通し、中国の漆器工芸品の生産でも有名となり、中国の飲茶文化の発祥の地とされている。

前漢の武帝時代(紀元前 106年)、中国全土は13州制度に改変され、益州に属したこの地、益州史治として州役所が雒県(現在の広漢市)に設置された。このころは、まだまだ三星堆遺跡のあった、古蜀国の都城跡の雒県の方が政治的、経済的な中心都市であったようである。
前漢滅亡後、新王朝の時代、益州は庸部と改名されるも、その行政府は引き続き、雒県に置かれた。そして、後漢王朝時代に入り、益州と広漢郡が復活するも、雒県は州役所から、広漢郡の郡役所として降格され、州役所は一時、綿竹城に移ることになった。
しかし、後漢末期の益州牧「劉焉」はこの綿竹城から、雒県へ益州役所を再移転するも、州都たる器ではないと判断し、自身の孫「劉循」に雒城を任せ、さらに南の成都城へ引っ越す。ここから現在の成都市が行政の中心地として歴史に登場することになる。

つまり、成都が本当に行政都市としてその地位を確立できたのは、後漢末の三国時代からであった。そして、劉焉の末子「劉璋」統治時代の214年夏、劉備に降伏し、この地で221年、劉備が蜀漢を建国することになる。263年の魏の侵攻時、二代目皇帝の劉禅が、成都城を無血開城することで蜀漢は滅亡する。
翌年264年正月15日に、蜀の降将「姜維」は鍾会とともに、反魏の決起を行うも、将兵らに反発され、この宮殿内で刺殺されている。これと同時に、そのトバッチリを食うかのように、張翼、廖化、関羽の遺族らが殺害された。

その後も、五胡十六国時代の成漢の李雄が成都城を王都と定めるなど、四川省での歴史的イベントで成都は外せない場所となっていく。

唐の時代、成都の経済力はますます高まり、文化は栄え、中国でも4大都市(長安、楊州、成都、太原)の一つに挙げられるまでになっていた。唐の太宗の後半期、中原の反乱により、皇帝はこの地に避難し、成都府として仮の都とまで指定している。 907年には唐も滅亡し、後梁王朝が建国される。後に建国される前蜀国、後蜀国も含め、成都がやはり都に定められている。しかし、五代十国時代の軍備拡張時代、蜀の国土は荒れていくことになる。

宋による中国統一後は、急速に回復を遂げ、全国有数の大都市に返り咲く。しかし、南宋時代の1257年、モンゴル軍により成都は占領される。
その後、元を北へ退けた明王朝は、中国統一を目指し、当時、蜀に建国されていた大夏国へ侵攻する。すぐに夏国は降伏し、再び、太平の世に戻ることとなった。朱元璋は、自身の子を蜀王として中央政府直轄地の成都府へ派遣している。

成都市
この地も、現在はかつての成都府城として繁栄した巨大城郭都市の古城壁はすべて撤去されていしまっているが、その規模が分かる堀川はほぼ原型をとどめて残されている。また、旧市街区の路地に数多くの名残が残る。北大街、北門大橋、正府街(かつての行政府跡)、東城根街、西府南街、馬棚街、紅壁巷、西華門街、東華門街、御河沿街、順城大街、東打銅街、鼓楼街、東馬道街、関廟街などなど、非常に多い。
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成都観光ツアー

2018-01-04 10:05:30 | 旅行
平楽古鎮
成都西へ80キロ、天台山の麓にある古い鎮です。古い橋と流れ川で有名です。

[草鞋街]
台子?街から順河街には曲がり角を連ねた草鞋街で繋がっていますが、この辺りに静かな住民の生活光景がみられます。草鞋編みで生業を立てていた人たちが集中して居住していたところですが、現在でも実際に草鞋編みをしている人もみられます。

[禹王街]
禹王街はかつての平楽鎮の商業街としての趣きを充分に残した通りです。治水の神、禹王を祀る禹王宮があったところです。3階建ての賞風楼は劇好きの玩友たちの集う場でもあり、劇舞台を見下ろす格好の場所でもありました。3階に美しい欄干を連ねた商業建築の白眉といえます。禹王街はいまでは衣料品店が集中しているのですが、陽射しを避けるために張られた天幕は藍布で、四川の他の街が大抵白布を張るのとは著しい対照を見せています。賞風楼のみ3階建てであるほかは、すべて2階建ての店舗建築で統一されており、長慶街の商業店舗が各軒思い思いの体裁であるのとはだいぶ様相を異にしています。

