中公文庫
泡沫の三十五年 - 日米交渉秘史 (改版)
来栖 三郎【著】
中央公論新社(2007/03発売)
出版社内容情報
開戦が決定したことを知らされず、戦争を回避するための対米交渉を成功させようと心血をそそいだ特派全権大使が、ハル国防長官との息づまる折衝や真珠湾攻撃以降の日々を、悲痛な思いをこめてつづる。〈解説〉
「ハル国防長官」はないでしょうが。
著者紹介(「BOOK著者紹介情報」より)(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
来栖 三郎
1886年(明治19)、神奈川県横浜市に生まれる。元・駐米特派全権大使。東京高等商業学校領事科を卒業、43年外務省入省。漢口、ホノルル、ニューヨーク、シカゴ、サンチャゴ、ローマ、ハンブルクなどに在勤し、駐独大使となり、昭和15年日独伊三国同盟に調印。41年(昭和16)11月から特派全権大使として野村吉三郎大使を補佐、日米交渉の難局に当たったが、開戦を避けることができず、開戦後交換船で帰国。45年退官し、47年から51年まで公職を追放されていた。54年(昭和29)に死去した
来栖 三郎(くるす さぶろう、1886年3月6日 - 1954年4月7日)は、日本の外交官
1941年に緊急渡米した際は、マニラまで行って太平洋横断路線のクリッパー機上の人となったのだと知る。
情勢が緊迫していると承知する記者らから、新しい提案を持っていくのか?と聞かれるが、特にないと回答。
辛い役目をおわされたもので。
来栖 良(くるす りょう、1919年1月8日 - 1945年2月17日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍技術少佐。戦闘機操縦者。
事故直後、来栖の家族には、不慮の事故による死亡では気の毒だという陸軍の配慮もあって、「迎撃戦闘時に被弾負傷、帰還後に死亡」と伝えられ、これが大本営の公式発表とされ、来栖少佐の戦死を報道する当時の新聞各社の記事[5]や、戦後の靖国神社遊就館内での展示内容においても同様となっている。
フィラデルフィア日記
来栖三郎大使の息子。
読みました『泡沫の三十五年 日米交渉秘史』 (来栖三郎 中公文庫 4-12-201350-X 昭和61.7.25印刷 昭和61.8.10発行)
泡沫の三十五年 - 日米交渉秘史 (改版)
来栖 三郎【著】
中央公論新社(2007/03発売)
出版社内容情報
開戦が決定したことを知らされず、戦争を回避するための対米交渉を成功させようと心血をそそいだ特派全権大使が、ハル国防長官との息づまる折衝や真珠湾攻撃以降の日々を、悲痛な思いをこめてつづる。〈解説〉
「ハル国防長官」はないでしょうが。
著者紹介(「BOOK著者紹介情報」より)(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
来栖 三郎
1886年(明治19)、神奈川県横浜市に生まれる。元・駐米特派全権大使。東京高等商業学校領事科を卒業、43年外務省入省。漢口、ホノルル、ニューヨーク、シカゴ、サンチャゴ、ローマ、ハンブルクなどに在勤し、駐独大使となり、昭和15年日独伊三国同盟に調印。41年(昭和16)11月から特派全権大使として野村吉三郎大使を補佐、日米交渉の難局に当たったが、開戦を避けることができず、開戦後交換船で帰国。45年退官し、47年から51年まで公職を追放されていた。54年(昭和29)に死去した
来栖 三郎(くるす さぶろう、1886年3月6日 - 1954年4月7日)は、日本の外交官
1941年に緊急渡米した際は、マニラまで行って太平洋横断路線のクリッパー機上の人となったのだと知る。
情勢が緊迫していると承知する記者らから、新しい提案を持っていくのか?と聞かれるが、特にないと回答。
辛い役目をおわされたもので。
来栖 良(くるす りょう、1919年1月8日 - 1945年2月17日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍技術少佐。戦闘機操縦者。
事故直後、来栖の家族には、不慮の事故による死亡では気の毒だという陸軍の配慮もあって、「迎撃戦闘時に被弾負傷、帰還後に死亡」と伝えられ、これが大本営の公式発表とされ、来栖少佐の戦死を報道する当時の新聞各社の記事[5]や、戦後の靖国神社遊就館内での展示内容においても同様となっている。
フィラデルフィア日記
来栖三郎大使の息子。
読みました『泡沫の三十五年 日米交渉秘史』 (来栖三郎 中公文庫 4-12-201350-X 昭和61.7.25印刷 昭和61.8.10発行)