先週、昨年からずっと気になっていた打越の霊泉を確認しに行くことができました。 この湧水は昔から出ているのですが、その水源はどこなのか分かっていません。たぶん打越の丘に浸み込んだ雨水や地下水が押されて崖下に到達しているものと思われます。 湧水のすぐ横に、その由来を書いた記念碑が建っています。 そこに書かれた文字は…… この霊泉は安政年間横浜開港時出入船舶に給水したものでその後大正十二年九月一日の関東大震災及び昭和二十年五月二十九日の大空襲の際この霊泉により数万市民の生命が救済された貴重なものである。 昭和四十八年二月二十五日 打越町内会長 山本平治 その霊泉がいま、こんなことになっています。 打越の坂を登っていく途中、右側には丘と擁壁が連なっていたのですが、現在、それらは削り取られ新しいマンションが建築中です。 以前はどんなであったか、状況がよく分かる写真が手元にありませんので、代わりにこちらのサイトをリンクしておきます。 こちらはグーグルの航空写真から。 そしてストリートビューから。 さて、ここでもう一度、現在の写真に戻ってみましょう。 こんな状態になっていますが、いったいどこから水が湧いてきているのでしょうか。 もう24,5年前のことになりますが、「打越の霊泉内部の平面図」というものを見せてもらったことがあります。持ち主は地元の古老で、それによると内部は格子状の構造になっていました。 ということは、地面から自然に染み出してきただけの水というわけではなく、明らかに人工的に造られた給水施設だったと思われるのです。 そこで思い出すのがA・ジェラール。この人はフランス瓦で有名ですが、元開港資料館の斉藤多喜夫さんによると、ジェラールは明治元年、中村字池ノ谷戸 (現在の中区打越) に水源を得て船舶給水業に着手したといいます。その名残が、現在の「打越の霊泉」なのでしょうか? そこで、こういうとき頼りになる『中区史』を開いてみました。すると、そこには、こんなことが書いてありました。 昭和3年に打越の切通しを開削したとき、崖の上の方の湧水の穴を覗いたことがある人の話が載っているのです。 穴の天井は岩盤ではなく、煉瓦のようなものでトンネル式になっていたといいます。 その口から300メートルほど先に、もう一か所、現在でも水の溜っている所があるので、昔はここまでトンネルでつながっていたのではないかと言っているのです。 ところが、この崖が昭和56年11月の大雨によってドッと崩れました。そのとき、高さ約7メートルの崖下から岩盤をくりぬいた水槽と、それにつながる横穴が発掘されたのです。 きれいな水が槽を満していたといいます。水槽は縦:約3.5メートル、横:約2メートル、深さは推定2.5メートルのものでした。 横穴は縦横とも推定1.5メートル。穴の岩盤はノミで掘削され、その横穴からはこんこんと清水が流れていました。 さらに、水槽の横からも、音をたてて陶管に導かれて流出入する水がありました。この水槽は長塚良水合資会社のもので、明治37年頃のものと推定され、船舶給水事業の唯一の遺構だと書いてあるのです。 ところが、崖の補修は防災上緊急に行う必要があり、結局、その水槽の上に擁壁が造られてしまったといいます。 はたして、この給水施設はジェラールのものだったのか、それとも『中区史』に書いてる長塚良水合資会社のものだったのか…… 実は古老から「打越の霊泉内部の平面図」を見せられたとき、いっしょに資金を出し合って内部調査をしないか、と相談を持ちかけられていました。当時はそんな金もなかったため、話しに乗ることはできませんでしたが、せめて平面図の写真を撮影しておくべきだったと、今になって悔やんでいます。 この図面が古老の家に残っていて、将来、公開されることを願うしかありません。 【打越の霊泉に関する参考サイト】 開港期の遺構 急傾斜地崩壊危険区域でのマンション建築 これが擁壁の断面です。昭和56年に造られたものなのでしょうかね。 ←素晴らしき横浜中華街にクリックしてね |
水道水を流しちゃうレベルの削り方ですね
人さまの土地とはいえこれはなんとも (^-^;)
あの状態で、どこから水が出ているのか不思議です。
裏側を覗きたかったけど、工事の人がいて…
残念ながら見られませんでした。
こんな風に配管されてたとは、びっくりです。
工事の後は、どうなるのでしょうか?
ちょっと心配です。
なんだか異様な光景です。
どうして水が出ているのか不思議…
今後どうなるんでしょうかね。
こちらのマンションの建設対策で
住民代表を務めていたものです。建設前、私もたくさんこの霊泉について調べまして、ジェラールの作ったもので間違いないという結論に達しました。マンション業者もレンガ造りのトンネルがあることも認めていました。町内会から横浜市にも調査依頼したのですが、マンション業者の私有地ということで、調査はかないませんでした。
打越霊泉の内面図があるということでしたが、この方は今もいらっしゃるかご存じですか?
初めて耳にしたお話ですので、大変興味深く、驚いております。
ただ、そこのお子さんたち、あるいはお孫さんたちが図面をお持ちになっているかもしれません。
その古老という方は石川町で花屋さんをやっている町内会長でした。
貴重な情報ありがとうございました。
明日早速『古老』のご家族と思われる方にお話伺いに行ってみますね!
打越霊泉については、これ以上調査が進まず諦めていた部分が多かったので、大変うれしく思います。
ありがとうございました。
何か進展があればお知らせしますね。
貴重なモノなので保存していると思いますが。。。
ここに花屋さんがありました。