フリージャーナリストの鈴木さんのレポート記事 「民の声新聞」から
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被曝を心配しながら汚染地に暮らす矛盾。その裏の「被曝隠し」~〝言行不一致〟の現実語る荒木田岳さん
- 2016/05/23
福島大学准教授・荒木田岳(たける)さん(46)の講演会が22日午後、東京都文京区内で開かれ、妻子を新潟県内に避難させ ながら、自分は福島に残って働いている事への葛藤を語った。「私も、脱被曝を口にしながら『言行不一致』だ」と語る荒木田さんはしかし、この〝ねじれ〟を 生み出した張本人こそ国だと指摘。被曝隠しが不本意な生活を強いているという。大学と闘い脱被曝に取り組んできた荒木田さんの言葉は、「被曝したくないな ら避難すれば良いじゃないか」と言うあなたにとって、汚染地を理解するひとつのヒントとなろう。
【「福島で暮らす人々の葛藤理解して」】
「責任を持って妻子を逃がしているというよりも、逃げ遅れて取り残されてしまった状態。不本意な事をさせられているのです」
荒木田さんの講演は、そんな言葉で始まった。ともすれば、家族を新潟に避難させている立派な夫・父親というイメージがつきまとう。しかし、そこには自己矛盾という〝弱み〟を抱えているという。そしてその〝弱み〟こそが、原発事故から5年が過ぎた福島の現実だと指摘した。
「福島に住み続けるかどうか悩みました。僕だって、健康被害が出る可能性がある事くらい、分かっています。死んだらお終いだとは思うが住宅ローンを抱え、 奨学金も返済しなければいけない。さっさと仕事辞めるわけにはいかなかったのです。次の仕事にうまく着地できなければ、別の終わりが待っていた。家族とう まくいっていたかどうかも分からない」
脱被曝を口にしながら、自分は5年間、汚染地域に残って働いている─。これを荒木田さんは「言行不一致」 と表現した。「本当につらいです。汚染地域に残って仕事をせざるを得ない〝弱み〟を抱えているのですから。でも皆、福島が安全安心と思いながら暮らしてい るわけではありません。」
決して楽観視していない、健康被害を憂慮している。でも…。福島の人々はそれぞれに、この「でも」を抱えている。自己 矛盾を解決するために、福島に残っている事への「言い訳」を用意しなければならなくなった、と荒木田さんは語る。それは仕事であり、住宅ローンであり、子 どもの部活動。自分の町が汚染しているという「事実認識」にも、どの程度汚染されているかという「状況評価」にも、仕事などの「置かれた条件」にも多様性 が存在する。「これらを掛け算した答えの分だけ個々の『事情』があると思ってください」と荒木田さんは強調した。
「デタラメな線引きをされたから住み続けないといけないし、言い訳をしないといけない。不本意さ、葛藤を理解する必要があります。福島県内外で、この点で距離感がある。この距離感を埋めないと、大きな敵と闘えないと思います。どうやって埋めるか考えています」
荒木田さんが用意した写真の中に、東北本線・日和田駅(郡山市)の壁に書かれた落書きがあった。「モルモット・フクシマ!」。今は消されている落書きにも、県外避難が叶わず放射線と共に福島県で生きることになった人々の不本意さが込められていたのかもしれない。
(上)都内で講演した荒木田さん。「避難していない人も、決して福島が安全安心と思いながら暮らしているわけではない」と強調した
(下)東北本線・日和田駅の落書き。やや読みにくいが「モルモットフクシマ!」と書かれている
【反対に遭った県外スクーリング】
デタラメな線引き。中通りには出されなかった避難指示。
どうして不本意な暮らしを強いられる事になったのか。
「過小評価に基づいて安全対策を怠って来た。『専門家以外は黙っていろ』という空気の中で、法律やルールに基づいた対応がなされて来なかったのです」。
例えばSPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)。「福島県庁にもシミュレーションは届いていたが握りつぶされた。メルトダウン(炉 心溶融)している事は、原発事故から2日後には現場では分かっていたのに、住民には知らされなかった」と憤る。「日本気象学会員の中には、善意で放射能の 拡散予測を指摘に公表した人もいたが、やめさせられたのです」。