川西古鎮は河川沿岸の平地上に立地するのが主な形態です。河流沿いに平行に街道を設け、堤防をつくり、堤防から石段で構成される水碼頭で河面に至る。堤防上には河流に突き出すように吊脚楼型民居の街並が並ぶ。江南地方の水郷古鎮とも異なり水路網をもたず、河川とともに陸路に依存した交通形態をとるため、釣り橋や石板橋などの平橋も多く、アーチをもつ拱橋(アーチ橋)も荷馬の通行が可能な平面主体の通路をもっています(この点江南古鎮ほど急なカーブの拱橋は少ない)。また、ところどころガジュマルや黄桷樹(春に落葉する広葉樹。四川?重慶にかけて街路樹としてよく見られる)を植え、深い緑陰で人々の休息場を提供するのも川西古鎮の特徴です。寺廟は各省出身者の会館のほか、碼頭近くに水神を祭祀し、船隊の業種集団である船幇が祭祀する鎮江王爺の鎮座する王爺廟や川主李氷を祭祀する川主廟があります。
成都周辺では西部の灌口周辺の聚宝鎮、崇州市の街子鎮?圓通鎮、大邑県の悦来鎮、??市の白沫江沿岸の平楽?夾関といった古鎮や火井鎮、蒲江県の西来鎮などがこの種の河沿い古鎮の典型です。そのなかでも??市の平楽古鎮は、双流県の黄龍渓鎮などともに、大規模な港市型古鎮の代表に数えることができます。

火井鎮
中段は家屋の保存状態も良い割には、衣服屋?食堂なども建ち並び活気を呈しています。軒下は新しく板で覆い、門も木板ではなくシャッター化されているのですが、軒を支えるの突き出した梁の形をともかくも残しながら木板で覆っていて、まるで白旗が並んでいるかのような面白い光景がみられます。派手な看板だらけですが、ところどころ何かの間違えであるかのように、「毛」?「主」?「席」と、文化大革命時のスローガンが、店看板と変わらない字の大きさで書かれていて、これは思わず笑ってしまいました。この店は傘と洗面器のお店ですが、毛主席ブランドの店に見えてしまいます。
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成都現地旅行代理店

2018-01-04 10:02:33 | 旅行
街子古鎮は、成都から西に約57キロの崇州市の西に位置し、世界遺産の青城山の後山にも隣接しています。古鎮の歴史は古く、五大十国時代には、味江(河)の河畔にあったので横渠鎮と呼ばれていました。木造家屋に黒い瓦屋根のひなびた町並みが美しく、街子古鎮の写真集も出ているほどです。ただ、2008年のブン(さんずいに文)川大地震で大きな被害を受けたので、その後、修復や再開発によって街並が変わってしまっているかもしれません。成都の茶店子バスターミナルから1時間半かけて街子古鎮に行くと、予想通りの展開でした。古鎮の入り口は、昔風の町並みを再現した商店街になっていました。

街子古鎮は、ブン川大地震が起きるまでは、ひなびて静かな古鎮だったのでしょう。その後、地震の被害を受けた建物を修復し、2010年には「四川最美古鎮(四川で最も美しい古鎮)」に選ばれ、その年の終わりには「国家4A旅游区」に認定を受けました。それだけに観光地化は進んでいますが、戸数9765戸、人口31756人もいる大きな古鎮です。古く見せかけた建物が並ぶ商店街もあれば、本当に昔ながらの町並もまだまだ残っていて、両方が混在しています。観光地化されている分、古鎮グルメを楽しめるお店も多く、成都からの日帰り旅行にはもってこいです。さらに観光地化が進むと「やりすぎ感」が漂ってきますが、今はちょうどぎりぎりのところで踏みとどまっている感じと言えます。

この新しい商店街は、「葉児(イエアー)バ(米へんに巴)」や「老臘肉(ラオラーロウ)」などの名物を売るお店が並んでいて、つまみぐいにはもってこいです。商店街をズンズン歩き、味江に面した広場に出ると、清代の道光年間に建てられた宇庫塔があります。六角形、五層の宇庫塔の上部4層には「白蛇伝」などの壁画が書かれています。この宇庫塔の横に伸びている商店街が正真正銘の古い商店街です。今にも倒れそうなほど傾いた家や長い年月を感じさせる柱や梁に歴史を感じます。年季が入っているどころかボロボロの商店街ですが、ここでも名物を売るお店が営業中です。街子古鎮は、ひなびた古鎮というより、商売で元気いっぱいの古鎮と言った感じです。

