いせ女史と車中で激論を交わすなどした当時若手の外交官。
若手と言っても30代ね。
Charles Eustis “Chip” Bohlen (August 30, 1904 - January 1, 1974)
In 1940-41 he worked in the American Embassy in Tokyo, and was interned for six months before release by the Japanese in mid-1942.
ふむ。
モスクワでモロトフから開戦の通告を受けるが、大使館の電話回線は切断されていたという話をどこかで読んだ。
佐藤 尚武(さとう なおたけ、1882年(明治15年)10月30日 - 1971年(昭和46年)12月18日)
[PDF] 本書 「佐藤尚武の面目」
NHKスペシャル|終戦なぜ早く決められなかったのか
NHKオンデマンド | NHKスペシャル 終戦 なぜ早く決められなかったのか
Nスペ「終戦 なぜ早く決められなかったのか」(全編動画付き)
20120815 #NHK スペシャル「終戦 なぜ早く決められなかったのか
「久米宏ラジオなんですけど」2012年8月18日のオープニングトーク。
2012年8月15日の敗戦記念日に放送されたNHKスペシャル「終戦 なぜ早く決められなかったのか」について久米さんが語っています。
微妙。
そう簡単なものじゃないということは、昭和20年のモロモロの展開をちょっと学べば気付く筈のこと。
表面的に撫でただけだと、何でも言えるのだろうけれど。
原爆2発にソ連の参戦というdevastatingなことがあったからこそ、強硬な陸軍もあきらめがついたし、天皇が「もうやめにしよう」と決断することができたのだと思う。
もし、ずっと早い段階で終戦への動きが表面化していたら、間違いなくつぶされていたと思う。
8月15日に向けて、遅きに失したとはいえようやく終戦に向けて関係者の合意ができたあの段階であっても、東郷らがどれだけのエネルギーを必要としたか、少しの理解があれば…。
それくらい当時の軍のごりごりの連中は思考が硬直化していたと思う。
もし終戦への動きが早期につぶされていたら、無駄な徹底抗戦で北海道占領どころでは済まなかったかもしれない…と思う。
鈴木貫太郎
終戦工作
藤村 義朗(ふじむら よしろう、1907年(明治40年)2月24日 - 1992年(平成4年)3月18日)
ベン・ブルース・ブレイクニー(Ben Bruce Blakeney, 1908年 - 1963年3月4日)は、アメリカ合衆国の陸軍軍人・弁護士。
Major Benjamin Bruce Blakeney Jr.
西 春彦(にし はるひこ、1893年4月29日 - 1986年9月20日)は、大正・昭和期の外交官。太平洋戦争開戦時の外務次官である。
晩年まで核兵器廃絶運動に尽力する一方で、鈴木東民(読売争議の指導者で当時釜石市市長)らと、東郷の著作と伝記編纂(後に萩原延壽による伝記の執筆と、遺著「時代の一面」の刊行に至った、原書房)に奔走した。
「茂坊及和坊のにこにこしたすがたがいつも眼の前に浮かんで来るが、身体も精神も健全に発育するやうに祈って居る」(祖父の獄中からの手紙)だそうで。
の、茂坊の作品。
東郷 茂彦
<東郷家シリーズ>
若手と言っても30代ね。
Charles Eustis “Chip” Bohlen (August 30, 1904 - January 1, 1974)
In 1940-41 he worked in the American Embassy in Tokyo, and was interned for six months before release by the Japanese in mid-1942.
ふむ。
モスクワでモロトフから開戦の通告を受けるが、大使館の電話回線は切断されていたという話をどこかで読んだ。
佐藤 尚武(さとう なおたけ、1882年(明治15年)10月30日 - 1971年(昭和46年)12月18日)
[PDF] 本書 「佐藤尚武の面目」
NHKスペシャル|終戦なぜ早く決められなかったのか
NHKオンデマンド | NHKスペシャル 終戦 なぜ早く決められなかったのか
Nスペ「終戦 なぜ早く決められなかったのか」(全編動画付き)
20120815 #NHK スペシャル「終戦 なぜ早く決められなかったのか
「久米宏ラジオなんですけど」2012年8月18日のオープニングトーク。
2012年8月15日の敗戦記念日に放送されたNHKスペシャル「終戦 なぜ早く決められなかったのか」について久米さんが語っています。
微妙。
そう簡単なものじゃないということは、昭和20年のモロモロの展開をちょっと学べば気付く筈のこと。
表面的に撫でただけだと、何でも言えるのだろうけれど。
原爆2発にソ連の参戦というdevastatingなことがあったからこそ、強硬な陸軍もあきらめがついたし、天皇が「もうやめにしよう」と決断することができたのだと思う。
もし、ずっと早い段階で終戦への動きが表面化していたら、間違いなくつぶされていたと思う。
8月15日に向けて、遅きに失したとはいえようやく終戦に向けて関係者の合意ができたあの段階であっても、東郷らがどれだけのエネルギーを必要としたか、少しの理解があれば…。
それくらい当時の軍のごりごりの連中は思考が硬直化していたと思う。
もし終戦への動きが早期につぶされていたら、無駄な徹底抗戦で北海道占領どころでは済まなかったかもしれない…と思う。
鈴木貫太郎
終戦工作
藤村 義朗(ふじむら よしろう、1907年(明治40年)2月24日 - 1992年(平成4年)3月18日)
ベン・ブルース・ブレイクニー(Ben Bruce Blakeney, 1908年 - 1963年3月4日)は、アメリカ合衆国の陸軍軍人・弁護士。
Major Benjamin Bruce Blakeney Jr.
西 春彦(にし はるひこ、1893年4月29日 - 1986年9月20日)は、大正・昭和期の外交官。太平洋戦争開戦時の外務次官である。
晩年まで核兵器廃絶運動に尽力する一方で、鈴木東民(読売争議の指導者で当時釜石市市長)らと、東郷の著作と伝記編纂(後に萩原延壽による伝記の執筆と、遺著「時代の一面」の刊行に至った、原書房)に奔走した。
「茂坊及和坊のにこにこしたすがたがいつも眼の前に浮かんで来るが、身体も精神も健全に発育するやうに祈って居る」(祖父の獄中からの手紙)だそうで。
の、茂坊の作品。
東郷 茂彦
<東郷家シリーズ>