『3.11反原発福島行動'13』
1300人が「原発いらない」の声 福島でデモ行進
原発の廃炉や再稼働反対を訴えるデモ行進は11日、福島市で行われ、約1300人(主催者発表)が「原発いらない」と声を上げた。
震災から2年を迎え実施。「3・11反原発福島行動実行委員会」が全国にデモへの参加を呼び掛けた。
参加者は同市の県教育会館を出発し、県庁などを経由、JR福島駅に向かった。参加者は横断幕やのぼり旗を掲げながら「子どもを守ろう。原発ゼロに」などと訴えた。
(2013年3月12日 福島民友ニュース)
【3・11福島報告】 帰還急がせる政府 「原発事故で棄民される」

実行委員長の椎名千恵子さんは、原発事故の犠牲者に黙祷を捧げた。=11日、福島市内 写真:諏訪撮影=
福島の人々を不幸のどん底に叩き込んだ原発事故から2年が経った。まだ2年しか経っていないというべきなのだが、政府は再稼働に向けて突き進み、マスコミは復興を喧伝する。
「3・11をなかったことにしてはならない」。原発事故被災者や支援者がきょう、福島市で集会を開き県庁などにデモをかけた。(主催:3・11反原発福島行動実行委員会)
「復興ビジネス、復興キャンペーンばかりがまかり通る。(福島を取り戻すための)道筋を私たちがつけないと子どもの将来はない」。実行委事務局長の椎名千恵子さんは、集会とデモの意義を語った。
福島県教育会館ホールで開かれた集会には、大間原発建設予定地のど真ん中に立つ「あさこはうす」の小笠原厚子さんらが駆け付け、福島の脱原発運動にエールを送った。
小笠原さんは、電力会社の社員が「事故は起きません、安全です」と説明に来た時に母親が言い返した言葉を紹介した。「一度事故が起きたらもう(元に)戻らねえ。海も土地も戻らねえんだ。おめえらは保証してくれるのか?」
会場からは割れるような拍手が起きた。福島で実際起きていることを小笠原さんの母が予言していたからだ。
集会・デモ呼びかけ人の会田恵さんは会場の聴衆に次のように訴えた。「人間は弱い生き物です。札束でピシャピシャと頬を叩かれているうちに54基も原発ができてしまった。原発は人間の負の遺産でしかない。『ならぬものは ならぬ のです』(NHK大河ドラマ・八重の桜 キャッチフレーズ)と政府につきつけたい」。

「希望の牧場」の吉沢正巳さん。酪農に生きていた人生を原発事故によって無茶苦茶にされた。東電と国への恨みは深い。=福島教育会館 写真:諏訪撮影=
原発事故は静かに生きてきた人々の人生を一変させた。福島市内の主婦(68歳)は事故直後、24μSv/hの所で水汲みの順番待ちをしていた。彼女が食事や放射能について書き留めたノートは、この2年間で10冊以上になった。
「事故後初めての除染が近く来る。除染と言っても土をはいで袋につめて庭に穴を掘って埋めるだけ。いわきに住む孫には“あまりこっちに来るな”と言ってある」。
孫と会うささやかな幸せさえも奪った原発。「もう2年間原発なくてもやってこれてるじゃないか。このまま生活のレベルを下げても原発はない方がいい」。彼女は切々と語った。
憤りを露わにする人もいる。「希望の牧場」の吉沢正巳さんだ―
「浪江、双葉、大熊は町の意味を失った。人々は精神的に絶望状態。先が見えないから。仮設に2年も住んで、あと2年もいたら倒れてしまう。原発事故がひと度起きたら棄民される。見舞い金プラスアルファで国も東電も終わりにしたいのだ。逆らう奴は面倒見たくないというのが本音だ」。
政府は利権のためにあるような除染をむやみやたらと続け、住民の帰還を急がせる。健康な営みが取り戻せるかは二の次だ。
土地と暮らしを奪われた福島県の避難者は、2年経った今も15万4,157人(復興庁調べ・2月7日現在)にのぼる。
《文・田中龍作 / 諏訪都》
東日本大震災2年:82歳被爆者が福島で訴え
毎日新聞 2013年03月11日 18時31分(最終更新 03月11日 21時41分)
東日本大震災から2年を迎えた11日、福島市内であった反原発を訴える市民集会で、原爆の被爆者、下田礼子さん(82)=広島市=が「福島の皆さんと手を取り合って原発の再稼働に反対していきたい」と訴えた。「放射能の恐ろしさを伝えねば」という信念で、初めて福島を訪れた。
14歳の時、建物疎開の片付けに出ていた母親(当時43歳)を捜すため、原爆投下直後の広島市中心部に行き、残留放射線によって被ばくした。熱線で皮膚のただれた人々が「水をくれ」と助けを求めてきた光景が忘れられない。
母親は全身にやけどを負い、3日後に亡くなった。下田さんに健康被害はなかったが、20歳を過ぎたころ、鼻血がよく出た時期がある。当時は放射能の知識がなかったが、最近になって被ばくの影響を疑うようになった。
福島原発事故のニュースを見た瞬間、「取り返しのつかないことが起きた」と全身から血の気が引いた。「もう誰にも同じ悲しみを味わわせたくない」と願ってきたのに、事故が起きてしまった情けなさで、涙が止まらなかった。
集会では約1000人を前に「福島の人々の強さに驚いている。一緒に頑張りたい」と呼びかけ、こう力を込めた。「この年まで元気でいられるのは、原爆の犠牲者に見守られているから。私には放射能の恐怖を伝える責任がある」【田中博子】
だが、最悪のシナリオを想定するのはひどく難しい。
これは、平和ボケのようなものか。
太平洋戦争初期に、フィリピンの米比軍はキング少将もジョーンズ少将も投降して、75000人以上の将兵の命を救った。
太平洋戦争後期に、日本軍は米空軍の飛来をゆるし、1945年3月10日未明、東京の下町の江東地区がB29約300機による空襲をうけ、死者10万をこす被害を出した。
日本人の指導者には、作戦の成否を予測する力はないのか。
人命の尊重はどのように考えられていたのであろうか。