真似屋南面堂はね~述而不作

まねやなんめんどう。創業(屋号命名)1993年頃。開店2008年。長年のサラリーマン生活に区切り。述べて作らず

人間吉田茂―昭和の大宰相の生涯 塩沢 実信 1989/05

2023-03-01 | 読書-歴史
図書館の除籍廃棄本棚から
人間吉田茂―昭和の大宰相の生涯
平成に代わってすぐね。
1998年には文庫化
光人社NF文庫
人間吉田茂 - 昭和の大宰相の生涯


第1章 血筋と境遇(出生をめぐって;養父とその家族 ほか)
第2章 暗い時代の予感(「性質正良」;結婚と家庭と;岳父・牧野伸顕の存在;張作霖元帥への嫌悪 ほか)
第3章 和平への努力(幻の外務大臣 ほか)
第4章 政治の舞台(天皇とマッカーサー ほか)
第5章 運命の選択(碧眼の大君の言質;占領下の政局;負けっぷりは立派に ほか)
第6章 昭和の大宰相(燃えつきた巨星;大磯の日々)

ジョン・ダワー『吉田茂とその時代
はしばしば引用。

これはずっと下ってからだからな。
『吉田茂とその時代―敗戦とは』 (岡崎 久彦さん 2002年) - 真似屋南面堂はね~述而不作

・オールドリベラリストで急激な改革を好まない吉田は、現実派のGIIに心を通わせ、民生局を敬遠し、総司令部に用事があれば、民生局に顔を出さずに直接、マッカーサーを訪ねていた。
・明治の指導者たちのすぐれた「勘」を高評価。
「勘というものは幸運と同じように、つくり出そうとしてつくり出せるものではない。それらはともに、すぐれた歴史の感覚をもち、勤勉に働く国民に与えられる一種の贈り物のようなものである。自分たちの成功に酔ったり、実力を過信する人びとには、幸運も『勘』も与えられはしないないのである。日本の歴史もそのことを示している。」
・日本の農村は(農地改革によって)小作争議の温床から保守政権の安定基盤へと変わっていった。
・不思議と生粋の軍人連とは気が合った。~占領軍の高官との間だけでなく、旧日本軍の幹部ともそう言えた部分があった(朝鮮総督だった寺内正毅<陸相兼務>とは大いにウマが合った)。
・講和会議からの帰途、側近に(白洲?)それとなく引退を進められたが「今引退すれば、神様のようにもてはやされるだろうね」と答えながら、引退など眼中になく、以後ボロボロに・・・。
・宋美齢と麻生和子の対決!(吉田・蒋介石の会食に同席時)

サンフランシスコ平和会議における吉田茂総理大臣の受諾演説
1951年9月7日

千島列島及び南樺太の地域は日本が侵略によつて奪取したものだとのソ連全権の主張は、承服いたしかねます。日本開国の当時、千島南部の二島、択捉、国後両島が日本領であることについては、帝政ロシアも何ら異議を挿さまなかつたのであります。ただ得撫の北の北千島諸島と樺太南部は、当時日露両国人の混住の地でありました。1875年5月7日日露両国政府は、平和的な外交交渉を通じて樺太南部は露領とし、その代償として北千島諸島は日本領とすることに話合をつけたのであります。名は代償でありますが、事実は樺太南部を譲渡して交渉の妥結を計つたのであります。その後樺太南部は1905年9月5日ルーズヴェルトアメリカ合衆国大統領の仲介によつて結ばれたポーツマス平和条約で日本領となつたのであります。
 千島列島及び樺太南部は、日本降伏直後の1945年9月20日一方的にソ連領に収容されたのであります。
 また、日本の本土たる北海道の一部を構成する色丹島及び歯舞諸島も終戦当時たまたま日本兵営が存在したためにソ連軍に占領されたままであります。

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