中国四川省成都市にある街子古鎮で撮影した時に配られた散歩用の日傘。古鎮(伝統的な街並み)と日傘は絵柄としても相性が良いです。傘独特の装飾はアジア人だけではなく、ファッションとして欧米の方にもよく似合い、とても好評でした。
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都江堰パンダ基地へ行き方法

2018-01-04 09:56:54 | 旅行
成都パンダ谷(熊猫谷、都江堰パンダ繁育野放研究中心)
都江堰パンダ谷は、本プロジェクトは成都ジャイアントパンダ繁殖研究基地の都江堰での「パンダ谷」という野生化研究センターを援助するものです。本野生化研究センターは成都から50キロ離れた都江堰の玉堂鎮白馬村にあり、土地利用計画は2004ムー、資金計画は3億元で、野生化研究用の1.4平方キロに30~40頭のパンダ及び50~100頭のレッサーパンダなどの共生動物を入れる予定です。2010年5月に野生化研究センターの定礎式が行われ、2011年12月、第一期工事が竣工され、専門家の現場視察でもパンダの野生化研究に適当だとの論証を受けました。

現在、野生化研究センターは既にパンダ寮の建設、室内外の飼養設備、環境づくり、飼料とスタッフの配置の各方面で準備が完了しています。野生化研究センターの正門はパンダをイメージした高さ11メートルの金属製のデザインです。野生環境と似たこの実験区に移住したパンダは徐々に野生化生活に慣れるため、ひとまずトーチカのような寮に住まわせる計画です。 計画によると、最初に入園する6頭のパンダは、まず人工飼育パンダ向けの野生化訓練を受けてから、野生化の適応性に関する評価を受けることとなります。要するに、この6頭のパンダは今後野生化訓練を受けるより多くのパンダのために「先遣隊」となるのです。 今後二、三年のうちにスタートする野生化研究センターの二期目の建設工事には主に学術交流センター、繁殖用パンダ寮、青少年生態教育体験村、多機能映画館、科学研究室と観察ステーションなどの施設が含まれています。

一、成都ジャイアントパンダ繁殖研究基地都江堰野生化研究センター----専門家ワークステーション
   用途:国内外のパンダ専門家に科学研究の場を提供します。

二、成都ジャイアントパンダ繁殖研究基地都江堰野生化研究センター----パンダ寮
   用途:野生化予定のパンダの準備過程に応じ生活エリアを提供します。

三、成都ジャイアントパンダ繁殖研究基地都江堰野生化研究センター----パンダの教育村
   用途:パンダに関する科学知識の普及や、大衆の野生動物保護意識と行動を日常化する教育の場を提供します。

成都パンダ基地所属の施設ですが、成都が繁殖メインなのに対し、こちらは野生化を目指して作られた施設です。街から離れている山間、駐車場も閑散としていて入口付近に従業員以外見当たらない、静かな所です。正門は成都パンダ基地と同じデザインです。

都江堰パンダ谷の正門
中へ入場すると、まるでハイキングコースにでも行くような道が山の奥の方へと繋がっています。緑以外何も見えません。3期予定されている工事のうちまだ1期までで、広大な土地が確保されているようです。

パンダ谷の道
緩やかな坂道を上って行きます。側には川が流れています。昔はこの辺りもパンダの生息地だったそうです。それにしても他の見学者には一人も会わないのに、やたらと従業員が多いです。

パンダ谷は川沿いの谷の道を上って行く
順番を変更しまず野生化訓練区へと向かいます。現在このパンダ谷には15頭のパンダいるそうですが、野生化訓練を受けたり、その候補となっているパンダ以外のパンダもその中に含まれます。野生化訓練区に行く途中、一号舎の所を通ります。こちらの見学は後で。でもちょっと足を止めてしまいます。ここにいる3頭は2012年生まれのパンダたち、奥莉奥(オリオ)、園潤(ユェンルン)、淼淼(ミャオミャオ)です。野生化とは関係なくここで暮らすパンダたちです。

パンダ一号舎で暮らす12年組
この子たちは私が昨年成都パンダ基地を訪れた際に幼年園にいた7頭のうちの3頭です。お久しぶりです。起きているのは奥莉奥かな?中国のみならず世界中にファンのいる超人気パンダです。雄ですが、女の子のような丸くてかわいいパンダですね。パンダの野生化訓練基地 熊猫谷。 10頭ほどのパンダを見ることができます。新しい基地なのでとてもきれいです。 以前は入場無料でしたが、2015.04には58元になっていました。2015.04時点でパンダを抱いての写真撮影やボランティア体験は募集停止中でした。
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