真似屋南面堂はね~述而不作

まねやなんめんどう。創業(屋号命名)1993年頃。開店2008年。長年のサラリーマン生活に区切り。述べて作らず

『千の太陽よりも明るく―原爆を造った科学者たち』 (ロベルト・ユンク著 菊盛英夫訳 2000年)

2015-09-02 | 読書-歴史
平凡社ライブラリー
千の太陽よりも明るく―原爆を造った科学者たち
ユンク,ロベルト〈Jungk,Robert〉/菊森 英夫【訳】
平凡社(2000/09発売)

目次
変転する時代(1918―23)
美わしき歳月(1923―32)
政治との衝突(1932―33)
予期せざる発見(1932―39)
信頼の崩壊(1939)
ヒトラーの原爆への恐怖(1939―42)
研究所、兵営と化す(1942―45)
オッペンハイマー、擡頭す(1939―43)
板ばさみの人間(1943)
科学者狩り(1944―45)〔ほか〕

『原爆を盗め!―史上最も恐ろしい爆弾はこうしてつくられた』 (S.シャンキン著梶山訳 2015年)
を読んだ記憶も新しい中、図書館の棚で見かけたので。

芽咲みや(Miya Chisaki)さん評

ロベルト・ユンクはドイツ出身のユダヤ系ジャーナリスト。1913年ベルリンに生まれたが、ナチ政権成立を機にパリへ亡命、第二次大戦中は反ナチス運動(レジスタンス)に携わった。

菊盛 英夫(きくもり ひでお、1909年2月14日 - 2001年12月12日)は、日本の文学研究者、ドイツ文学者、映画・文芸評論家

訳者による2000年7月の平凡社ライブラリー版あとがきによれば、ある日匿名(科学者と称する)の電話があって、どうして再刊しないのかと問われた云々とあり。
40年ぶりの再刊であると。

“Brighter than a Thousand Suns”, A Personal History of the Atomic Scientists, by Robert Jungk, was first published in 1956.

訳文の再検討、補正、校正等には**大学名誉教授**君の手を煩わせた、ということで、訳者91歳の大先輩なもので、名誉教授も**君になってしまうw
版元の担当者や校正者ももちろん尽力して綿密に云々と。

といいつつ、昭和20年7月に「東条首相」からモスクワの佐藤駐ソ大使に無線で緊急訓令を発したというのは、間違いだわね。
戦中の日本の首相と言えばTojoだと著者が思い込んでいたのか、または外相のTogoを誤ったのか。

大使に指示するのだから、外相からのような気がするが、そうそうたるチェック陣すり抜け。
鈴木貫太郎内閣:1945年(昭和20年)4月7日から同年8月17日まで

それと、人名を含む固有名詞のカナ表記が、現在日本で一般的に行われている表記と違う例が散見されて、ややこしい。
テーラー は、テッテル・エデ改め、Edward Tellerなので、テラーと表記されるのが普通だし、
フェイマン は、 Richard Feynmanで、日本ではファインマンと表記されている
などね。

話変わって、
初期の臨界事故:デーモン・コア(Demon core)

1945年の犠牲者Harry K. Daghlian, Jr.
本書ではダグニアンと表記。
ダリアンのような気がするが、ま、名前の読み方は何とも言えないね。

1946年の犠牲者ルイス・スローティンLouis Alexander Slotin

語られぬ69年前の臨界事故 ― 悪魔の球体デーモン・コア、約1分間の恐怖

さらに別件。
1943.10. 6にニールス・ボーア イギリスへ亡命の際に、
外交郵便用モスキート爆撃機の弾薬庫にパラシュートをつけて搭乗,高度飛行の為ボーアは酸欠で気絶
という話もちゃんと書いてある。
原子爆弾年表 1942-1944

ドイツ機に襲われたらボムベイを開いて落としてしまう(ボーアが生きてドイツ軍に捕らわれ足りしたら大変なので、その場合は処分)段取りだったとも。
そこまでのプランだったとは初めて知る。

原子爆弾年表 1942-1944

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