真似屋南面堂はね~述而不作

まねやなんめんどう。創業(屋号命名)1993年頃。開店2008年。長年のサラリーマン生活に区切り。述べて作らず

敗将の通訳を務めた牧師の息子は捕虜仲間の世話に奔走する「背の高い寝ない男」。戦後は戦犯追及の鬼に

2010-03-20 | 読書-歴史
『知日家イギリス人将校シリル・ワイルド―泰緬鉄道建設・東京裁判に携わった捕虜の記録』
原書名:Cyril Wild:The Tall Man Who Never Slept
(Bradley,James)ブラッドリー,ジェイムズ【著】
小野木 祥之【訳】
明石書店 (2001/08/15 出版) 品切・重版未定
著者紹介の中の、"シンガポール陥落で捕虜となり、泰緬鉄道からの脱走者としてはただ二人の生存者となった。日本軍によるかれへの扱いは、東京戦争裁判でも証言された。"

3/14付「それでもぼくは生き抜いた」の
五話 命を賭けた脱出、死刑寸前の救命――ジム・ブラッドリーとシリル・ワイルド
   シンガポールから泰緬鉄道へ、そしてシンガポールへ
で取り上げられた話。

The Times June 4, 2003
著者James Bradleyの訃報記事
PoW whose audacious escape in Burma astonished even his Japanese captors after he was retaken

日本側は当初、「まさかそんな遠くまで逃げられるわけはない。飛行機から降下したのだろう」と考えた由。
そうではなく、実際に脱走して途中何名か死亡脱落した末に現地人に保護されたのだとわかると、これまでの脱走者のように見せしめのために裁判なしで銃殺しようということになる。

駆けつけたワイルド少佐、「このような勇敢な兵士らを処刑してしまうことは、天皇や日本軍の名誉を汚すことになる」との論法で説得を試み、成功する。
脱走兵は裁判にかけられ、命拾い。

この命の恩人のワイルドの評伝を、助けられた兵士が後年著したのが本書。
日本語ができるうえに、日本でビジネスに従事したことから、日本人の発想にも通じていたワイルドは、もめごとなどあると駆けつけて収拾に奔走。

「生意気な」とばかり、ワイルド自身が殴打されたこともある由。
でも、ひるまず日本側に立ち向かっていったワイルドは、捕虜仲間にとって守護神。 
国教会牧師の家に育ったこととも無関係ではなさそう。他の3兄弟はいずれも牧師になる。

日本側からは、「あいつ、いったいいつ寝てるんだろうか?」と見られ、それが転じて、「背の高い寝ない男」と呼ばれていた由で、原題はその呼び名によるもの。

英軍の捕虜全員が何らかの形でワイルドの世話になったといわれる。
戦後は戦犯の訴追に執念を燃やし、日本側から「復讐の鬼となった」と評価される。

多くの虐待場面などに立ち会ったことから、自分がやらなければならないとの使命感がそうさせたのだろう。
戦犯容疑者の見分けがつくこともあって軍当局に呼ばれたのも当然だし、死んだ戦友らの霊からも「仇を取ってくれ」と呼ばれたのだろう。
Report of Condition of P.O.Ws in Thailand
May to December 1943

チャンギ俘虜収容所のワイルド少佐が、タイの俘虜の状況に関して提出したレポート?

the Far East Prisoner - of - War Association ( 1941 -45 ) ( London )

Far East Prisoners of War
From Wikipedia, the free encyclopedia
和文がない=日本ではさほど関心がもたれていない?

The Tall Man Who Never Slept
by James Bradley

【パーシヴァル中将の降伏場面に同行した件】
The British surrender team of 1942
National Library Board Singapore

各資料にも掲載されている有名な写真で、向かって左で白旗を持つのがワイルド少佐。
(戦前の日本留学経験があったりする)日本語通訳人材は、日本の捕虜になったりすると戦前の情報をもとに危険にさらされる可能性ありということで事前に脱出しており、通訳要員ではなかったが、日本勤務(ライジングサン石油会社)経験ありで日本語可能なワイルドが駆り出された。
俺だって(日本居住経験あるんだから)同じじゃないか、と思いつつも、言葉のできる者が果たせる役割があるとの使命感があったという。
室内での交渉場面でも、キョトンとした顔であーだこーだと条件を並べたてる中将の隣で通訳するのがワイルド。
じつは、「ワイルドは辞書ばかり引いていてぱっとしない通訳ぶりだった」との記載がある資料もあるらしい。
(捕虜収容所では、捕虜仲間からはとにかく頼りにするしかないわけで、「すごい!」と称賛の対象となったのも当然か。)

山下大将がイライラしている様子が画面からもわかる。
日本側通訳(陸軍高官の子息で通信社記者、陸軍士官学校中退)も軍事用語に明るくないため、大いにもたついたとの記録もある。
同記者は、帰国後、一時期、対米放送番組「日の丸アワー」に従事する(池田氏転出の後)。

時間が経過して日本側の弾薬不足がばれても困るのに、英将はごちゃごちゃ条件を並べたてる、通訳はもたつくし、とにかくイエスかノーかだけでもはっきりさせてもらわないと、というのが背景だったようだ。
机をたたいたのは通訳への怒りを表したのが真相だそうだが、英側をどやしつけたように受け止められ、結果として交渉がスピードアップした、ってわけ?
(通訳は途中から杉田中佐に交代)

シンガポールの博物館の蝋人形にもなっているのか。

杉田 一次(すぎた いちじ、1904年(明治37年)2月12日 - 1993年4月12日)

杉田中佐(後に大佐。戦後、陸上幕僚長)

空から撒かれた投降勧告文

明日に続く

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