東電の廣瀬直己社長は2013年10月の参議院経済産業委員会で、原発事故により大気中に放出された放射性セシウムが毎時2万超ベクレルに達したと述べている。小出裕章さんによれば、セシウム137だけの比較でも、広島に投下された原子爆弾168発分に相当するという。
「でも誰一人、自分がどれだけ浴びてしまったか知らないのです。一番、汚染が酷かった時のデータを欠いたまま、机上の議論だけが進んでいる。自分の被曝量 が分からないのに、『ここまで被曝しても安全』と言われても安心できません。しかも国は、避難指示区域を拡大するのではなく被曝線量を引き上げる (1mSv/年から20mSv/年)事で、何もしなかった」。そして「自主避難者」という名の避難者がうまれた。
荒木田さんが2011年5月、 勤務する福島大学の授業再開方針に反対し仲間の教員と連名で学長宛てに公開質問状を送付。しかし、大学側は「文科省の示した20mSv/年で良いという立 場はとっていない」としながらも「低線量被曝の影響については医学的に明確では無く、文科省の基準を参照せざるを得ない」として同月12日、授業を再開し た。ちなみに、大学側が試算した5月以降の学生の年間積算被曝線量は4・4mSvだった。
せめて学生の被曝リスクを低減しようと、福島県外での スクーリングプランを検討した。新潟市までバスで学生を送り、ホテルで一週間、授業をする構想だった。「半年、1年しのげば何単位与えられるかシミュレー ションしました。でも、学部長に提出前に同僚に潰されました。金は誰が出すのかなど、周りは総じて批判的でした」
まだ国や行政による除染活動が 始まっていない頃、除染活動に取り組んだ事もあった。「途方も無い作業で、放射性物質を取り除く事など無理だと思った。体調も良くなかった」。当時の女性 学部長からは「市民の不安をあおるから除染などやめろ」と叱責された。女性学部長は後に白血病で亡くなった。福島市での除染作業中、信夫山ふもとのヤマダ 電機駐車場では、線量計の数値は150μSv/hを超えていたという。
荒木田さんは、福島で配布されていたフリーペーパーを紹介しながら「原発事故当時、何が起こったのか詳細に記録して行く」と語った。早い段階で安全キャンペーンが展開されていた
【「脱原発ではなく脱被曝を」】
「これから何をするべきか正直、よく分からない」と話した荒木田さん。「まずは当時、何が起こったか詳細に記録して行こうと思う。そして福島第一原発事故を他山の石として、二度と繰り返さないことです」。
メディアを通じて連日のように発信された「安全宣言」。長崎大学の山下俊一教授は、立ち見まで出た福島市内での講演会で「ニコニコしていれば放射能は来ま せん」と語り、福島県内を隈なく歩いて同様の発言を繰り返した。行政も「放射能を正しく理解しましょう」と呼びかけた。「右から左まで『この程度の放射能 は浴びても大丈夫』と言っていた」。山下氏は、地元紙のインタビューで「利己的だ」と県外避難者を責めるような発言までした。「被曝問題はスルーされ、逆 にガレキ問題や〝食べて応援〟など、一億総被曝問題が出現したのです」。
「脱原発」の大合唱に隠れてしまった「脱被曝」。週刊誌に「脱原発では なく脱被曝を」と寄稿し、「あなたは被曝を強要する側に立つのか、それに反対する側に立つのか、とあえて挑発的な問題提起をした。反感を買ったが、こうい う言い方をしないと相手の心に届かないだろうと考えました。相当やられたが譲れなかったんです。原発の息の根を止めるには、被曝問題を直視するしかないん です」。
新潟大学の修士課程で学んでいた1994年、東北電力が新潟県巻町(現在の新潟市西蒲区)に計画した「巻原発」建設に対する住民運動に 直面した。住民投票で建設反対が上回り、計画はとん挫した。「あの運動が私の人生を変えました。父親は北陸電力の社員だったけれど、原発に批判的で干され ていた。定年退職するまで平社員でしたから」。少しでも線源から遠ざけようと、妻と2人の子どもを新潟市内に避難させたのは必然だった。
「原発事故から5年経ち、誰も何も語らなくなった。『忘却』が論点となっている」と語る荒木田さん。葛藤を抱きながら汚染地での生活が続く。
(了)