真似屋南面堂はね~述而不作

まねやなんめんどう。創業(屋号命名)1993年頃。開店2008年。長年のサラリーマン生活に区切り。述べて作らず

『戦略家ニクソン―政治家の人間的考察』 (田久保 忠衛さん 1996年)

2015-08-21 | 読書-歴史
中公新書
戦略家ニクソン―政治家の人間的考察
田久保 忠衛【著】
中央公論新社(1996/07発売)

一番興味を惹かれる政治家は、リチャード・ニクソンだね

中国「封じ込め」論広がる米国、関与政策に反省も - WSJ
ソ連との対立は当時のニクソン大統領を積極的な対中政策へ向かわせた理由だった。だが、パワーバランスを重要視する現実主義者だったニクソン大統領でさえ、自身の対中政策がどんな結果をもたらすのか確信を持てなかった。1994年に死去したニクソン氏は晩年、米紙ニューヨーク・タイムズのコラムニストだったウィリアム・サファイア氏(故人)にこう話した。「われわれはフランケンシュタインを作ってしまったかもしれない」と。

中国をフランケンシュタインにしたのは誰だ?
第7回米中戦略・経済対話~中国株式会社の研究(267)

“We may have created a Frankenstein.”(われわれはフランケンシュタインを作ってしまったのかもしれない)

1994年に死去したリチャード・ニクソン元大統領は晩年、米紙ニューヨーク・タイムズの保守派コラムニストだったウィリアム・サファイアにこう話しかけたという。米国内ではかなり有名な話で、今でも中国に懸念を有する保守派の政治家・研究者・記者の間ではよく引用されている。

予備
中国をフランケンシュタインにしたのは誰だ? 第7回米中戦略・経済対話~中国株式会社の研究(267)

William Safire Biography
Journalist (1929–2009)

Born in New York City in 1929, William Safire spent his early career as a speechwriter and public relations writer, also working as a special assistant to President Richard Nixon.

一九八八年の七月二十日に、私は沖縄返還を巡る日米「二国間交渉」で少なからぬ役割を演じた国務次官アレクシス・ジョンソンをワシントンのマンションに訪ね、「沖縄の『核抜き』の意味はむしろ中国向けシグナルにあったのであって、それを知らなかった日本 ...

アメリカよ・新ニッポン論:検証(その2) 沖縄返還交渉
◇中国向けだった「核の撤去」
当時、米国は中ソ対立が深刻化している情勢をふまえ、中国との関係改善を視野に入れて動いていた。メースBは、実質上は中国向け。撤去は中国への重要なシグナルになる。米国が沖縄からの核撤去に踏み切ったのは、地上配備核の重要性低下以上に、国際政治のダイナミズムがもっと大きな理由だった。

 返還交渉に外務省アメリカ局長としてかかわった吉野文六氏は「沖縄の核抜き返還は、キッシンジャー米国務長官が中国に対して色をつけた意味がある。頭がいいやり方だったが、当時、我々は全くそうとは意識していなかった」と振り返る。

 米軍は「核抜き」返還の合意後、大っぴらにメースBの撤去作業を行い、日本の新聞でも写真が載った。その映像を日本世論向けとばかり思い込み、中国政府向けの重要なサインだったことを理解していなかった日本は、間もなくニクソン米大統領の電撃訪中宣言(71年7月)に「外務省最大の悪夢」と驚くことになる。

予備:
アメリカよ・新ニッポン論:検証(その2) 沖縄返還交渉
毎日新聞 2009年5月5日 東京朝刊


未だに、沖縄返還の際の核抜き云々の件を振り返る記事等には、中国との関係に言及がない。
当時の国内の認識のレベルにとどまり続けることを決意している本邦マスコミ?

どうでもいいけど、沖縄にも配備されていたSR71を「偵察爆撃機」と2回も記載しているのは残念。

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